岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

5 忌み嫌われし子

2019年07月16日 17時58分00秒 | 忌み嫌われし子

 

 

4 忌み嫌われし子 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

1234567891011あとがき仕事先でも、私はブログの事を考えるようになっていた。暇さえあれば、携帯でチェックしてしまう自分がいる。例え時間が掛かったとしても、私はコメン...

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 私たちが我が家へ帰ると、玄関先では娘の佳奈が待っていた。
 河合が来るのが嬉しくて仕方ないのだ。父親の心境でいえば、複雑な感情だった。ブログに私がのめり込めばのめり込むほど、家族との絆が離れていくとでもいうのだろうか。
 みゆきは河合にいいところを見せたいが為に、必死に台所へ立っているのだろう。
 居間へ河合を通すと、みゆきはほとんど料理の準備を、終わらせているところだった。私ではなく、河合に視線を合わせると、嬉しそうに微笑んで会釈をする。
 私が作り上げた空間なのに、私が一番いらない存在みたいだ。
 家族の絆…。こんなにも脆いものなのか。
「あなた、河合さん、お帰りなさい」
「奥さん、今日、これはこれは、メチャクチャすごいご馳走じゃないですか」
 私が挨拶を交わすよりも早く、河合はちゃっかりと、夫婦の間に入り込んでいる。
「いきなりだったから大したものできないけど、たくさん召し上がってね」
「はい、いただきます」
 いきなりで大したものができなくて、この状態か…。ではいつもの食事は、一体どう表現するばいいのだろう。
 河合に弱みを握られた今、そう邪険にする事もできない。気がつけば河合は私にとって、家族の元凶の元になっていた。その元凶を招き入れたのは、私自身ではあるが……。
 妻の料理をがっつきながら、おいしそうに食べる河合。
 私はあまり食欲がなかった。
 娘の佳奈は、先ほどの電話の応対のせいか、私と一度も目を合わせようともしない。
「ご馳走さま……」
「あら、あなた、もういいの?」
「今日は酒を先に飲んでしまったしね。なあ、河合君」
「はい、でも、自分はまだまだ食べられますよ」
「ははは、いっぱい食べてってくれよ。そのほうが、うちのも喜ぶだろう」
 今、ここに私がいてもいなくても、誰も変わらない。それだけはハッキリと理解できた。ならば、私の好きに行動してもいいだろう。ここ最近、ちゃんとブログの記事すら書けなかった。他の人へ、コメントを返す事さえできないでいた。
「奥さん、またあの曲掛けてもいいですか?」
「ご自由にどうぞ」
「へへ、すみませんね~」
 我が物顔で音楽を鳴らす河合。曲は馬鹿の一つ覚えみたいにアルルの女だった。
「ねえ、河合のお兄ちゃんって、彼女はいるの?」
「何で?」
「だって格好いいし、こういう大人っぽい曲とかも知ってるでしょ」
「ははは、残念ながらお兄ちゃんは独身で一人ぼっちなのだ」
「河合さん、ちゃんとご飯作ってくれる彼女さんいないの? 会話とかも手馴れているし、さぞかし女性からモテるんじゃないの?」
「そんな事ないですよ。モテないから時間を持て余しちゃって課長にこうしてパソコンを毎週教えに来ているんじゃないですか~」
「あら、無理してんじゃないの?」
「全然。何なら週一回を二回でも三回でも増やしたって構いませんよ」
「ほんと?」
「佳奈ちゃんがもう少し大きくなったら、お兄ちゃんがパソコンとか色々教えてあげるよ」
「わーい、やったぁ」
「その代わり大きくなったら、お兄ちゃんとお礼にデートしてもらっちゃおうかな?」
「今すぐでも構わないよー」
「河合さんがお相手なら家族一致で大賛成よね、フフフ」
 河合にいい顔をしている家族。会話を聞いているだけでイライラしてくる。
 勝手にやっていろ……。
 背後からビゼー作曲のアルルの女が聴こえてくる。こうなると忌々しい曲にしか聴こえない。

 私はパソコンを起動し、自分のブログを開く。見ろ…。家族から好かれなくとも、私のブログにはこれだけの人が、コメントをくれている。こんな私でも、必要としてくれる人たちが、たくさんいるのだ。
 みゆきもみゆきだ。自分で家族の事を考えろとか抜かしながら、自分じゃ、若い男が家に来ると大はしゃぎ…。みっともないものだ。それでいて、私のブログに携わる時間が、おかしいと言うのか。勝手な言い分だ。
 娘の佳奈もそうだ。ずっと可愛がってきたのだ。それをポッと出の男になつきやがって…。「パパ、大好き」と言っていた佳奈は、一体どこへ行ったのだ。
 父親の私がこんな惨めな思いをしているのに、それに気付きもしない家族。こんな時ぐらい、私のそばにいてくれてもいいじゃないか……。
 モニタが滲んで見える。私は目に涙を溜めていた。情けないものである。
 ずっと必死に、家族の為に私は頑張ってきたと、胸を張って言える。築き上げた幸せが、永久に続くと思っていた。それがこんなに脆いものだったのか、私たちの絆は……。
 似たような台詞が、頭の中でうごめいている。
「あはは、河合のお兄ちゃんって最高」
「あーおかしー。河合さんったら」
 何度も聞こえてくる家族の楽しそうな笑い声。私の心を徐々に傷つけていく。
「まあ、いいさ……」
 ボソッと独り言を呟くと、コメントをチェックした。またあの真っ暗で肌寒い空間へ…、いや、違うだろ。今はこの空間だけが私を癒してくれる。私は一人じゃないんだ。

(ミーフィー)
 こんにちは、何かあったんですか? 私で良かったら、言って下さいね。あはっ!

(牧師)
 むう、何かあったのですか? お仕事が忙しいだけなら、いいのですが……。
 人間、体が資本です。ご家族の為にも、気まぐれパパさん。自分の体を自愛して下さい。

(らん)
 あれ、いつも楽しそうなパパさんじゃないような…。何かあったのですか?
 私は、いつも気まぐれパパさんのブログを見て、元気をもらっています。でも、たまには、ゆっくり自分を癒して下さいね。

(自分流)
 愚痴を吐く事で自己を浄化できるなら、吐いてもいいと思います。
 応援していますので、ご無理をなされずに。

(お絵描き番長)
 疲れているんですね、気まぐれパパさんも……。
 そんな時はおいしいものを食べて、ゆっくり寝ましょう。

(あさがお)
 はじめまして、あさがおです。
 う~ん、みんなが、言っているように、何かあったのでしょうか? 何とか元気付けてあげたいですね……。
 そうだ。僕の考えたポエムを見て下さい。
 朝、僕はリンゴをかじりました。
 すると、リンゴに赤いものがついていました。何でしょうか……。
 血です。リンゴをかじると、血が出ませんか?
 僕は、血が出てしまったんですよ。分かりますか?

 何だ、この阿呆みたいな奴は…。神経がピリピリしてくる。何が、あさがおだ。笑わせてくれる。こういう馬鹿とは、関わりにならないほうが懸命だ。
 せっかくいい気持ちでコメントを読んでいたのに、水を差されてしまったような感じがする。
 それにしても、みんな、本当に優しい人たちだ。あのお絵描き番長ですら、こんな優しい言葉を掛けてくれる。嬉しいものだ。
 言葉のやり取り一つで、人間は傷つきもし、元気付けられる事もある。その辺は、私も日頃から気をつけねばならない。
 私はブログの人たちに元気付けられている。感謝を感じている。ならば、ちゃんとコメントを返すのが、人間としての筋道だろう。
 一番初めにコメントをくれた気まぐれマダムさんのところから、訪問して行こう。妻のみゆきが、あとになって何かを言ってきても、知った事じゃない。私はこの家の主なんだ。頑張って金を稼ぎ、ずっとやってきたのだ。ブログの返事ぐらいで、あれこれ言われる筋合いなどどこにもない。
 気まぐれマダムさん…。一体、どんな女性なのだろうか。男として非常に気にはなっていた。
 今日、会社帰りに寄り道したお触りパブの女の感触を思い出す。いやらしい豊満な肉体。若い女は、やはり肌のきめ細かさまが違う。
 三十五歳になるうちの妻とは、全然違う体……。
 悶々とした感覚に、陥りそうになっていた。
 気まぐれマダムさん、何歳ぐらいの人なのだろう。私は、勝手にお触りパブの女の肉体を、マダムさんに重ねてみた。ちょっとした興奮が疼く。
 部下の河合が言っていたオフ会……。
 うまく私も、他の女性とできないものだろうか。幸い河合はうちの妻にパソコンを教えると言っている。この際、一蓮托生だ。あいつは私の弱点というか、店に入っていった一部始終を見ている。敵対心を持たず、運命共同体としてやっていくしかない。
 みゆきの相手をさせ、うまい料理を食わせる代わりに、私はある程度の自由をもらう。別に私が悪い訳ではない。家族の冷淡な対応が悪いのだ。
 昔から、私はいつもそうだ。
 誰からも、特に必要とされない。
 少しぐらいのハメを外したって、罰は当たるまい。
 まず、自分の幸せを考えよう。少しだけ、気が楽になってきた感じがする。

(気まぐれパパ)
 気まぐれマダムさん、ご心配をお掛けして、すみませんでしたね。
 コメント嬉しかったですよ。もしも、どこかでお会いする事があったら、日頃のお礼も兼ねて、おいしいものをご馳走したいものですね。なんちゃって……。

 うん、なかなかユーモアセンスに溢れたいいコメントが書けたぞ。我ながら、よく気の利いたコメントができたものである。私は、自画自賛をした。
 次々とコメントの返信をして、色々な人のブログを回る。
 牧師さんのブログ「空の教会」へコメント中、たまたま他の人のコメントが目に入った。

(トライ)
 牧師さん、意見ありがとうございます。
 俺の彼女のところの嵐。やっと誰か判明したんですよ。今さっき、ケチョンケチョンに、文句を書き込んでやったところです。これで懲りてくれれば、いいのですが……。

 何やら、物騒なコメント…。私は、このトライという子に興味を持った。彼のコメントの下にあるアドレスから、ブログへ飛んでみる。
 トライという子が、怒っていた内容が、そこには詳しく書かれていた。怒りは半端じゃないようで、かなりの長文で書かれている。
 彼のリンク先に彼女のブログがあったので、とりあえず行ってみた。
 要約してみると、トライ君には、彼女のぴよちゃんがいて、各自、二人ともブログを持っている。その彼女のぴよちゃんのところに、ある日、酷いコメントが掲載された。
 そのコメントを私が見た限り、確かに酷い嫌がられせにしか感じないもので、見ている方も気分が悪くなってくる。

(まんじゅう)
 あんた、馬鹿じゃん?
 いい年こいて、ぶりっ子してんじゃねえよ。全然、彼氏と釣りあい取れてねえじゃん。

(まんじゅう)
 そんな熱々なら、ブログにわざわざ書かなくてもいいじゃん。あぁ、キモ~イ……。
 いっその事、死んじゃえば?

(まんじゅう)
 うわ、また更新してるの?
 私のコメント、頭来て何度も削除してるみたいだけどさー。また、書き込めばいいだけだよ。いつもいつもお疲れさんね~。
 あんたなんか、彼氏とお似合いなんかじゃねえって。

 このまんじゅうという人物…。言葉から察するに、女性だろうか。
 ぴよさんの各記事に、乱暴なコメントを書き込んでいる。そんなに彼女の記事を見るのが嫌なら、コメントなどしなければいいのに……。
 これでは彼氏であるトライ君が、怒るのも無理はない。一体、まんじゅうという人物は、何が目的で、このような嫌がらせをしてくるのだろうか。
 よほどの暇人だろうか…。それとも、人が困るのを見て楽しむ、ただの愉快犯……。
 とりあえず、私はトライ君の記事に、初コメントを残す事にしておいた。

(気まぐれパパ)
 はじめまして、牧師さんのブログから飛んできました。
 何やら彼女さんが、大変なようですね。このような嫌がらせをする人を、嵐と呼ぶのですか? 本来、ブログって楽しむ為にあると、私は思います。なので、あのようなコメント、見ていて、いい気分はしませんね。トライさん、彼女さんを守ってあげて下さいね。

 ブログ…、いや、ネットの世界って色々あるものだなあと、つくづく感じる。みんな、楽しくやりたいから、日頃の自分が言えないような事を、現したりするような場ではないのだろうか。
 姿形、名前が分からないから、何をやってもいい。そんな事は間違いである。
 楽しいだけのネットの世界……。
 本当は、それだけではないのである。実際にこの世の中、色々な人間がいるのだ。だから、おかしな犯罪だって起きる。自分の考え以外の範疇で、行動をする人間だって、たくさんいるのだ。
 嫌な時代になった……。
 知人からも会社の同僚たちからも、そんな台詞をよく耳にする。
 私が、それだけ年を取った証拠なのだろうか。昔は、こうだった。昔は、ああだった。そんな風に言いたくなる時もある。
 しかし、私が若かった頃、同じように年配の方から、昔はこうだったと言われたものだ。
 きっと、その時、その時の時代の波というか、移り変わりなのだろう。
 世の中、情報社会だというが、無駄な情報が乱立している。ニュースで嫌な事件ばかり、無駄に流している。
 今日、学校で教師が苛めに加担していたとか、幼い子が誘拐され殺されたとか……。
 ただ、暗い話題を、一般市民に流しているだけなのだ。そのあと、どうするのか。そんな事など、お構いなしである。あまりにも目を覆いたくなるような事件が多く、やがて人々は、感覚だけがどんどん麻痺していく。
 今、私の子供たちもそうだが、将来、社会に出る時に、本当に心から笑える世の中で、いられるのだろうか。そこには暗い現実が、待ち受けているだけである。
 ある程度の規制なくして、人間は統括できない。それが、つい最近まで教育の方も、ゆとり教育とか訳分からないものを実戦していた。考えれば考えるほど、恐ろしい世の中である。
 背後で物音がした。
「課長、何、一人でパソコンいじっているんですか?」
 私のところに来たのは、部下の河合であった。
「……」
 河合の後ろには、妻のみゆきまでいた。嬉しそうな表情で、河合の後ろ姿を眺めている。何だか不愉快になる光景であった。
「あなた、河合さんが、私にパソコンを教えてくれるんだって」
 声が上ずるぐらい嬉しいのか。そう言いたかったが、何も言えない私。
「課長、奥さんにパソコン教えたいので、いいでしょうか?」
「あ、ああ……」
 ふざけやがって……。
 一家の主は、この私なんだぞ。飯のあとは、パソコンまで取り上げようというのか。今現在、私は作業をしているところなんだぞ。何で、おまえらの為に……。
 声に出せない悲痛な叫びだけが、頭の中で響き渡る。思いとは裏腹に、無言のまま、席を立った。
 みゆきが私の座っていた場所に座り、その横にどこからか椅子を持ち出してきた河合が、ちゃっかり図々しく腰掛ける。まったく馴れ馴れしい奴だ。
「いいですか、奥さん?」
「ええ」
「まずですね……」
 その場で、ただ見ているだけの状態。せつなさと虚しさ。やり場のない怒りだけが、増幅していく。
 つい、この間まで、ブログは辞めてと言っていたみゆき。
 それが何だ、その笑顔は……。
 河合を見つめる妻みゆきの目。私はしばらくその様子をジッと眺めていた。おまえの目は、私だけを見てくれるんじゃなかったのか……。
 胸の奥がギュッと締め付けられるような痛み。些細な事かもしれない。しかしこの感情は、慎重に積み重ねてきたものを崩壊されてしまうという危機感に近い。
 真っ暗な闇に覆われた肌寒い空間。私の居場所は常にそこで膝を丸め座っているだけだった。呪われた運命を嘆き、誰にも言えなかったあの頃。そうするしかできなかったのだ。
 歯を食い縛り、必死に生きようとした。誰に必要とされなくてもいい。それでもいつか安住の地を築いてやる。
 生真面目過ぎると友人から何度も言われた。しょうがない。こう生きるしか私には術がなかったのだから。
 一人になれば膝を丸めて顔を伏せ、暗闇に身を委ねた私。孤独というものがどういうものか。それは言葉にできるものではなく、自身で感じるものなのだ。目の前に広がる闇に慣れていく事。それが孤独だ。
 そんな風にしか考えられなかった私に手を差し伸べてくれ、優しい光をくれた女性。
 ずっと私だけを見てくれていると思っていたのに……。
 長年信用してきた妻に、裏切られたような感覚さえした。
「……」
 私は、黙って寝室へ向かう。どいつもこいつも、勝手にしろ……。
 別にいい…。私は昔のように、孤独になっただけだ。ジトッとした冷たい布団の中で、膝を抱え、丸まって寝た。
 不思議とこの窮屈な体勢が、私は落ち着く。
 卑屈だった若き頃。いつも、こうして寝たものだ。安らぐ…。私は、自然と睡魔に引き込まれていった。

 息子の卓と一緒に公園で遊んでいる夢を見た。
 幼い姿のままの卓。
 この子が生きていれば、私はどんなに幸せに過ごす事ができただろうか。
 所詮、みゆきも佳奈も女なのだ。あの薄汚れた母親と同じ女。
 何故、神様は私から卓を奪ったのだろう。
 卓がいれば、こんなにも孤独感を覚える事などなかったろうに……。
 せめて夢の中ぐらい、親子水入らずでゆっくり楽しもうじゃないか。
 なあ、そうだろ、卓?
 卓は屈託のない笑顔で私の顔を見ながらはしゃいでいる。
 このまま時が止まればいいのに……。
 温かい何かが、我が子を抱く腕から伝わり私の体内へ注がれていく。
 川に浮かんだまま発見された卓の水死体。
 未だこの両目の眼に焼きついたままだ。
 生き甲斐を奪った顔も知らぬ犯人が憎かった。
 犯人を見つけ、この手でメチャクチャにしてやりたかった。
 父がそんな事を考えているとは知らず、卓は私の顔を小さな手で触ってくる。
 あの頃に時間が戻ったら……。
 夢の中でどこからかアルルの女が聞こえた状態のまま、私は卓を抱えたまま号泣していた。

 朝になり、妻に体を揺り起こされる。
「あなた、そろそろ起きて。仕事の時間よ」
 何か夢を見ていたようだが、何の夢だったかさえ思い出せない。
 真っ白な天井が、瞳に映る。あのまま、私は寝てしまったのか。
「あれ、河合君は?」
「何、言ってるの。昨日、河合さんが帰ろうとしたら、あなた、全然、起こしても起きなかったじゃないの」
「そうか……」
 一体、妻は何時頃まで、河合にパソコンを教えてもらっていたのだろうか。気にはなるが、それを知ってどうなる訳でもない。
 体を起こし、時間を確認する。まだ、出掛けるまで一時間ぐらい余裕があった。
「ねえ、あなた。パソコンって面白いのね。やってみて初めて分かったわ」
 あれだけ辞めてと言っていたくせに…。まあいい。私も自由にやらせてもらう。
「腹が減ってる。みゆき、何か朝食を作ってくれよ」
「ご飯がいい? それとも、パンがいいかしら?」
「任せるよ。あ…、やっぱりご飯がいいかな……」
「今から用意してくるわ」
 妻が寝室から去ると、私は軽く伸びをして、パソコンのある部屋に向かう。みゆきも、河合にパソコンを教えてもらっていたが、昨日の今日でブログなどできないだろう。
 自分のブログを開く。昨日書こうと思っていた記事を朝の内に書かなくては……。
 毎日のように記事を書き、コメントを返すのがいつの間にか当たり前になっている。案の定あれからまたコメントがあった。

(トライ)
 コメントありがとうございます。気まぐれパパさんのブログ。実は前から気になって、覗いてはいたんです。ほのぼのしていて、勝手に癒させていました。
 そんな気まぐれパパさんに、あのようなコメントをいただき、ありがとうございました。素直に嬉しいですね。
 例の嵐の件。あれから、さらにガツンと言ってやったので、少しは懲りたと思います。

(しろたぬき)
 はじめまして、しろたぬきです。ブログって色々な事ありますよね。私も色々と、考えてしまう事ってあります。人の気持ちを理解するって、大切な事ですよね?

(あさがお)
 あれ、記事が更新してないですね。おはようございます。あさがおです。
 今度、僕のブログにも来て下さいね。お待ちしてますよ。
 朝から素敵な素敵な僕のポエムで、清々しい朝を迎えて、仕事にレッツゴーです。
 そうだ、ここで一丁、朝のポエムをいかせていただきますか。駄目って言っても、書きますよ。これはもう、決定事項なんですからね。いきますよ?
 朝になれば、快便……。
 あれ、おかしいな。黄色い粒々が……。
 あ…、これは昨日食べて、消化し切っていないコーンだ。黄色いコーン…。快便の中でも黄色は黄色。でも、カレーじゃないよ。

 おお、トライ君から早速コメントが……。
 それに、しろたぬきさんという女性の方まで……。
 それにしても、このあさがおって野郎…。せっかくの気分が台無しだ。イライラさせやがって…。何がコーンだ。まったく……。
 これじゃあ、トライ君の彼女のぴよちゃんのところにいる嵐と変わらない。種類は違えども、人を不愉快にさせる点では同じである。
 そうだ、コメントを見るよりも、早く自分の記事を書かないと……。

『ご機嫌パパ日記 その五十四』 気まぐれパパ

 私の記事で、みなさまにご心配掛けてしまったようですね。
 まことに、すみませんでした。
 昨日はゆっくり寝られたので、朝から気分爽快です。初めて数ヶ月のこのブログも、気付けば、たくさんの人たちに励まされ、今日までやってこれました。
 より一層、これからも頑張りたいと思います。
 最近、ブログのタイトル通りでなく、全然ほのぼのしてなかったですね。ご機嫌パパ日記の名に恥じぬようやっていきたいものです。
 実は最近、ちょっとした行き違いで、妻と言い合いになっていたのです。うちの妻は、料理もうまく、気遣いもできる才色兼備だと思ってはいますが、一度、言い出すと、引かない一面があったりします。まあ、夫婦なので、思いやりをもりながら、うまくやっていきたいですね。ちょっとした行き違いさえなければ、さすが私の女だと周囲に自慢したいぐらいなのですが。
 男と女、一生のテーマなのかもしれません。なかなか難しいものです。
 さてさて、そろそろ時間です。
 これから朝食を食べて、会社に行って参ります。

 この記事をみゆきが見たら、何か言ってくるだろうか。
 まあいい、ここは私の空間である。そんな酷い事は書いていない。
 私はパソコンを閉じて、居間へ向かう。鮭の焼けるいい匂いが漂ってくる。食卓には、娘の佳奈が眠そうな目を手で擦りながら、椅子に腰掛けていた。
「おはよう、佳奈」
「あ、パパ…。おはよ~…。フォァ~」
「何だ、アクビしながら」
「だって、まだ眠いんだもん」
「はいはい、お待ちどうさま」
 みゆきが、テーブルの上に、料理を次々運んでくる。
「ん……」
 焼き魚を置いた時だった。少し屈んだ時に見えた妻の首筋。そこには、小さな痣のようなものがついていた。
 一瞬だったが、キスマークのように見えた。
「どうしたの、あなた?」
「い、いや…、何でもない……」
「変なの……」
 食事を済ませ、会社に行く身支度を済ませる。先ほどのみゆきの首筋についたキスマークのようなものが、脳裏から離れないでいた。
 玄関で靴を履いていると、みゆきが見送りにやってくる。靴べらを手渡し、彼女がそれを壁に掛ける瞬間だった。背伸びして洋服から少し突き出す首筋。私はその瞬間を見逃さなかった。
 単なる虫刺されだろうか。それともキスマークなのか…。妻の首筋には、間違いなく小さな痣のようなものが、ハッキリと確認できた。
 もし、キスマークだとしたら、一体、誰との……。
 思い浮かぶ顔は、部下の河合だけだった……。
「いってらっしゃ~い。頑張ってね、あなた」
「ああ……」
 出来る限り自然な形で努めるように、作り笑顔をした。
 不思議な事に、あれだけ言っていたブログについて、妻は何も触れてこなかった。仕事から帰ったら、今後、河合に本格的にパソコンを習うのか、ちゃんと聞かないと……。

 今日会社では、河合の奴、私を避けているのでなないかと思うぐらい接触がなかった。
 いつもなら昼休み、社員食堂にいれば、笑顔で擦り寄ってくるのに、今日は姿さえ見せない。一体、どこにいるのだ。
 妻と河合への疑惑。考えると、苛立ちだけが増してくる。
 考えても仕方ない。納得する答えが出る訳ではないのだから……。
 それでも、つい、考えてしまう。頭の中で、みゆきと河合の淫らな想像がリアルにできてしまう。
 仕事が手につかない。河合は元々、うちの妻が目当てで、私に接触してきたのだろうか。もし、本当にそうなら、真剣に対策を考えなければいけない。
 今までの河合との会話。何か不可解な言動はなかったのか。私は、彼との会話を必死に思い出した。

「可愛いお子さんに、美人の奥さん。しかも料理の腕はプロ級ときてます。ほんと、課長って何でも手に入れたんだなって、みんな、言ってますよ」

「バーチャル空間同士だった人間が、現実に実際会う。それをオフ会っていうんですよ」

「それと、男と女…。どこかでお互いが興味あるから、わざわざ時間を割いて会ったりする訳で……」

「ブログって、楽しいだけじゃないんですよ、課長」

「あれ、ちょっと不機嫌ですね? 何か家であったんですか? 綺麗な奥さんと、夜の生活がうまくいってないとか……」

「じゃあ、俺の希望聞いてくれます?」

「ええ、奥さんに私がね、パソコンを教え、自分のブログを持たせるんです。そうすれば、ブログの良さも気付いてくれますよ。課長の心理状態も、分かるはずです」

 分からない……。
 みゆきは、河合との間に、何かあったのか。うちのみゆきに限って、他の男に目移りするような事はないはずだ。あれは、虫に刺された跡か何かだろう。
 そう都合よく、自分に言い聞かせるよう、努力した。

 空いた時間、携帯からコメントをチェックしてみた。
 できれば、妻と河合の件を考えたくなかったのだ。今、試行錯誤しても、物事を悪い方向で考えてしまうのは、分かりきっていた。
 河合と関わった私が、いけなかったのだろうか。いや、そんな事はない。彼は純粋に、パソコンを教えようとしているだけだ。
 頭が混乱していた。コロコロと思う事が変わる。

(ちゃち)
 男と女って、確かに違いますからね。お互いが違うからこそ、難しいけど、そこが面白いところでもあると、私は思います。

 あ、ちゃちさんからだ。嬉しいコメントを残してくれるものだ。私は、携帯を操作して、次のコメントを見る。

(お絵描き番長)
 気まぐれパパさんは、どうして、私の女って呼び方をするのでしょうか?
 恥ずかしいから? それとも、格好いいと思ってるとか?
 私だったら、「私の女」呼ばわりされたら、カチンときますね。あなたの女には違いないが、女性を侮辱した呼び方みたい……。
 何だか、独占欲の強い男みたいですね。

 携帯を持つ手が震えていた。
 このお絵描き番長とかいう奴…。私の記事の何を見ているのだろうか。別に私は、女性を侮辱しているつもりなどないし、馬鹿にもしていない。
 今まで番長っていうから、てっきり男だとばかり思っていた。女性だったのか。
 以前も、理不尽な訳分からないコメントをされた事があった。ブログを続けていく以上、私にとって要注意人物になるかもしれない。
 どういう頭の構造をしているのか、一度、中身を見てみたいものである。
 妻のみゆきの首筋の痣のようなもの。
 その件でずっと考え、苛立っていたのが、このコメントでさらにイライラが増した。よくもまあ、このような失礼なコメントを平気で書けるものである。神経を疑ってしまう。
 私が自分の妻をどのように呼ぼうが、自由である。みゆきに文句を言われるなら、理解できるが、何故まったく関係のない番長に、このような事を言われる筋合いがあるのだろうか。
 あのあさがおといい、番長といい、問題児は放っておこう。相手にするだけ、こっちが苛立つだけだから……。
 こんな事ばかり考えていたら、ノイローゼになりそうだ。
 今日、帰ったらさり気なく妻に聞こう。その首筋はどうしたのかと……。
 それと河合の目的も、できれば聞いておきたい。本当の狙いは何なのか。みゆきを本当に狙っているのか。

 

 

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