違う女を抱くのは気持ちがいい。その分だけ俺の魂は腐って汚れていくような気がした。本当は秋奈一人でいい。でもその願いは通じない。だから、たくさん女を口説いて抱いた。心も通わさせず、体だけを重ね合わせた。
どの女を抱いたかなど、記憶に何も残っていない。適当に飲み歩いては口説き、抱くだけだった。
ピアノのレッスンに関してだけは真面目に取り組んだ。以前のように突発的な習い方ではなく週に一度、ちゃんと時間を作って行くようにした。俺は月の光を着々と仕上げていく。それ以外の時間は部屋でひたすらキーボードを弾いた。夜になると、抱く女を求め、夜の街を彷徨い続けた。
俺の心はどんどん腐っていく……。
ある日のレッスン中、俺は先生に言った。
「先生、ピアノって素晴らしいですね」
「でしょ?」
「ええ、この前、目の前でピアノを演奏したら女を五人抱けました」
俺の台詞に先生の顔つきが変わる。
「私はそんな事の為に…、あなたにピアノを教えたんじゃありません」
それだけ言うと、先生は俺に背を向けた。
図に乗った俺の台詞が、先生を傷つけてしまったのだ。先生の背中は小刻みに震えている。それで初めて俺は悪い事をしたと感じた。
秋奈に捧げる為に始めたピアノ。本当は俺にとってもっと崇高なものじゃなかったのだろうか?
先生への恩義はいつも感じていた。わがままな俺をいつでもニッコリ笑って受け入れてくれた。しかし今、その先生が泣いている。ひょっとして俺にピアノを教えた事を後悔しているのかもしれない。
俺は謝って、『ノクターン』をあとにした。
部屋でひたすら考えた。
俺にとってピアノってなんだろう……。
最近抱いた女たちからの着信が鳴る。俺は電源を切り放り投げた。
先生の言葉がずっと頭に残っている。
音楽とは感動。それは弾いた俺が一番理解している。どれだけ俺を癒してくれたのか。ピアノを始めて良かった。でも、この心の奥のどこかで何かが詰っている。
あれだけ週一で真面目に行った『ノクターン』も行かなくなった。先生に習った部分だけを反復しながら部屋で弾いた。
ザナルカンドを弾くと、秋奈の寂しげな横顔が浮かぶ。
月の光を弾くと、先生の悲しそうな表情が思い浮かぶ。
俺って最低だ……。
複雑な心境のまま毎日を食い縛って生きる。
そんな俺に対し、北方の対応は酷いものだった。
ビデオを買った客にサービスする缶コーヒー。いつも業者から買っていたが、ほとんど定価と変わらない値段だったので、俺は北方へ百円ショップなら二本百円で売っていると伝えた。
すると北方は「どこにある? これからはそこで買ってこい」と即決した。金に目がない男である。少しでも自分の取り分が増えると思ったのだろう。
俺は西武新宿駅前の通り沿いにある百円ショップへ行き、缶コーヒーをケースごと買いに行かされるハメになった。
今まで掛かっていたドリンク代が半分になったと分かった北方は味を占め、それからというものドリンクを買いに行く事まで俺の仕事となってしまう。余計な事を言ってしまったなと後悔したが、もう遅い。
人に頼むからどうでもいいと言った形で、北方はいつも無茶な要求をしてきた。
俺一人で十五ケース運んで来いと抜かす始末である。北方の自転車を借りて百円ショップまで行く訳だが、どうやって自転車に十五ケースも積めるのだろうか。俺は店の店員に頼み、台車を借りる事にした。『マロン』に到着しても、まだ地下まで運ばなければならない。面倒な作業だった。
ある日北方の自転車がパンクしていた事があった。
自分に見に覚えのない北方は俺のせいだと喚き、「早く自転車を直して来い」と命令する。
「どこでパンク修理なんてしてるんですか?」
「職安通り沿いのドンキホーテでしてるだよ。早く行って来い」
パンク代も渡さず、俺は自腹で自転車の修理をしてきた。あとで請求する為に領収書をもらっておく。
『マロン』へ帰り、北方へ「六百円でしたよ」と領収書を見せる。北方は領収書だけ奪い、「おまえがパンクさせたんだから、おまえの自腹だ」と訳の分からない事を言い、店を出て行ってしまう。
メチャクチャで酷い男だった。
客がいない状態で俺と北方二人きりの時は最悪だった。奴の自慢話を延々と聞かされるハメになるのである。
「俺はなあ~、色々なヤクザに顔が利くだよ。真庭組だろ? 橘川一家だろ? 西台もそうだし富士見興業もそうだ。まあ上の沖田会と笹倉連合もそうだな。唯一顔が利かないのが、城北ぐらいだな」
ヤクザ者にまったく興味のない俺にはどうでもいい話だった。それにヤクザに顔が利くからって一体何になるというのだろうか? そんな自慢話をする北方は、滑稽にしか見えない。
「俺はな、昔暴走族に入っていてな。東京を制覇したホワイトブラックって族だ。だから喧嘩だって半端じゃねえぞ」
五十台になって何を言っているのだろうか? ひょっとして俺をビビらせるつもりで言っているのか分からないが、それだけ強いなら格闘技の世界でも行ってみればいいのだ。それにプロレス、格闘技の経験がある俺に対し、俺は喧嘩が強いぞなんて、馬鹿にされているようにしかとれなかった。
いつも札束を三つほど持ち歩き、事あるごとに見せびらかす北方。そんな彼を歌舞伎町の住人たちは陰でこっそりと言う。
「金を持っているのは分かるけど、ああまでして金なんてほしくないよな~」
北方の評判は歌舞伎町でも話題に登るほど悪かった。
俺がパソコンを開きデータを入力していると、客が来た。
「お兄さん、あのさ、深川アリスの裏ってあるかな?」
「ちょっと待って下さい。今調べますから」
俺がエクセルデータで検索をすると、三点見つかる。客はパソコンを使いながら仕事をする俺を見て驚いていた。
「すごいね、君。ビデオ屋でパソコンを使っている人間って初めて見たよ」
気に入られたのか、その客は椅子に座り込んでずっと話し掛けてきた。その時北方が店に降りてくる。客がいるというのにバックから三百万円を取り出し、俺のパソコンの上に放り投げてきた。
「何をするんですか?」
「数えろ」
北方は客がいると、自分は金を持ってんだぞと言いたいが為にワザとこのような行為をしてくる男だった。
「社長さん、儲かってるんだね~」
客がそう言うと、北方は笑顔になりながら「そうでもないだよ」と嬉しそうに答える。こんな日常にウンザリしながらも、俺は『マロン』で毎日のように働いていた。
仕事を終え、店の近くの焼鳥屋で酒を飲む。あれから『ノクターン』には気まずくて顔を出していない。だから当然月の光は完成していないままである。
酒を飲む事で自分を誤魔化していた。気分が良くなるまで飲み続け、おみやげに焼鳥を十本頼んだ。
北方の性格。あれは生涯直らないだろう。嫌なら俺があの店を辞めればいいだけ。それよりももっと仲良くするように接したらどうだろうか? そう思って俺は『マロン』へ焼鳥を持っていった。
「ん、何だおまえ? 今まで帰らず飲んでいたのか?」
「ええ、たまにはと…。おみやげで焼鳥持ってきましたが、よかったら食べますか?」
「俺は二本ぐらいでいい。あとは上の連中に持っていってやれ」
ありがとうのひと言ぐらい言えばいいのに……。
期待した俺が馬鹿だっただけか。諦めて『グランド』へ焼鳥を持って行く事にした。インターホンを押すと、タイ人のブンチャイがドアを開ける。店内は珍しく多数の客がゲームをして忙しそうだった。
「何だ?」
「いや、良かったら焼鳥食べるかなと思いまして」
ブンチャイは黙って受け取ると、礼も言わずにドアを閉めた。
この野郎……。
まったく礼儀のないタイ人である。こんな連中に何かをしてあげようだなんて思う俺がどうかしているのだ。
再び飲みに行く。今日はこのまま歌舞伎町に泊まる事にしよう。明日は『グランド』へヘルプに行く日だ。家に帰るのが面倒だった。フラフラ道を歩いていると、同じビルの三階にある笹倉連合の組員とバッタリ会う。
「お、神威ちゃんじゃないの。何してんの?」
「あ、三井さん。いや、これから飲みに行こうかなと思いまして」
「じゃあ、その辺で一緒に飲もうぜ」
「いいですよ」
あのビルの人間で一緒に酒を飲むのは、このヤクザ者の三井が初めてだった。
三井は気さくなオヤジで、年齢をハッキリ聞いた事はないがおそらく四十後半ぐらいだろう。毎日『グランド』に千円だけを持ってくるポン引き連中が数名いたが、その金を徴収する係でもあった。何故ポン引きたちが『グランド』へ千円を渡しに来るのか不思議だった俺は、三井に聞いてみる事にする。
「ああ、あれはさ。うちで金を貸しているからだよ」
「ポン引きにですか?」
「そうそう。最初に五万円という契約で金を貸すわけね」
「ええ」
「ポン引きに手渡す時は利子の五千円を引いて、四万五千円を渡すの」
「利子が十パーセントって事ですか?」
「最初だけね。あとは毎日『グランド』へ千円ずつ持ってこさせるの」
「それを何日やればいいんですか?」
「ん、そんなの五万全部を一気に返すまでに決まってるじゃん」
「え?」
「毎日千円っていうのはただの利子分だけだよ。ヤクザ者から金を借りているんだぜ。そのぐらい当たり前だろう」
「……」
つまりポン引きたちは五万円を一括で返さない限り、永遠に千円を毎日持ってこなければならないのだ。さすがはヤクザ者のやり口だなと感心する。
「連中はさ、毎日客からちょっとずつボッタクっているからさ。毎日日銭はあるんだ。だから簡単にゲーム屋とか飲みにに行って使っちゃうわけね。だから五万円って金額を持っているポン引きはそういないもんなんだ」
絶対にこの筋から金を借りるのはやめよう。そう心に固く誓った。
この日はサウナへ泊まり、朝になると『グランド』へ向かう。今日は山田とのタッグでゲーム屋をやらなくてはならない。
俺が出勤すると、遅番の醍醐と秋元が笑顔で迎える。
「おはようございます」
「昨日は忙しかったようですね」
「珍しくですけどね。でもそうなると北方さん、INOUT差を丹念にチェックして、また抜けそうな台から抜けるだけ取りますから困ったものです」
この店の店長である醍醐も、北方の事をよく思っていないようだ。山田が出勤すると、締めをして遅番は上がる。
俺はゴミ箱を見て愕然とした。昨日の夜おみやげで渡した焼鳥が、まったく手付かずのままゴミ箱へ捨てられていたのだ。ブンチャイの奴……。
あの腐った性格のタイ人はいつかぶっ飛ばしてやりたかった。
朝は変わらず暇な店だった。負けの込んだミンミンが、ふて腐れてゲームをしているぐらいだ。
「山田、マッサージして」
「えー、勘弁して下さいよ~」
ワガママな中国人のミンミン。北方の女というだけで、回りも一目置いている。俺はいい事を思いつく。
「山田さん、俺がマッサージ行ってきますよ」
「すみません、神威さん」
「いえいえ」
総合格闘技へ復帰した二十九歳の頃、俺は家の近所の整体の先生に体のメンテナンスをしてもらっていた。その時その先生からの好意で治す技も教わる。一度だけ先生は意地悪そうな顔をして、「神威さん、実は眠くなるツボっていうのがあるんですよ」とその場所を教えてもらった事があったのだ。
あれからまだ一度も試した事がない。本当に眠くなるのか半信半疑だった。ミンミンみたいな女なら、試してみてもいいだろう。
「神威さん、マッサージうまいね」
「随分と肩が凝ってますね」
最初は普通にマッサージをしてやる。ミンミンは気持ち良さそうな顔をしていた。十分ぐらいしてから、眠くなるツボを試す事にした。
「ミンミンさん、ずっとゲームしているから目も疲れてますね。ちょっと痛いけど我慢して下さいよ?」
俺は右耳の後ろにある凹んだ部分を親指で押した。時間にして三十秒ほど押し続ける。
「どうですか? 楽になりましたか?」
「スッキリしたあるよ」
俺はリストへ行き、山田へ「ミンミン、もうじき寝ちゃいますよ」と言った。意味が分からない山田は不思議そうな顔をしている。
ノートパソコンを開き、ゲームをして時間を潰す。あと五分もしないでミンミンは眠くなるはずだが……。
「神威さん、神威さん。見て下さい。ミンミンの顔」
山田が小声で話し掛けてくる。見るとミンミンは今にも眠りそうな顔でうつらうつらしていた。かろうじてゲームをしようと目を懸命に見開くが、眠くて体がいう事を利かない。そんな感じに見える。
「見て下さい。ミンミン、すごい顔をしてますよ」
俺は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
テーブルの上で涎を垂らしながら眠るミンミン。客がいないのと同じである。
「すごいですね、神威さん。眠くなるツボなんてあるんですね」と山田は感心していた。俺は以前ミンミンに頼まれた保証人の話をしてみる。北方の名前が書いていない状態なのに、平気でサインしろと抜かす礼義知らずの女。
「それにしてもあんな北方さんの奥さんになろうなんて、やっぱ金目当てなんでしょうね」
「北方さん自体、結婚に関してはあまり乗り気じゃなかったみたいですから」
あの時の事を思い出すと腹が立ってくる。
「やっぱ世の中、金なんですかね」
「いや、そんな事ないと思いますよ」
「でも、北方さんを始め、歌舞伎町の人って、ほとんど奥さん外人ばかりなんですよ。ここのオーナーの渡辺さんの奥さんも中国人ですからね」
奥さんか…。秋奈が俺の奥さんになってくれるなら、すぐにだって結婚してもいいのにな。久しぶりに秋奈の事を思い浮かべた。もう俺の事なんてすっかり忘れてしまっているんじゃないだろうか。
月の光もあれ以来進んでいない。俺はいつだって中途半端な人間だった。パソコンはある程度使いこなせるようになった。だけど上には上がいる。最上さんなんて、俺のスキルを一としたら、千ぐらいの違いがある。
あんな腐った性格の北方に扱き使われ、俺はこれからもずっとこんな調子なんだろうか。
「神威さん、どうかしましたか?」
「え、いえ、何でもないですよ。北方のやってきた事をそのまま書いたら、面白い小説になるんじゃないかなと思いましてね」
「なかなかあんな酷い人間いませんからね」
「今度、北方のこれまでの所業を書いてみましょうか?」
俺は冗談で言ってみた。
「神威さんならできますよ」
「え?」
「神威さんって努力家じゃないですか。そう思ったら小説も書けるんだろうなって」
「俺が小説? 今までそんなのやった事もないですよ。冗談で言ってみただけです」
今まで真剣に打ち込んできたもの。
プロレスラーを目指し、日々トレーニングに打ち込んできた。
絵は学生時代、センスだけで描いていた。秋奈と出逢う事で少しでも喜ばしたい。そんな気持ちから久しぶりに描いた。彼女はとても喜んでくれたっけな。
ホテルでバーテンダーとしての技術、心構え。いつだって酒に対しては真面目に取り組んで勉強してきた。
ピアノ…。秋奈と出逢い、俺は彼女に聴かせたいという想いからピアノを始めた。未だ彼女にはザナルカンドを捧げていない。
パソコンは、最上さんから徹夜で週末になると教わっている。あまりにも色々な事ができるパソコン。俺は何をしたいのかある程度目標を絞り、最上さんから色々教わっていく。詳しくなる度、この人は本当にすごいという事が分かる。少しでも追いつきたかったが、無理だと感じた。これほどレベルの違いを感じるのも珍しい。
「俺は中学生の頃から毎日のようにいじってんだぜ? 差があって当たり前じゃん」
そう言って最上さんは笑っていた。
ん、待てよ? パソコンのスキルなら最上さんに追いつけなくても、ワードを使って小説を書いてみたらどうだろうか? さすがの最上さんも小説を書くなんて思ってもみないだろう。正攻法で駄目なら、違う角度で追いつければいい。
これは大和プロレス時代に知り合った偉大なる師匠、ヘラクレス大地さんを見てそう思った事である。今は亡き、大地師匠。初めて接した時あまりのスケールの大きさに対し、いかに自分がちっぽけな存在かを思い知らされたものだ。追いつきたかった。しかしまともに同じ事をしていたのでは永遠に追いつけない。完全なる善玉だった師匠。だから俺は真逆であるヒール、悪党の道を意識して歩んできた。プロレスが駄目になってからも、ヒールでいようと決めた。どんな形でもいい。俺は大地師匠に少しでも追いつきたかったのだ。あの人が生きていたなら俺は、未だ頑張ってリングの上で戦う事を選んでいたかもしれないな……。
大和プロレス時代にいた誇りを最近忘れていたようだ。
決して自分を見失うな。俺はあくまでも俺でしかない。だから自分なりの亜流で頑張ってみればいい……。
「山田さん、俺、小説をやってみますよ」
俺は新たなジャンル、小説に挑戦してみようと決めた。
家に帰ってから作品の内容を考えてみる。北方の所業をいきなり書くのは簡単である。しかしもし仮にそれが世に出たとして、読者はこれを信じるだろうか? 絶対に漫画のように空想の話だととられるだろう。それじゃ小説を書く意味合いがいまいちだ。
では、どうする?
俺が人と違う経験をしてきた事を活かし、話を作るしかない。まずは歌舞伎町を知ってもらわないと話にならないだろう。
この街に一番始めに来て働いたゲーム屋『ダークネス』。あそこのオーナー鳴戸は本当に酷かった。北方とはまた違う種類の酷さである。俺を気に入ってくれたまでは良かった。しかし、ヤクザ者の親分のところへ連れて行かれ、危うく組員にされ掛けたのだ。これを元に書いてみるかな…。いや、まだあの時の事をそのまま書くには刺激が強過ぎる。
主人公はもっと大人しい性格にさせて、あの鳴戸の怖さを引き立てるように書く。
そして幼少期、母親に虐待された俺の過去。あの時の思いを主人公へ託そうじゃないか。まだ小説を書き始めてもいないのに、俺はどんどん先の話を膨らませていた。
よし、書こう。小説を……。
山田と冗談で話していたものが、本当にする事になるとは。だから生きるって面白いんだ。完成したら真っ先に秋奈へ報告しよう。そしてもし彼女が逢ってくれるなら、俺はザナルカンドを捧げたい。
主人公の名前はどうするか。まだキーボードをブラインドタッチできない俺。『マロン』で商品の入力をする時だって、人差し指でアルファベットを探しながら打つ始末である。それなら打ちやすい苗字がいいだろう。
まずは同じ母音を使う苗字がいい。右の人差し指でほとんど入力する訳だから、左手は一つの母音を常に押せる位置がいい。すると『AIUEO』の中で一番邪魔にならないのが『A』である。
「あ、あから始まる苗字……。相田、赤間、浅生、浅野…。どうもしっくり来ないな。荒幡、新井、違う…。あ…、赤崎…、ん?」
赤崎だと母音の『A』を三回も使えるぞ。こりゃあいい。『A』が三回に『K』が二回も使えるから非常に打ちやすいはずだ。決まり。主人公の名前は『赤崎』にしよう。
名前はどうするか? 俺がつけてほしかった名前でいいや。
こうして主人公の名前は『赤崎隼人』となった。
年齢の設定はどうしよう? やっぱ俺が歌舞伎町に来たのと同じ年の二十五歳がいいかな。出だしはどうしよう?
小説を書く作業って、思ったよりも数倍楽しいかもしれない……。
翌日俺は『マロン』でもノートパソコンを持ち込み、仕事の準備を済ませると、題名も考えず、小説を書き始めた。パソコンのワードを起動し、横書き四十×四十字に設定する。
出だしはどうするか? 淡々と始めたいものだ。裏ビデオを買いに来る客の相手をしつつ、俺は小説の執筆に没頭した。
《日本の景気?
そんなもん、世の中、不況だろうが好況だろうが俺にはどうでもいい。
今日もやる事がなく、家でただテレビをつけて横になっている。
何かのドキュメンタリー番組で、やらせかどうかは分からないが、歌舞伎町特集をやっていた。本当、派手な街だ。ボーッと俺は、画面を眺める。
二十四時間灯りが消えない街。新宿歌舞伎町。
「俺には関係ないことだ……」
独り言をつぶやいて布団に横になる。すっかり肌寒くなってきた。もう十二月に入ろうとしている。
現在、仕事もしていない状況で、わずかに貯めておいた金は、どんどん目減りしていく日々……。
今の自分の現状が、嫌で堪らなくなる。
目を閉じると、頭には昨日のことが思い出されてくる。》
うん、なかなかいい感じだ。実際テレビなど俺は見ないからでっち上げだけど、確かこんな番組をやっていたと『グランド』の誰かが言っていたっけな。いいところがなくまるで駄目な主人公を作りたい。ついでにいきなり彼女にふられさせようじゃないか。作者である俺だって、秋奈にふられているのだから……。
そうするとヒロイン登場って形になるが、名前はどうする?
高校時代にふられた『いずみ』という女を思い出した。今頃いい女になっているかな。よしヒロイン名は『いずみ』でいこう。
俺は過去お袋に受けた虐待の一部を思い出し、主人公である赤崎へ想いを託す。親父はどうするか…。面倒だ。物語上長くなってしまうから、事故で死んでしまった事にしてしまえばいいか。
物語を要約すると、無職で女にふられた赤崎が勘違いから新宿歌舞伎町へ行き、ゲーム屋で働くというシンプルなストーリーである。
大まかな話の核になる部分を何個か考えてみた。
一つはお袋の虐待に遭っていたという過去。
幼少期に、自分の責任で妹を亡くしている。
この二点は赤崎隼人のこれまでの性格を形成させる上で必要だろう。妹の件は作り話で、お袋の件は本当にあった事。虚と実が入り混じる事により、作品はリアルさを出してくれるはずだ。そんな妙な確信があった。
次は歌舞伎町へ行く訳だから、歌舞伎町について分かり易く説明しなければいけない。まず店長をどんなキャラクターにするか……。
俺が歌舞伎町に行くきっかけとなった岩崎。奴は二千万円の現金をバラ撒きながら事故で亡くなった。何の商売をしていたのかは分からない。でも抜きをしていなければ、手に入れられない金額な事は確かである。当時岩崎の死を新聞で偶然読み、俺は歌舞伎町へ行く事を決めた。もし彼の名前をそのまま小説に出したら、何かしらの真相が分かるかもしれない。彼をイメージして名前までそのまま使ってしまおう。俺は岩崎をゲーム屋『ダークネス』の店長という設定にする。
ゲーム屋のシステムなどを書く際、非常に面倒だった。自分では分かりきっている事を文字だけで読者に分からせなければならないのだ。登場人物の赤崎と岩崎。この二人でうまく説明できるように会話形式にしてしまえばいい。
ここまで書きながら先の展開を考えていると、階段を降りる足音が聞こえてくる。北方だった。
「おう、売り上げはどうだよ?」
「お疲れさまです」
「現状で五万円ですね」
「そうか。あと少ししたら倉庫に行って、野中さんを飯に行かせてくれ」
「分かりました」
執筆意欲が湧いているところを邪魔しやがって、この馬鹿が……。
俺は心の中でそう呟きながら、パソコンの電源を落とす。まあいい。どうせ俺が倉庫に行けば、野中は二時間ぐらい帰ってこない。その間の時間を利用して小説を書けばいいか。
ちょっとした時間でも今は小説を書いていたかった。通常の仕事なら考えられない事だが、裏稼業といういい加減な仕事のおかげでそれが可能なのである。
倉庫へ入ると相変わらず臭かった。何度来てもこの倉庫の匂いに慣れる事はないだろう。
野中は自由になれる時間がやってきたと上機嫌である。一日二時間程度の休憩時間を取れる事で、ここまで嬉しそうにはしゃぐ野中はある意味哀れだ。
「それじゃ飯に行ってくるけど、お願いね」
「ええ、ゆっくり行ってきて下さい」
「あ、そういえば最近ピアノ、持ってきてないじゃん。もう辞めちゃったの?」
「ああ、キーボードの事ですか。別に辞めた訳ではないですよ」
「いや、前に『マロン』の階段降りていくと、いい音色の曲が聴こえるなあって思ってたからさ。まだ辞めた訳じゃないのね」
「ええ、ただあれを毎日持ってくるって、結構大変な作業じゃないですか」
ピアノの先生との経緯からレッスンへ行っていない事を説明するのが面倒だったので、適当に言い訳をしておく。
「そりゃあそうだ」
「ゆっくり食事へ行ってきて下さいよ」
「ありがとう」
「そういえば野中さんって休みとかまったくないんですか?」
「俺はないよ」
「一年中まったくですか?」
「ああ、おまえはまだ入って半年も経ってないから知らないのか。俺さ、実はフィリピンに嫁さんと子供がいるんだよね」
「え、本当ですか?」
この野中のような男が結婚していたという事実。予想もしていなかったので正直ビックリした。
「嘘ついたってしょうがねえじゃん」
「そ、そうですね……」
「一年に一度、二週間ぐらいはフィリピンへ行っているよ」
「一年に一度だけですか?」
「ああ…、昔は一ヶ月行っては、一ヶ月こっちにいてって生活だったんだけどなあ~」
野中は遠くを見るような視線でしみじみと呟いていた。この人もこの人なりの人生があるのだ。この台詞が本当なら、昔はかなり羽振りが良かったという事になる。いまいち信じられないが……。
「まあ、飯に行ってくるよ。あとよろしくね」
始めは本当に無愛想だった野中も、ようやく俺という人間に対し慣れてきたようだ。以前ならこんな普通に会話するなど考えられなかった。今度ゆっくり酒でも飲みながら、彼の過去を聞いてみるか。
野中が倉庫を出ると俺は部屋の窓を全開にして、自腹で買っておいた芳香剤を部屋の隅に二袋分バラ撒く。少しはこれで匂いも浄化するだろう。
俺はテーブルの上にダンボールを引いて、その上にパソコンを乗せた。さて小説の続きだ。今はこの作品を一日でも早く完成させたい気持ちでいっぱいだった。
北方から配達の注文が来ない事を祈りつつ、俺は小説をまた書き始める。文字を書くという作業が、こんな面白い事だなんて思いもしなかった。ピアノとはまた違った面白さ。それが執筆というものにはある。自分の好き勝手に作り上げたキャラクターを動かせ、様々な形で考えを持たせる事ができるのだ。
文字を書いていく上で俺は、頭の中でそのイメージを映像化してみる。俺の文章を読んだ読者がいたと仮定して、勝手に映像が頭の中にイメージ化できるよう心掛けた。
だいたい小説って、原稿用紙で何枚ぐらい書くものなんだろうか? 今まで小説を読んだ事はあるが、原稿用紙で何枚なんて気に掛けた事もない。出版されている小説を思い出し、本の厚さを考えてみた。三百枚ぐらい書ければ少なくても一冊の本になるだろう。
文学というものについて、何の知識もない俺。無知ではあるが、この熱き魂を文章に投影すれば遜色のないものができあがるという何の根拠もない自信だけはあった。
本当に面白い小説って、読み出すと時間がまったく気にならないもの。俺が読み手だった時そうだった。そんな本に出会えると幸せすら感じたものである。俺もそういった感じの本を作りたかった。
書く上で気に掛けなきゃいけない事。あとは読みやすさだろう。
俺は登場人物たちに、不自然さを感じさせないように会話をできるだけ増やすようにした。背景描写など退屈なものは必要な事以外排除し、心の中の葛藤などをクローズアップさせるようにする。人間の考えている事をメインに物語を進めさせよう。
倉庫に行って二時間。その間に配達が三回あったが、それ以外は執筆に集中できた。
仕事帰りに行きつけのジャズバーへ寄る。そこでもパソコンを引っ張り出し、小説の続きを書いた。
いきなり小説を書き出した俺に、マスターはビックリしていたが、そんな事はどうでもいい。俺の横では以前揉めた事のある阿波野が、小説について一人でブツブツ何かを語っていた。こういう輩は自分では何もしないくせに、物事を偉そうに語るのが好きなのだ。
相手にしている時間がもったいないので、俺はグレンリベットを飲みながらひたすら作品を書き続けた。ウイスキーをストレートで飲んだあと、続けてチェイサー代わりにアイスコーヒーを流し込む。ここのアイスコーヒーは本当にうまい。
本当は一度でいいから秋奈をこのジャズバーへ連れてきたかった。そしてこのアイスコーヒーを飲ませて、「おいしい!」と微笑んでほしかった。あの百万ドルの笑顔がまた見たい。今となっては叶わぬ願いではあるが……。
この俺が小説を書いているなんて聞いたら、秋奈はどんな顔をするだろうか? 君が喜んでくれるなら、喜んで俺はこの題名のない作品を捧げようじゃないか。
彼女との初デートを思い出す。あの時は本当に幸せだった。帰りに撮ったプリクラは、未だ大事にいつも持っている。
何で俺じゃ駄目なんだろうか……。
どんなに努力しても振り向いてくれない秋奈。せつなかった。そして悲しかった。
一度だけでいいんだ。俺のザナルカンドを聴いてくれ。そして微笑んでほしい。
今までこんなにも一人の女を愛した事などあるだろうか? 過去、気になった子は何人もいる。好きなんだと自覚した優しい子だっていた。金にものを言わせ、たくさんの女を抱く度その崇高な想いは薄汚れていった。あの歌舞伎町の街並みのように。
それからはどんな女に会っても抱きたいというだけで、本当に求めた女なんていない。何故俺は秋奈なんだろう。確かに彼女の誕生日前日にデートをした。何度かメールでやり取りした。しかしそれだけなのだ。抱いた訳ではない。それ以上の何かがある訳でもない。
ここまで秋奈にこだわる理由。いくら考えても分からなかった。
理屈なんかじゃない。おそらく俺の本能があの子を求めているのだ。生涯秋奈じゃなければ俺は納得する事なんかないだろう。そのぐらいの確立で、俺と秋奈は出逢ってしまったのだ。
秋奈の為に絵を描きだした。
秋奈の為にピアノを弾きだした。
そして今、秋奈の為に小説を書きだしている……。
これらは三十歳になってからすべてやったものだ。二十台の頃を思うと、考えられない自分がいた。
大和プロレス上がりの俺は、どこへ行っても力の対象として、みんなから指示された。何らかの力仕事があると、いつも「神威さんに頼めばいいじゃない」、そう言われ続けてきた。力を頼られるのはいい。人より多くの時間を費やし鍛えてきたのだから。しかし俺は力だけを鍛えてきた訳じゃない。内心、複雑な気持ちだったのだ。
自分を変えたかった。力の対象としてじゃなく、様々な意味で変えたかった。
だから絵を描き、ピアノも弾き、小説もやり始めている。秋奈の為と思ってはいるが、本当はきっかけに過ぎないのかもしれない。
いけない、いけない……。
考える時間があるなら、今は小説の続きを書こう。
北方がいきなり旅行に行くと言い出した。店は完全に俺と野中に任せ、十日間ほど行くと言う。俺の休みはどうなるのか聞いてみた。
「そんなのある訳ないだよ。その分稼げるんだから、稼いでおけ」
偉そうに話す北方。自分の都合で人を勝手に振り回し、それに対し何の感謝もない男。
まあいいか。ここにいれば、小説を書いたりピアノを弾いたりできる自由だけはある。不満を言ったらキリがない。
「あ、そうそう。この店の名義人って誰なんです? 俺、今まで聞いた事もないですけど。教えといてもらえません。最悪警察が来たら、対処のしようがないじゃないですか」
「浦安だよ」
「え、だって浦安さんって飛んだんじゃ……」
「浦安の名前で大丈夫だよ」
「そういう問題じゃ。その辺をちゃんとしてもらえませんか? パクられる商売じゃないですか」
歌舞伎町の裏ビデオ屋は、月に二、三軒パクられていた。ゲーム屋はもっと酷いものだ。どちらかといえば警察はゲーム屋を躍起になって検挙していた。ゲーム屋は徐々に減り、空いた店舗にはビデオ屋が増えていく現実。そろそろビデオ屋に対する取締りが増えていくような気がした。こういう商売をしているのだ。その辺はしっかりさせてもらわないと、捕まった時に俺が困る。
「あと、ここのケツモチです。教えといて下さい。もちろんヤクザ者が嫌がらせに来た場合を想定してですけどね」
「沖田会と笹倉連合だろ」
「それは上の事務所じゃないですか。あそこの二つにケツモチ料払っているんですか?」
「いや、違うだよ」
「じゃあ、どこなんですか?」
「真庭組に橘川一家、西台、富士見興業…。大丈夫だ。全部俺は顔が利くだよ」
「だからそういう事を聞いてんじゃなくてですね……」
「今、俺は明日のフィリピンへ行く準備で忙しいだよ。今度ゆっくり話してやる」
そう言って、北方は『マロン』を出て行ってしまった。本当にいい加減なオヤジだ。フィリピンとか行っていたが、どうせ女を買いに行くだけだろうが……。
入れ替えに『グランド』の小坂が入ってきた。
「また北方さん、うちに来ましたよ。飯行ってきますって、うまく抜け出してきたんですけどね」
「またゲームを打ってんですか?」
「多分。今、締め用紙眺めながら、INOUT差をチェックしてましたからね」
「何でもフィリピンに行くとか言ってましたよ」
「ああ、うちの店長の醍醐も行くらしいです」
「え、あの醍醐さんも?」
あの店で唯一まともそうに見えた店長の醍醐。彼は貯金もしっかりしていると聞いていたが、そんな醍醐ですら女を買いに行くのか。ちょっとショックだった。
北方がフィリピンに旅行へ行ってから、俺は最後まで仕事をするハメになる。
仕事自体暇なので、何時間働いても疲れる事はない。小説を書くという目的がなければ冗談じゃないが、まあプラス思考でとらえておく。
逆にあの臭い倉庫へ行く事もなくなるし、人使いの荒い北方がいないのだ。伸び伸びと仕事ができる。小説に没頭する事も可能だ。
俺に慣れてきた野中は、仕事が終わると嬉しそうな表情で「いや~、昨日は久しぶりに酒を飲んだよ~」と声を掛けてきた。
「どこかへ飲みに行ったんですか?」
俺はスナックを連想させた。そういえば俺もしばらく行っていないな。
「馬鹿言えよ。フィリピンに十万ずつ毎月送っているんだ。どこにそんな金があるんだよ」
家族と離れ離れの毎日。どんな思いで過ごしているのだろう。
「だって飲みにって……」
「部屋で発泡酒二つ買って、飲んだだけだよ」
この業界が長そうな野中。居酒屋へ飲みに行く金もないと言うのだろうか? そういえば倉庫では、いつも店にある缶コーヒーか、二リットルのペットボトルの烏龍茶をラッパ飲みしていたな。とても贅沢をしているようには見えない。
「でも十万円を毎月送金してるって言っても、残りの分は貯金でもしてるんですか?」
「できる訳ないじゃん。俺の給料は二十万だからな」
「え~! ほんとっすか?」
俺よりも金をもらっていないなんて、一体どうなってんだ? 訳が分からない。
「金を送って、飯を食ったら何も残りゃしないって」
確かに毎日三食を外食で済ませていたら、十万円なんてあっという間になくなるだろう。哀れに感じた俺は、自分の財布から千円札を三枚出して「野中さん、たまにはビールでも飲んで下さいよ」と手渡した。
「え、いいの? ありがとう、ありがとう」
野中は上機嫌で倉庫へ戻っていった。
翌日、客の注文をして商品を運ぶ野中は、『マロン』へ来ると、「昨日はご馳走さまでした」と礼儀正しくお礼を言ってきた。
あの程度でそこまで感謝されるなんて、今までどんな生活をしてきたんだ、この人は?
まあお礼を言われて気持ちいいことはいいので、笑顔で応対をしておく。
今度野中がフィリピンの家族へ行ける日というのは、一体いつ頃になるのだろうか。俺にはさっぱり分からないが、もっとこの人は幸せに生きないといけないような気がした。
人見知りでなかなか心を開かない人ではあるが、根はいい人なんだろう。
不潔なだけと思っていた野中に対し、俺はちょっとした親近感を覚えていた。
十日後、北方は上機嫌で帰ってきて、紙袋からおみやげを店内で広げだした。何かくれるのかと期待したが、高そうな香水を渡され「上の沖田と笹倉の事務所に、俺からだって渡してこい」と言われただけで、従業員たちへのおみやげなど何もなかった。
いくら仕事とはいえ、ヤクザの事務所へ行くなんて嫌だった。まあこんな商売をしているのだ。上のヤクザはたまに暇なのか、顔を出し世間話をしてくる。
狭い階段を登り、二階の沖田会のドアをノックする。
「はい」
短い返事が聞こえたので、ドアを開けた。組員が近づいてくる。
「お、神威ちゃんか。どうした?」
「これ、うちの北方から、フィリピンに行ったおみやげです」
「おう、どうも。うちのオジキも喜ぶよ。北方さんによろしく言っといて」
「分かりました。それでは失礼します」
ドアを閉め、三階へ向かう。今度は笹倉連合だ。同じようにノックをする。
「おう、何や」
ドアを開け、一礼する。
「何や、神威はんやないけ。どないしたんや?」
組長の岡村が直々に出てきた。
「これ、うちの北方から、フィリピンへ旅行へ行ったおみやげだそうです。どうぞ」
「おう、おおきに。お礼言うといてや」
「分かりました」
「あ、神威はん。お願いあるんでっけど」
「何でしょう?」
「知り合いでな、SM物を欲しがっている奴おるんや。十本ほど用意できんかな」
「十本もあるかどうかは分かりませんが、調べておきますよ。あとでまた連絡します」
「あと一時間ぐらいでワイ、用事あるんや。その時『マロン』寄らせてもらいますわ」
「分かりました。それではそれまでに何とかしておきますよ」
「おおきに」
店に戻ると、北方は携帯で撮ったフィリピン人女性の画像を何人も見せてきて、「どうだ? 俺はこんなにモテるだよ」と自慢げに語っていた。
おみやげでなく、おみやげ話を繰り返し話す北方。間違いなく日本人を代表するクズ野郎である。こういう奴が金をつかむから、日本はおかしくなるんだ。
北方は喋り飽きると、「上に行ってくるだよ」と出掛けてしまう。
勝手な奴だ。いないほうが清々するが……。
一時間ほどして笹倉連合の組長である岡村が『マロン』に来た。俺は用意しておいたSM物の裏ビデオを手渡す。
「おおきに、神威はん。ちょっと一服してもいい?」
「ああ、どうぞどうぞ。缶コーヒーしかないですけど、飲みますか?」
「おおきに」
岡村はとても人柄の良さそうな笑顔をする。組長だと聞かなければ一般人でも通用するんじゃないかと思うぐらい愛想がいい。
「そうそう、北方はんいるやろ」
「ええ、どうかしたんですか?」
「結構うちらの耳に、エグい事しとるって耳に入ってくるんや」
北方は、歌舞伎町の住人たちへ、個人的に金を貸している商売をしていた。自分でヤクザ者に顔が利くと思い込んでいる北方は、金貸しに関してだけはケツモチをつけていないようだった。確かにヤクザ者からしたら面白くないだろう。
「確かにエグいですからね、あの人は」
「まあ、うちらの目の届かないところでやっとる分には、まだいいけど、目の届く範囲でやらかしたら、ケジメとらなあきまへん」
「それはそうですね」
「まあ、神威はんにこんな事言うの、愚痴に聞こえますかいのう。つまらん話はやめときまひょ」
「いえいえ、そんな事ないですよ」
「そんじゃ、そろそろ行きますわ。コーヒー、おおきに」
「どういたしまして」
組長の岡村が出て行くと、俺は小説の続きを書いた。
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