結局この日、河合の姿は見当たらず、仕事が終わる時間になった。
帰り際、彼と仲のいい社員に、さり気なく聞いてみる事にした。
「お先に失礼するね」
「あ、木島課長。お疲れさまでした」
「そういえば、河合君…。今日、姿が見えなかったようだが?」
「ああ、あいつ、今日、体調悪いって休んでいますよ」
「……」
昨日うちでご飯を食べ、私はあのまま彼が帰ったのを確認もせずに寝て、普通に起きて会社に来た。
一つの疑惑が浮かび上がる。あれからずっと河合は、私の家にいたという……。
「木島課長。どうかしましたか?」
「ん、いや…。風邪か何か引いたのかな?」
「どうでしょうね。奴は女好きで、あっちこっち手を出しているから、案外、体調不良を口実に、どこかで女を口説いているのかもしれませんね」
「あ、明日、来たら、とっちめてやるか?」
「ははは、木島課長に言われたら、シュンってなりますよ」
「では、お先に……」
必死の演技であった。内心、はらわたが煮えくり返っていた。妻の首筋にあるものは、キスマークなのだという確立が上がっただけなのである。
今、家にすぐ帰れば、河合はいるのだろうか。
帰り道、自然と小走りに歩いていた。
両親に見捨てられ、今、私は最愛の妻にまで、このまま見捨てられるのだろうか。自分が頑張って築き上げてきた家庭。今、それが簡単に崩されようとしているのだ。
家の玄関先まで着くと、ドアを開けるのを躊躇ってしまう。
「落ち着け……」
軽く深呼吸をして、精神を安定させる。携帯を開き、自分のブログを見てみた。誰でもいいから、優しい言葉がほしかった。
(青い鳥)
こんばんは。幸せを求めて、あちこち彷徨っている青い鳥です。
どう楽しく過ごそうかと、只今、チェンマイでゴルフ三昧です。いや~、こちらの気温は暑い暑い…。だけど、清々しい気分になれます。
気まぐれパパさんも、幸せの青い鳥を見つけ、楽しんで人生を謳歌して下さいね。
ほう、随分落ち着いた感じのする方だ。
あとで、パソコンをつけたら、青い鳥さんのブログへお邪魔してみよう。どんなブログをやっているのか、非常に興味が沸いてくる。
うん、これで少しは落ち着けた。私は、玄関の扉を開き、大きな声で言った。
「ただいまー」
靴を脱いでいるところ、佳奈が駆け寄ってくる。
「おかえりー、パパ」
「ああ、ただいま。ママは?」
「ママは夕飯作っているよ。」
「そうかい」
河合は、どうやらいないみたいだ。人間、嫌な事を考え出すと、とことん悪い方向に考えてしまう習性がある。きっとみゆきの件も、私の考え過ぎなのだ。
スーツを脱いで家用のジャージ姿になり、居間へ向かう。
「あら、あなた。おかえりなさい」
「ああ、ただいま。お、今日は私の大好物のさんまじゃないか」
「ええ、ちゃんと大根おろしも、いっぱい摩り下ろしてありますよ」
「ありがとう」
「ふふ、食べ物で、そんなに嬉しそうな表情をするなんて、子供みたい」
「大好物は、何歳になっても大好物さ」
「あ、佳奈。もう時期ご飯できるから、運ぶの手伝ってちょうだい」
「は~い」
手際よく料理を作りながら、妻は私に後ろ姿のまま、会話を続けた。
「そうそう昨日、河合さんに私、パソコン教えてもらったじゃない?」
「ああ……」
何故ここでわざわざ河合の奴の名前を出すのだ…。心の中で舌打ちをした。
「前は携帯からしか、あなたのブログ見れなかったから、分からない部分あったけど、パソコンからだとすごいのね」
「それは、携帯より、パソコンのほうが性能いいしね」
「初めてパソコンいじってみて、ネットというのできるようになったのよ」
「ははは……」
「でね、あなたのブログも見てみたんだけど、例のトライさんだっけ?」
「ん? ああ、彼が何か?」
「二十歳ぐらいの子。ほら、彼女が、嵐に遭ったとか、書いてあったでしょ?」
「うん」
「私、彼女さんのブログとかも、暇があったから見てみたのね」
「ああ、ぴよちゃんって子のとこだろ?」
「うん。それでね…。私、何となくだけど、そのぴよさんところの嵐って、誰か分かっちゃったのよ」
「え?」
意外な展開に、驚きを隠せないでいた。トライ君は、ある程度、嵐が誰か分かったような事を書いてはいたが、何故、みゆきまでが……。
昔、小説家を目指していただけあって、鋭い洞察力はまだまだ健在なのかもしれない。
私には嵐が誰かなど、さっぱり目星もつかない。
「一体、誰なんだい?」
「話すと長くなるから、ご飯のあとね。それにあなた、わざわざ自分のブログに私と衝突した事なんて書かなくてもいいでしょ?」
「あ、ごめんよ」
「見る人が見れば、過去に写真だって載せているんだから分かっちゃうよ。そんなの恥ずかしいじゃない」
「ごめんよ。これからは気をつけるよ」
「じゃあ、たまにはご飯の準備するの、手伝ってよ」
「はいはい」
みゆき主体で話は進んでいたが、不思議と悪い気持ちはしない。多分ここ最近の私は、ただ単に疲れていたのだ。
過去の嫌なトラウマにずっと縛られ、なかなか抜け出せない私。
しかし、それを今の家族に当てはめようとするのは、大きな間違いである。もう少し、その辺は自分自身を反省せねばなるまい。
ご飯を楽しく食べながら、私は例の嵐とは誰なのかがとても気になっていた。
さっきまで河合憎しでいたのが嘘のようである。人間、思い込みはというのは恐いものだ。
食事のあと私はパソコンを起動し、青い鳥さんのブログを拝見した。
もう定年退職されたらしく、夫婦仲良く共に素晴らしい生活をしている。私たち夫婦も年をとった時、このような感じでいられたらいいなと思わせるようなブログであった。
本当に男女年齢問わず、様々な人がいるものである。
コメントの返信をしていると、妻が後片付けを終え、やってきた。
「前はごめんね」
「何が?」
「ブログを辞めてとか言って……」
「いや、私も佳奈の写真を、無責任に載せてしまっていたからね。後先考えずにね。悪かったよ。ところで、先ほどのトライ君の一件。あれは?」
「私、昼間って時間あるじゃない? だから、色々あなたに関わりある人たちのブログとかも見ていてね」
「うん」
「それで、あれって気がついたのよ」
「一体、嵐って誰なんだい?」
「まずは、トライさんと、ぴよさんのところを開いてくれる?」
「ああ」
私は、二人のブログをクリックして開いてみた。
妻はしばらく二人の記事眺め、丹念にコメントまで色々と読んでいた。
「ほら、ここ。ちょっと見て」
「ん?」
「ここで、この女性の人。アズサさんって人ね。急にコメントなくなっているでしょ?」
「ああ、そうだね」
「…で、このアズサさんって、ぴよさんと同じ高校へ通う同級生なのよ」
「それで?」
「ぴよさんとも仲良しこよしのコメントは、過去から書いてはいるけど、トライさんのところまで二つとも同時に、同じ日にコメントがなくなっているのよ」
「あ、本当だ。という事は、彼女が犯人だったとでも……」
「多分ね……」
「鋭いな。確かに…。そこでね、このアズサさんのブログへ飛んで見て」
私はみゆきの言う通り、支持に従った。これだけブログに関わっている人がいるのに、誰一人、アズサが犯人だと気付く人間はいない。
「あ……」
「ほら、アズサさんのブログ…。もう、なくなっているでしょ?」
画面には、こう表示されていた。
表示しようとしたスペースは存在しないか、スペースの作成者によりアクセスが制限されている可能性があります。
「ブログを辞めちゃったのかな、この人?」
「多分ね。トライさん、どこかのブログで、嵐が誰かって、IPアドレスというもので、分かるんですよって書いてあったのね。私には、何の事だかよく分からないけど……」
「なるほど、彼がアズサって子だと分かり、文句を言う。それでビビッてブログを閉鎖した訳だ」
「う~ん、私ね。それはびっくりしたというのあると思うけど、それ以外にあったと思うのよ」
「それ以外?」
「ほら、ここのコメント、あんたなんか、彼氏と似合わないって、書いてあったりするでしょ?」
「うん」
「多分…、このアズサって子。トライさんの事が、大好きだったんだと思うよ」
「それで仲良さそうにしていた彼女に攻撃を?」
「うん」
「だって、トライ君には何もないじゃないか?」
「馬鹿ね、女ってそんなもんよ」
妙に今日のみゆきは、説得力がある。大したものだ。
「そこでね、何で私があなたに、こんな事を言ったか分かる?」
「いや……」
「確かにアズサさんは、人としてやってはいけない事をした。でも、女心っていうのかな。純粋にトライさんの事が、好きだったという部分もあると思うのね。しかも相手は、自分の仲がいい同級生でしょ? あれだけブログで名前は出されないまでも、色々書かれたし、今頃、どうなっちゃったかなって思うのよ」
「なるほどね……」
「そこで、あなたがトライさんにさり気なく、そろそろ勘弁してあげたらって言ってくれたら、私は嬉しいなと思ってね」
「う~ん、そっか……」
「それにうちの佳奈もあとちょっとしたら、このぐらいの年代になるでしょ? だからそれを考えると何だか放っておけなかったの」
「そうだね」
確かに佳奈も十歳だし、もうちょっとで難しい年頃になる。こういった恋の悩みも出てくるかもしれないし、そんな時私たちは理解力のある親でありたい。
「難しいと思うけど、あれ以上、アズサさん宛ての記事を書いていれば、彼自身の信用というか、価値が落ちてしまうと思うのよ。まだ、トライさんも、ぴよさんも若いでしょ?だから、年上であるあなたが、うまくまとめられないかなと思ってね」
「そうだな~。よし、やってみるか……」
「うん」
みゆきは、満面の笑顔で微笑んだ。
(気まぐれパパ)
トライさんへ……。
こんばんは、気まぐれパパです。
実は、ちょっとお話ししたい事が…。よろしければ、メールアドレスを書いておくので、メールがほしいです。よろしくお願い致します。
「みゆき、これでいいかな? あとは彼が、メールをくれるかどうかだね……」
「充分よ」
この日、久しぶりに私は妻を抱いた。
私の上にまたがり激しく腰を動かすみゆき。
快楽に溺れていた私が、ふと現実に引き戻された。
昼間、あれだけ悩んでいたみゆきの首筋。嫌でも私の視線に、キスマークみたいなものが映し出されるのであった。
腕枕をしながら、私はさり気なく聞いてみた。
「なあ、ここの痣みたいのどうしたんだ?」
「よく、分からないの。虫か何かに刺されたんだと思うんだけど、痒くてかいていたら痣みたいになっちゃってね」
「結構目立っているぞ」
「そう? 気をつけるわ」
普通に受け答えする妻を見て、ホッとした。すべては私の誤解だったのだ。
「昨日、河合に色々パソコン、教えてもらったんでしょ?」
「うん、まだインターネットの見方ぐらいしか分からないけどね」
「そうか」
「でも、面白いものね。来週の水曜日も来てくれるってさ」
「え?」
「あら、会社で聞かなかったの?」
「今日、体調不良で休んだんだよ、あいつ」
「あらら、寝坊しちゃったのかな?」
「どうだかな……」
キスマーク疑惑が解けた時点で、私は河合に興味がなくなっていた。
あれから一週間が過ぎた。
河合からは電話で連絡があったものの、有休を使ってその間ずっと会社を休んでいた。プライベートで私に連絡がある訳でもない。水曜日の日、みゆきは残念そうな表情でマウスを握っていた。
何か一週間であった事といえば、トライ君からメールが来た事だった。
私は、みゆきの予想した通りの事をまず彼に伝え、相手も悪かったと反省しているし、あのアズサさん宛てに書いた記事を消してあげてはどうかと、お願いした。
若い頃についた傷は、やがて一生消えないトラウマになる可能性だってある。この私が、未だにそうであるように……。
素直な彼は快く了承してくれた。
『気まぐれパパさんの言われた通り、彼女に関する記事はすべて削除させていただきました。人を想うパパさんの優しい気持ちがあって、私もこれまでの怒りが嘘のように消えたようです。何だかこんな事を書いてくすぐったいですが、気分は爽快です。色々と気を使わせてしまい、申し訳ありませんでした。そしてありがとうございます。 トライ』
嵐に関する記事をすぐに削除してくれたらしく、どこを探しても、アズサという言葉すら見当たらなかった。
嬉しいものだ。こういう優しい気持ちがいい人間関係を作っていく。
考えてみれば、うちの部下の河合とトライ君は同世代二十代なのだ。河合も、トライ君ぐらい素直だったらなあ。
まあそれは無理な話か。それぞれ個性ってもんがある。
あとはブログの仲間たちと、いつも通りのいい関係を保っていきたい。
私のブログも妻公認になったので、変な事じゃない限りいくらでも自由にできる。自分一人の楽しみだったブログ。今では夫婦揃って楽しむブログになっていた。
『ご機嫌パパ日記 その六十二』 気まぐれパパ
今日は、家族で電車に乗り、動物園に行って来ました。
娘の喜ぶ表情。本当に可愛いものです。この可愛い時があるからこそ、たまに生意気な態度をしても、やっぱり可愛い…。妻がそんな事を言っていましたね。
帰りに焼肉へ寄り、せっかくだから、いい肉を食べさせようと奮発しました。
おかげで今週は、小遣いが減り、貧乏生活になりそうです……。
(らん)
楽しそうな情景に、いつも私自身、元気をもらっています。
お小遣いが減るのを覚悟で、子供たちに…。素敵なパパですね。私は、まだ結婚してないですけど、もししたら、鬼嫁と呼ばれそう……。
「嫌だ、あなた。これじゃあ、私が鬼嫁みたいじゃないの」
「ははは、そんな事ないって。今、らんさんとかも言っていたように、私は将来、鬼嫁になりそうな予感がとかって、そういう言い方が流行っているんだろ?」
「そうね、ふふふ」
夢を見た。
仰向けに寝ている私の上に、裸のまま、母親が乗ってこようとする。不思議と夢の中だったので、母親は昔のままだった。それなのに、私は今の姿のまま……。
すぐ横では、幼い頃出て行ったはずの父親が、知らない女を抱いていた。私たちなど、まるで眼中ないように、セックスに没頭している。
「や、やめてくれ。母さん…。やめろって!」
「ほら、早く…。私を気持ち良くさせなさいよ。早く!」
そう言いながら、母親は、私のズボンを脱がそうとする。懸命に抵抗する私。いつしか母親の顔が、この間行ったお触りパブの女の顔に変わる。
無我夢中で女に抱きつく私。これは夢なのだ。必死に自分に言い聞かせた。
薄暗い場所の遠くで誰かが立っているのが見える。
ジッと目を凝らしてみた。
「みゆき……」
何も言わず、ただ悲しそうな目で私を見つめていた。
慌てて、お触りパブの女をどかし立ち上がる。
「みゆきーっ!」
そんな私を無視して、みゆきは去っていこうとする。
「待ってくれ。違うんだ…。みゆきーっ!」
追い駆けようとして、背後から肩をつかまれる。
「課長…。もう遅いんですよ」
「か、河合君…。今まで何を……」
「追い駆けるのは、俺の役目ですからね」
「何?」
妻のあとを河合が走って追い駆けていく。私は動こうとしても、足のつま先が地面に根をはったように動けない。
「おい、待て。河合君…。待て…、河合ーっ!」
体が動く……。
私は上半身を一気に起こした。もう冬になろうとしているのに、全身汗を掻いていた。
「一体、どうしたの? すごいうなされてたわよ」
みゆきが声を掛けてくる。
部屋をぐるりと見渡す。いつもの寝室だ。
あれは夢だったんだ……。
「ねえ、どうしちゃったの?」
「……」
「あなた?」
「む…、昔の…。昔の嫌なトラウマが蘇っただけだ……」
「……」
そっと私の頭を包み込んで、自分の胸元へ持っていくみゆき。
一定の心臓の鼓動が聞こえてくる。何だか、鼓動を聞いていると、癒されてくるような気がした。不思議と落ち着いてくる。
結婚する前に、妻へ私の呪われし過去を少しだけ話した事があった。
情けない事に自然と涙が溢れ出てくる私を、今と同じように包み込んでくれた。
「思い出しちゃったもんは、しょうがないもんね。私に言えばいいじゃない。こうやっていると落ち着くんでしょ?」
「……」
「あはっ…。子供みたいなんだから……」
みゆきに出会った当時を思い出す。
誰からも愛されず、誰からも必要とされず……。
呪詛のように繰り返し自覚させようとした言葉。
肌寒い闇の中にいる私に触れる温かいぬくもり。凍りのように冷めきった体温が、そこを起点に溶かされていく。ゆっくりとぬくもりを感じられる方向を見る。そこには眩い光を放ちながら優しく見つめるみゆきの姿があった。
あれから時間が経ち、共に老けた。しかしその視線は昔と変わらない。
久しぶりの安らぎに、私は思う存分甘える事にした。
先ほどのリアルな夢。これから何か、不吉な事が起きるとでもいうのだろうか。
みゆきにはすべての過去を伝えていない。
母親に犯された一件。
近親相姦…、いわばインセストタブー……。
常識、モラルといったものと真逆の位置にあるもの。
言えるわけないだろうが……。
この事だけは、自身の胸の奥へしまっておかなければならないのだ。私が口を開かねば、誰にも知られる事はない。
安らぎの空間の中、私はどこか心の奥底で何かに怯えていた。
「課長、お久しぶりです」
翌日、会社へ出勤すると、部下の河合は一週間も休んだというのに、何事もなかったかのように済ました顔で出勤していた。
普通ならもっと申し訳なさそうな顔をしても良さそうなものを……。
まあ、この普通ならというのが今では通じない世の中になっているのかもしれない。常識というものは自分の中で作り上げた勝手な不文律に近いのだから。
「今日、課長。お時間、仕事終わったあと、少しだけでもとれますか?」
「ん、何だ、いきなり……」
「ちょこっと課長に、話したい事ありましてね」
この一週間の休み。体調不良とは言っていたらしいが、この分では何か企んでいるのだろうか。
夜中見た、夢を思い出す。
夢の中とはいえ、河合の顔を見ていると、ムカムカしてくる。
「う~ん……」
「頼みますよ、課長。大事な事なんですよ」
「でも、君はうちのみゆきに水曜日、パソコンを教えると約束していたのに、電話一本よこさず、来なかったじゃないか」
「すみません。それに関しては謝ります。悪いの自分なんで…。でも、あの時は大熱で、本当にう~んう~んって、唸って苦しんでいたんですよ」
「分かった分かった…。まあ、今はとりあえずハッキリはできないけど、仕事終わったら、みゆきの方へ電話して、いいかどうか聞いてみるよ」
「えー、仕事終わってからとかじゃなく、今、聞いて下さいよ~。残業になりそうだとか、うまく言って下さいよ」
「勝手な奴だな」
「どうしても、話しておきたい事があるんですって」
「分かったよ…。うるさい奴だな」
私は、家に電話をしてみた。
「今日さ、ひょっとしたら残業になるかも…。うん、行ってすぐに、これじゃあ、あれかなと思ってね。まあ、ご飯は先に勝手に食べちゃってくれよ。うん、はい。じゃあ……」
電話を切ると、河合はすでに自分の机に戻っていた。あいつめ…。本当に調子のいい奴だ。
朝の会議を終え、業務に戻る。河合の話とは、一体何だろう? それが気になって、仕事に集中できないでいた。
昼休みになっても河合は社員食堂へ姿を現さず、私との接触はなかった。
携帯でブログをチェックしてみる。
(ぴよ)
トライから色々聞きました。何か、色々とお世話になったみたいで…。
ありがとうございました。
(気まぐれマダム)
焼肉…。おいしそうですね~。でも、マダムはどちらかというと、肉より魚派ですね。頑張ってお子さんたちに、優しい頼り甲斐のある背中を見せてあげて下さい。
たまにはお肉も食べたいわ~。
(自分流)
おいしさがこちらにまで漂ってきそうな写真ですね。
何だか私も焼肉を無性に食べたくなりました。
(ミーフィー)
こんにちは。こっちまで、いい匂いがしてきそうです。いいですね~。あはっ!
気まぐれパパさんの家族。ちょっと羨ましいな。
(ネコ)
はじめまして、ネコと言います。賑やかなブログですね。パパさんの人柄が滲み出ているような感じがしますね。
私はちょうど今、里帰りで日本に帰ってきているところなんですよ。
普段はオーストリアで生活をしています。
(カイコチャン)
うわ~、ヤバい! その量…。私一人でペロリと食べられちゃうかも……。
集まっている、集まっている。コメントがたくさん来ると、嬉しいものである。
家に帰ってからの楽しみが、これでまた増えた。
ここで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。仕事中の時間の流れは遅く感じるのに、こんな時ばかりは早いものである。皮肉なものだ。
退屈な時間をメリハリつけずダラダラと過ごし、終業時間を迎えた。河合はテーブルの上をガサゴソと片付けている。
妻には嘘をついたが、別段今日は残業する必要性もない。帰り支度を済ませ、河合のところへ向かう。
「河合君、今日はどうするの?」
「あ、課長。えーとですね…。飯は、どうします?」
「まあ、たまには外食もいいかもな」
「何系が食べたいですか?」
「基本的にだいたい和食だから、たまには洋食とかいいねえ」
「じゃあ、洋食にしましょう」
僅か一週間ぐらいの間だったが、彼とはほとんど顔を合わせていなかった。プライベートで話すのが、久しぶりのように感じる。
彼の選んだ洋食屋へ入り、私はハヤシライスを注文した。
たまには妻の作る料理以外の味を楽しみたい。久しぶりの外食は、新鮮でおいしく感じられた。いや、久しぶりだからというより、この店のの味付けは抜群だ。今度、機会があったら、佳奈を連れてきてあげたい。
子供が生まれてから、どこか行って気に入った場所があると、みゆきに話し、家族一緒に行こうと相談してきた。おいしいものを食べたりすると、私だけではなく、家族に食べさせてあげたい。常にそう考えてしまう自分がいる。その辺の絆が、家族というものなのかもしれない。
妻や子供の喜ぶ顔は、私にとって財産でもある。幸せを感じる瞬間でもあった。
もし卓が生きていれば一緒に……。
いや、どんなに願っても卓はこの世にいないのだ。
「ここの料理、結構いけません?」
河合が声を掛けてくる。いけないいけない。せっかく優雅な食事を前に楽しいひと時を過ごしているのだ。湿っぽくなっては駄目だ。
「そうだね。今度、佳奈を連れてこようかなって思ってたよ」
頭の中で佳奈の顔を思い浮かべる事で、卓の事を忘れようと努めた。
「ははは、そりゃ良かったですよ。そんなに気に入ってくれるとは、俺もここにした甲斐があります」
「いい店を教えてくれて、ありがとうね。ところで今朝、会社で言ってた話したい事ってなんだい?」
「とりあえず、場所を変えましょうよ。ここじゃ、話すには少し賑やか過ぎます」
「どこへ?」
「軽く静かなバーで、酒でも飲みましょうよ」
「でも、みゆきには残業でって言った手前あるから、酒はな~……」
「電話すれば、俺も変わって一緒に言いますよ。これから一つのプロジェクトが終わって、みんなで軽く打ち上げに行くので、課長さん、お借りしていいでしょうかって」
「う~ん……」
「たまには、野郎二人でもいいじゃないっすか?」
「分かったよ。電話してみるから、途中で代わるぞ」
「いいっすよ」
私は家に電話を掛け、みゆきに会社の打ち上げに行くと伝えた。あらかじめ朝、残業で遅くはなると言っておいたので、妻も快く了承してくれる。
「課長、ちょっとだけいいですか? この間、行けなかった事について、お詫びしときたいので……」
河合に携帯を渡す。
「あー、奥さん。この間は本当にすみませんでした。ええ、河合です。体調ですか? ええ、もう大丈夫ですよ。ご心配お掛けしました。また、水曜日に伺いますので、今度はちゃんとパソコン、教えますから…。はい、ええ。分かりました。課長さんに代わりますか?あ、大丈夫ですか。分かりました。ええ、それでは失礼します」
私に携帯を渡しながら、河合は言った。
「これで、問題ないですね」
「河合君が強引だからだ。まあいいや。これからどこへ飲みに行くんだい?」
「俺のいきつけの店があるんです。そこ、静かで雰囲気もいいから、そこにしましょうよ。いいですか?」
「ああ、構わないよ」
私たちは会計を済ませ、洋食屋をあとにした。
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