2024/10/08 tue
前回の章
百合子が病院に行く時は、せめて一緒に付き添ってやりたかった。
仕事を休めるか駄目元で村川に聞いてみたところ、案の定駄目だと言われる。
もう店で従業員をするのは嫌とかそういう問題じゃない。
俺はこのクソみたいな組織に、家を…、そしておそらく百合子の事すら調べられている。
人質を取られたようなものだ。
抜けるに抜けられない現状。
パソコン関係の仕事をこなしつつ、早番として風俗の受付もならないきゃならない。
深い溜息が出る。
自分のやるべき仕事だけを済ませると、あとは店のパソコンを使い、『とれいん』の執筆作業に取り掛かる事にした。
皮肉な事に仕事用と称して1Gのメモリースティックを買ってもらった。
この当時出始めたメモリースティックは、1Gで一万円以上もする。
ここで執筆した分はメモリースティックへ。
家に帰ったら、店で打った分を付け足せばいい。
どうせ客が来たって女の子は『ミミ』一人だけ。
客なんてつく訳がない。
頭を切り替えよう。
考えようによっちゃ、北中の裏ビデオ屋メロン時代同様、仕事中に小説を好きなだけ書いていられるのだ。
もうオープンしたし、それで金をもらえる。
しかもあの平野さんが絡んでいるのだから、何かあった時のアフターケアーも問題ない。
北中のところよりはちょっとマシ。
少しはプラスな面を考えないとやってらいれない。
頭が空っぽの當間は、店にある客用のソファーで漫画を読んでいる。
この馬鹿のせいで……。
いつか本当にぶっ殺してやりたい。
「あ、岩上ちゃん」
「何すか……」
「誰か友達呼べない?」
「はあ? 何でですか?」
「『ミミ』ちゃんさ、今日で二日だけど、まだ誰もついていないのよ。二日いて給料ゼロね。このままじゃ、さすがに辞められちゃうでしょ?」
「しょうがないんじゃないですか」
あれじゃあ、客なんてつく訳ないだろうが。
無駄銭ばかり使いやがって……。
「で、さっき村川さんに相談して、サクラをつけようって。だから友達呼んでよ」
オープンして初めての客がサクラかよ。
それで金はうちの店が出すってか。
さすが村川も認めるほどの馬鹿代表だ。
だけど俺の知り合いを頼るな、ボケ。
「そんなの自分の知り合いをつければいいじゃないですか」
「いや、岩上ちゃんなら結構友達この街にいるでしょ? 俺、結構嫌われ者なのよね、実は。だから一人、タダでいいから呼んでよ」
「當間さん……。あんた、俺よりこの街にいる年数長いんでしょ? 一人ぐらい呼べるでしょ?」
「そんなのとっくに何人か電話したよ。だけど、誰も用事あって来れないんだよ」
大きく溜息をつく。
本当に早くこんな店潰れればいいんだ。
もしくは本当に流行る店を作るしか道はない。
二択か……。
いや、違う。
こうなったら百合子が昼間働かなくてもいいぐらい稼ぐしか方法は残されていない。
儲けさせるしかないのだ。
流行らせる方法をゆっくり考えていくか。
この時間帯暇してそうな奴はと……。
俺は携帯電話のアドレス帳から山下の番号に掛けた。
「あ、岩上さん。元気っすか?」
「おい、おまえ仕事中か?」
「ええ、どうしたんですか?」
「今から休憩時間取れる奴っているか?」
「う~ん、ちょっと待ってて下さい」
「ああ……」
こんな事しているなんて百合子が知ったら、本当に倒れてしまうだろうな……。
「あ、岩上さん。うちの店長なら出れますけど?」
「じゃあよ、うちのビデオの系列だった『フィッシュ』ってあったろ? 東通りの角のとこにある」
「はい、すぐそばですよね」
「ああ、五分以内に店まで来るよう言ってくれ」
「え、うちの店長にすか?」
「ああ、タダで風俗遊ばしてやるから」
「あ、それなら多分すぐ行きますよ。うちの店長、年中風俗行ってますからね」
「頼むわ……」
電話を切ると、當間を無視してまた『とれいん』の執筆に取り掛かる。
「さっすが岩上ちゃん。顔広いねえ」
「……」
俺は無視して小説を書き続けた。
西武鉄道の件。
あれを綺麗に片付ければ、まともな未来が開けるとばかり考えていた。
ところが何なのだろう、この展開は……。
話がゴチャゴチャし過ぎている。
いい展開の物語にするんじゃなかったのか?
もう百合子は『とれいん』の存在を知っている。
しかも完成するのを心待ちにしているんだ。
整理しよう。
西武鉄道の一件から物語りは始まる。
でも、そこに『ガールズコレクション』は絶対に登場させない。
百合子にこんな腐った現状など、例え小説といえども関わらせちゃいけない。
それにもう本川越駅駅長の村西さんには、小説を渡すと言ってしまったのだ。
せめて當間みたいなキャラクターは、馬鹿な会社員という設定で登場させようじゃないか。
当の當間は相変わらずソファーで漫画本を読んでいる。
「當間さん……」
「ん、何?」
「そんなところで漫画読んでんだったら、とっとと新しい女の子探してきて下さいよ」
絶対に切り離せない以上、當間をうまく使いこなすしかない。
「あ、ああ。ちょっと待って。この漫画読み終わったらね」
そう言うと、當間は鼻くそをほじりながら漫画をまだ見ていた。
「當間さん!」
「わ、分かったよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「ええ、行けばいいんですよ。お願いしますね。本当に可愛い子頼みますよ。裏本の時に出てくれた女の子とかその辺当たって下さいよ」
「別に構わないけどさ、高いよ?」
「いくらぐらい掛かるんですか?」
「そうだね……。一日うちで働いてもらうとしたら、七十万ぐらい必要かな?」
「はあ? あのさ、うちの料金って三十分で八千円なのね? しかもこの店ですぐおっぱじめる訳じゃなくて、わざわざ指定したレンタルルームまで行ってからの三十分。そんなんで、どうやって一日七十万も払えるんですか?」
「有名女優なんだから、料金を高く設定すれば簡単じゃん」
「高くって?」
「一人頭一時間十万円。七人集めたら、ペイできるでしょ?」
「そんな事できる訳ないでしょうが! 女の子がたくさんいて、うちがもっと流行っていて、たまにやるイベントで予約受付しての段階なら面白いアイデアかもしれませんよ。でもね、今のこの現状を考えて下さいよ? あの『ミミ』ちゃん一人でどうやって店が成り立つんですかっ!」
こいつとまともに話をしようとすると、本当に頭がおかしくなりそうだ。
「分かった、分かったから…。そんなにいつも怒鳴らないでよ」
「じゃあ、早くツテでも何でも使って行ってきて下さいよ!」
「はいはい」
當間はふてくされたように店を出て行こうとした。
「あ、あの~……」
入口に客が立っていた。ヤバい。今の会話聞かれたか……。
「い、いらっしゃいませ。ようこそガールズコレクションへ」
「い、いえ…。違うんです」
「え?」
「あのー、山下のいるゲーム屋の店長なんですけど……。か、岩上さんって方は?」
「あー、どうもどうも。俺が岩上です。はじめまして。いつも山下がお世話になってます」
「は、はじめまして、海斗と申します」
妙にオドオドした奴だな。
本当にこんな奴でゲーム屋の店長がよく勤まるもんだ。
「海斗さんね。よろしくです。今からすぐ入れます?」
「えっと…、ふ、風俗ですよね?」
「ええ、もちろんお金はいりません。今から大丈夫ですか? それとも仕事中だからさすがにマズいでしょうか?」
「だ、大丈夫です。ほ、本当にタダでいいんですか?」
「ええ、気にしないで下さい。この時間って本当にこの商売暇なんですよ。で、女の子ってお客さんつかないと金にならないじゃないですか」
「そ、そうですね」
「一つだけお願いがあるんですけど……」
「な、何でしょう?」
「つけられる子、ちょっと顔はいまいちと言うか……」
「あ、全然大丈夫ですよ。自分、ストライクゾーン結構広いですから」
「じゃあ、お願いできますか。今呼びますから……」
「ちょっと待った待った」
いきなり當間が会話に割り込んでくる。
「は、はあ……」
當真は椅子へ腰掛け足を組む。
一度向きを変えてから、また逆に足を組み直す。
何だ、この馬鹿?
この動作、どこかで見た気がするが……。
あ、ホラー映画の自殺サークルに出てきたローリーだ。
「海斗君ね。どうも、私がこの店の店長の當間です。私の顔でタダにするから。で、くれぐれも女の子にはサクラって事だけは秘密にしてよ」
一体何様のつもりだ、この馬鹿。
俺は開いた口が塞がらなかった。
自分じゃサクラ一人も呼べないくせに、実際に来ると何だこの偉そうな態度は……。
「はあ……」
とりあえず『ミミ』に電話を掛けて、店に呼ぶ。
この店から徒歩二分の場所に待機場所を借りてあるので、すぐ来れるだろう。
『ミミ』が到着するまでの間、當間は偉そうな言い方で、いかに自分がすごいかを延々と海斗に自慢していた。
「お待たせしました~」
ようやく『ミミ』の到着。
俺はレンタルルームの場所を再確認した上で、「三十分コースだけど、頑張って下さい」と声を掛ける。
「はい、頑張ります! じゃ、お客さん、行きましょう」
「は、はい!」
海斗は嬉しそうに『ミミ』と手を繋ぎながら花道通りの方向へ消えていく。
本当にストライクゾーンが広い男なんだな……。
二人がいなくなると、俺は當間に言った。
「當間さん、何でサクラって言っちゃいけないんですか?」
「だって考えてみなよ。この店は営業努力しなくても、サクラをつけてくれるって知ったら、女の子、誰も努力しなくなるでしょ?」
通常、今のケースで計算すると、代金は八千円。
別額でレンタルルーム代二千円。
女の取り分はコース料金の半額だから、四千円しか手に入らないのだ。
その程度の金で努力しなくなる風俗嬢なんている訳ねえだろ。
「……。當間さん、もういいから早く女を探してきて下さい」
「いや、だってね、それをバラしちゃったらさ……」
「當間さん!」
「分かったよ…。うるさいなぁ……」
やっと當間は店から出て行った。
こんな調子じゃ、もうじきクリスマスだが、それさえも休ませてくれないだろう。
仕事の終わりの時間が来ると、百合子にメールを打ってから駅に向かった。
こんなんで、一日一万円の日払いか……。
先が思いやられそうだ。
本当に嫌な事が色々あった一日だった。
ドッと疲れを感じる。
店の実情を百合子に話す訳にもいかない。
帰り掛けに本川越駅のコージコーナーに寄って、チーズケーキとチョコレートケーキを購入する。
百合子はチーズケーキが大好きだった。
クリスマス前に別として買っても、嫌がられる事はないだろう。
改札を出ると駅のロータリーに百合子の車が停まって待っていた。
思わず俺は走る。
「ただいま、結構待った?」
「おかえりなさい、お疲れさま。そんな事ないよ。五分も待ってないから。それより早く乗ってよ」
「ああ、ほれ。これ食うか?」
車に乗り込み、ケーキの入った箱を手渡す。
箱を見るなり、百合子の表情は嬉しそうに変化する。
買って本当に良かったと思えるような笑顔だった。
「わー、ありがとう。嬉しい。あ、そうそう、これ智ちん……」
百合子が手さげ袋を渡してくる。中を覗くと、いい匂いがしてくる。
「弁当作ってくれたのか? ありがとう。腹ペコペコだったんだ」
「でも、給料出てない状況なのにお金大丈夫?」
「あ、やっとさオープンになったから日払いで金が入るようになった」
「良かったね」
満面の笑みを見せる百合子。
「ああ……」
絶対に真実は言えないな。
「智ちんの部屋に行く?」
「そうだな」
俺の家に帰りスーツを脱いでいる間に、百合子は部屋を簡単に整理してくれた。
パソコンを起動してメモリスティックを差し込む。
小説『とれいん』を開き、『ガールズコレクション』で書いた部分を付け足した。
「へー、ここまで書いたんだ? すごいね」
「どうなんだかね。ただ書こうと思って書いているだからね」
「私、これ読んでるから、智ちんはお弁当食べてよ」
「ああ…、おっ。おいしそうだねー。いただきまーす」
百合子の作ってくれた料理はマーボ茄子、豚肉のしょうが焼き、卵焼きに唐揚げ。
サラダに炊き込みご飯と豪華なものだった。
一口食べてみる。
「うまい!」
思わず口に出てしまうほど美味しかった。
百合子は笑顔で俺が弁当を食べる様子を見てくれている。
以前も作ってくれてはいたが、今回はさらに気合の入ったものだった。
「今日、智ちんのとこ泊まってもいいかな?」
「全然構わないよ。でも明日は仕事だろ?」
「うん、だから朝七時ぐらいには出るようだけど」
「分かった。目覚まし掛けとくよ」
「ねえ、智ちん……」
「ん、どうした?」
「抱いてほしい……」
「だっておまえ…、身体は大丈夫なのか?」
「うん、お願い」
その夜、俺たちは久しぶりにお互いを求め合い愛し合った。
心の底が腐りそうなぐらい嫌な一日だったけど、最後の最後でまた百合子に救われた気がする。
携帯電話が鳴っているのが聞こえる。
目を覚ますと、横で百合子が気持ち良さそうに俺の腕枕で眠っていた。
以前なら当たり前の光景が今はとても新鮮に、そして感動的に映る。
「おーい、もう六時半だぞ。起きろよ、百合子」
「うーん…、おはよ」
まだ眠たそうな百合子。俺は唇を重ねる。
「目が覚めたか?」
「もっとしてくれなきゃ覚めない」
ようやくいつもの彼女らしさが出てきたみたいだ。
百合子が出掛ける準備をしている間、俺は簡単な食事を作ってくる。
「美味しそー」
「時間ないんだから早く食っちゃえよ」
「いただきまーす」
朝食を食べ終え、七時になったので百合子を家の玄関先まで見送る。
「それじゃあ、行ってくるね」
「ああ、いってらっしゃい」
「智ちんが寝ている間、『とれいん』読んだけど、すごい面白いよ。早く続きが読みたい」
本当に良かった。
『ガールズコレクション』という現実の設定は外しておいて……。
「へー、そっか。ならもっと頑張らないとな」
笑顔で百合子を見送ると、布団に入って横になる。
少し疲れを感じていた。
一体何なんだよ、昨日のありえない展開は……。
職業選択の自由の国じゃないのか?
平野さんは何を考えているんだ。
まあいい。
どうせいくら考えたって、俺の現状が変わる訳じゃないんだからな。
冬場になって布団の中に入ると気持ち良くてずっとこのままでいたくなる。
昔は違った。
寒い時期だろうが何だろうが、とにかくトレーニングに没頭したもんだ。
トレーニングウェアーを脱ぐと、全身から吹き出る汗で両肩から湯気が出ていたぐらいだもんな。
あの頃を懐かしく感じる。
それに比べると今はずいぶんと情けなくなったものだ。
俺は布団から出て、上半身裸になる。
寒い…、とても寒い。
その場でストレッチを始めだす。
すっかり固くなった身体。
以前は股割りでペタッと地面につけられたが、今はとんでもなく固くなっている。
周りからはまだ体格がいいと言われるが、自分自身が衰えを一番感じていた。
もうあの頃には戻れないのか?
何がパソコンだ。
どんなにパソコンの腕が上がろうが、俺の心は全然満たされない。
できる事ならまたリングの上で戦いたい。
だが現状を考えるとトレーニングする時間さえ、ままならない。
いや、そんなもんはただの甘えだ。
時間はいつだって平等なのに、鍛錬を怠りすっかり怠け癖がついているのだ。
前なんて寝る時間さえ惜しんでトレーニング漬けだったじゃねえか。
いつからこうなった?
ひょっとしてこれが老いるというものなのか。
ずっと若いつもりでいたけど、もう若くないのかなあ……。
もうどこにも逃げられない現在の立ち位置。
このままどこへ浮遊していくのだろう。
寒いので再び布団に入る。
色々考えている内に俺は二度目の眠りについた。
夢を見た。
若い頃の自分が汗だくになってトレーニングしている。
この場所は…、全日本プロレスの道場だ。
若い頃の俺が必死になってスクワットをしている。
そう、こうやってひたすらトレーニングに明け暮れていたっけ。
「はい、次はねー。腹筋行くよ。とりあえず百回。終わったら腕立てね。それを十セットいくよ」
ジャンボ鶴田師匠がそばに立ち、俺は必死に回数をこなしている。
肉体の疲労がピークになり崩れ落ちる俺。
そうこうやって限界までいって、そこから先何回できたかが新たな力となる。
「僕が腕立てや腹筋の合間に、何で休憩をくれないのかって思ってるんでしょう?」
「ハァ、ハァ…、そ、そんな事…、ハァ、思って、ないです……」
鶴田さんの人の良さそうな笑顔。
この人にずっと良く思われたいから頑張ったよな。
「ちゃんとね、僕は休憩時間をあげてるんだよ。今、腕立てをしてるけど現時点で腹筋とスクワットの時の筋肉が…、腹筋をしてる時は腕立てとスクワットの時の筋肉はちゃんと休んでいるんだよ」
一見ムチャクチャな理論に聞こえるが、これでいい。
だって一般人として生活するんじゃなく、レスラーってそうやって強くなっていくもんなんだから。
あれ?
次第に目の前が薄暗くなってきた……。
景色が変わる。
また懐かしい光景が目に映りだす。
ここでちゃんこ鍋を食べて身体を大きくしたっけなあ。
テーブルの席にはジャンボ鶴田師匠とコーチ役の渕さんが座っている。
ボーっとしている俺に先輩レスラーの秋山さんが促してくる。
「おい、今日おまえはお客さんだじゃら飯も最初に喰わせてやる。腹減ったろう? 頑張ったんだからガンガン喰ってけよ。ほら、そこの空いてるとこ座れよ」
「すいません」
目の前にあるバカでかい鍋。
テーブルには常にコンロが設置され、周りには様々な料理が並ぶ。
まるでプロレス時代の走馬灯を見ているようだった。
確かこのあと小橋建太さんが……。
「いやー、いい汗掻いたー…。ちゃんこ鍋できた?」
ほら、来た来た。
「ほら、ボケッとしてないで、ガンガン喰えって」
秋山さんも俺より二つしか変わらないし、何だかこの頃は初々しいなあ。
夢なら覚めないでほしい……。
目を開けると、自分の部屋の天井が見える。
やはり夢だったのか……。
そりゃそうだ。
あれが夢じゃなきゃ、俺は頭が狂ったとしか言いようがない。
若かりし頃の思い出が夢となって映る。
懐かしいと思った。
ノスタルジーを感じるなんて、やっぱり年を取ったのかもしれないな。
このタイミングで全日本プロレス時代の夢を見たというのは何かの啓示だろうか?
いや、考え過ぎだろう。
しばらくボーっとしていると、携帯電話が鳴る。オーナーの村川からだった。
「はい、もしもし。どうしたんですか?」
「馬鹿野郎。何時だと思ってんだ!」
いきなり村川の怒鳴り声が聞こえてくる。
時計を見ると昼の一時半になっていた。
どうみても完全に遅刻だ。
「すみません、寝坊しました。今すぐ向かいます」
「まったくよー。何時ぐらいになんだ?」
「えっと…、すぐに出ますが、どんなに急いでも三時前ぐらいには……」
「早くしろよ!」
「はい、すみません」
ヤバいヤバい……。
電車の時刻表を見ると、一時五十八分の快速急行があるのを確認する。
特急小江戸号の次に早い電車だった。
これで行くのが一番早い行き方だろう。
急いで風呂に入り、着替えをしてるところに、百合子からメールが届く。
《今日はありがとう。ケーキ買ってくれて嬉しかった。仕事終わったらケーキいただくね。でも、わざわざよかったのに…。さすがに昨日あんまり寝てないから、ちょっと眠いかな。智ちんもあんまり寝てないから仕事大変だろうけど頑張ってね。 百合子》
馬鹿、ゆっくり見ている場合か。
電車に乗り遅れるぞ。
すぐに返事を返す余裕がなかったので後回しにした。
駅まで走っても五分は掛かる。
本川越駅まで到着し改札を通ったところで電車のベルが鳴る。
百メートルを全力で走り抜けるように猛ダッシュした。
まばらに駅構内の中にいる人々が驚いて道を空ける。
発車間際。
間に合うか?
周りの人たちには迷惑だが全力で走った。
「ひっ……」
真っ直ぐ直線な進路を突き進む私の目前に、一人の中年のサラリーマンが戸惑った顔で立ち塞がっていた。
いや、逃げ遅れたというべきか。
このまま行ったらぶつかる。
このスピードでぶつかったら相手は間違いなく大怪我をするだろう。
だけど走る方向を極端に変えたら電車に間に合わない。
俺は転ぶのを覚悟で身体のバランスを変えた。
あまりにもスピードが出ていた為軸が崩れ、身体が言う事を利かなくなる。
もはや制御不能だ。
俺の身体はそのまま派手に転び、数回転したあと豪快に床を滑っていく。
端のコージコーナーのウインドーガラスまで滑ってぶつかり、そこでようやくとまった。
身体のあちこちが痛い。
周りを見ると、みんなが物珍しそうに見ていた。
やせ我慢して何事もないように立ち上がる。
痛い。
何だか身体がすごい痛いぞ。
それでも表情には出さないよう堪える。
十数人の野次馬はそんな俺を囲むように二メートルぐらいの距離を開け、半円を作っていた。
「見世物じゃねえぞ!」
とりあえず威嚇して左足を引きずりながら電車に向かったが、無常にも電車は発車してしまう。
背後から笑い声が聞こえた。
「何がおかしいんだっ!」
俺が怒鳴りつけると、野次馬連中は蜘蛛の子を散らすように改札へ逃げていく。
あ、スーツのズボンが破けているじゃねえか。
どうも左手の人差し指が痛いと思ったら、爪が割れて血が出ているぞ。
まったく踏んだり蹴ったりだ。
朝からついてねえなあ……。
歌舞伎町にやっとの思いで着いた俺に対し、村川は昨日の今日という事もあり大袈裟に怒鳴りつけてきた。
「すみません…。明日からは真面目に来ます……」
いい訳は一切やめておこう。
夢を見て遅刻して焦って走って転んで回転して滑って怒鳴って痛い思いしてスーツ破れて電車に乗り遅れたなんて、さらに怒られるだけだし。
「ん、岩上、ズボンの膝のところ破れてんぞ?」
「ああ、さっき転んじゃいましてね」
「まあいい、これから頼むぞ」
「はーい」
昼の三時を過ぎているのに『ガールズコレクション』はまだシャッターが閉まっている。
「あれ、村川さん。何で店、開いてないんです?」
「當間の野郎も遅刻なんだよ」
不機嫌そうに村川は言った。
急いでシャッターを開け、看板を外に出す。
すべての明かりをつけると、パソコンの電源を押した。
この店の開店準備なんてこんなもんだ。
あ、『ミミ』は来ているのかな? 電話をしてみる。
「はい、おはようございます」
「おはよう。『ミミ』ちゃんさ、今日何時ぐらいに来ました?」
「えっと…、十一時半ぐらいですけど」
約四時間もただ待たせた事になる。
「本当にごめんね。ごめんなさい。俺、遅刻して今さっき来たばかりで……」
「あ、そうだったんですか。全然気付きませんでしたよ」
予想外の返答に拍子抜けした。
「ふざけないで下さい!」って怒声が返ってくる覚悟していた。
風俗嬢ってもっとわがままで、すぐに怒るものだと思っていたが……。
今日でこの子も三日目。
ここ二日間で客は無し、サクラ一人だからもらえる給料はたった四千円。
それでもめげずにこうして来る彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「本当にごめんなさい」
「あはは、大丈夫ですって」
「俺、頑張って客たくさんつけられるようにしますから」
「ありがとうございます」
逃げ出せないのなら、もっと真剣に仕事に取り組もう。
どんな悪条件だってもうこうなったら腹を括ってやるしかないんだ。
店を開けたら客が来るまでひたすら待ちの商売。
四坪ほどの狭い店内にはギュウギュウに詰めればようやく三人ほど座れるソファーがある。
客が来たら女の子を選んでもらい、到着するまでそのソファーで待ってもらう。
女の子が店に来たら、客と一緒にレンタルルームへ行くという流れ。
まあ女の子を選ぶっていっても、現在はまだ『ミミ』一人だけだけど……。
店に村川が入ってくる。
「どうだ、調子は?」
「まったくですね。村川さん、一度全体的に今みんながどう動いているのか把握したいので、當間と有木園に召集掛けられませんか?」
「おう、いいぞ。やっとおまえもやる気出してくれたか」
「そういう風に強引にさせられただけです」
「け、可愛げのねえ野郎だ」
嫌味の一つぐらい言っても問題あるまい。
こんな状況に追い込んだ村川を憎いと思う自分と、どこか彼の生き方に対し同情している自分がいた。
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