SHINKO の ブログ日誌

今日を大切に生き、明日を信じて未来を語りたい …

4/10 ガメダス滞在 №2

2008-04-29 | 旅行

建物は岩石を砕いて造られた、日干しレンガと石膏で造られており、建物の表面は暑さを避けるために白く
石灰で仕上げている。通路は両脇に腰掛られるようになっており、皆でお喋りしたり社交場にもなっている
家は一階が穀物などの倉庫、2階以上の居住区域は華やかに飾られており、屋上からは隣の家へ移れる
街全体が一つの複合建築物になっていて、何か独特の幻想の世界へ紛れ込んだような気分になりました
サムネール写真にマウスオンで説明がでます。

★砂漠の真珠と呼ばれた町 ガメダス★
チュニジアとアルジェリアの国境に位置し巡礼ルートのオアシスの町
<石膏と石灰で造られた白い家並とモスク
<通路は日差しを避けるためにアーケードになっている
<所々に換気をかねた明かり取りの吹き抜けがある
<明かり取りの窓と壁に絵模様を刻んでいる
<1階玄関のドアにリボン等で飾りつけをしている家はメッカの地に巡礼に行ってきた事を示しているそうです
<屋内は極彩色のマグレブ装飾外は迷路で結ばれた白い家並
<屋内の台所のかまど
<屋上から隣の家の屋上へ移動できる
<屋上からモスクを見る
<屋上への出入り口
<屋上の壁にも細かく模様が刻まれている
<内装は赤を基調にしている<光取り用の鏡や鍋が飾られている<当時の裕福な商人の室内装飾です<極彩色のアラベスク模様のマグレブ装飾が施されている
<







4/10 ガメダス滞在 №1

2008-04-29 | 旅行

まずは、リビア到着後3人の現地の人がバスに同乗しました。一人はドライバーさん、もう一人は
現地案内ガイドで、日本からの添乗員に英語で説明し、添乗員が更に私達に通訳して説明する
という状況でした。そして3人目はツーリストポリスで10日間ずーっと私達と一緒に行動しました。
最初、バスの最後部で眼光鋭く見張られているような威圧感がありました。私達を守ってくれる
というより観光客が撮影禁止の場所にカメラを向けていないか?等監視役で観光警察が同乗を
義務ずけられているそうです。が毎日10日間も一緒に行動を共にしていると、お互いにだんだん
慣れてきて彼のユーモアのあるところや、以外にやさしい面を発見して最後は、和気あいあいと
過ごしました。ポリスといっても赤い半袖のポロシャツにジーンズ、黒い革ブーツというスタイルで
ピストルも所持していません。只、携帯で連絡を取っている時は、鋭い顔つきになり一瞬、ドキッ
とした時もありました。(もちろん何を話しているのかはわかりませんが……。)
4日目の4/10 午前中はガメダスの旧市街散策と博物館を見学しました。

4/9 ナルートへ

2008-04-28 | 旅行

ガメダスへ向かう途中、ナルートの町で要塞型穀物貯蔵庫を見学しました
数百年前に、ベルベル人がつくった何層にもなった倉庫跡です
サムネール写真にマウスオンで御覧下さい

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11世紀頃建設のベルベル人の旧市街です
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リビアへ №4

2008-04-24 | 旅行

カダフィー大佐には7人の息子さんがおり、現時点で最も後継者に近いとされるのが次男のセイフ・イスラム氏です。
彼はカダフィーの2番目の妻との子供です(リビアでは4人の妻がもてます)カダフィーが骨折して入院した時、担当の
看護師は、カダフイーの命を狙う一味にカダフィーに飲ますようにと薬を渡されました。ピンときた看護師はそれを遂行
しないと自分や家族に危害を加えられることを承知で、カダフィーに正直に全てを話して、カダフィーの命を助けました
その看護師が今の2番目の妻です。セイフ氏は若者達に次世代のリーダーを強く印象づけていますが、カリスマ性を
持つカダフィーの専制下、実際には発言権をもつ部族社会で直接民主主義と異質の「世襲」を受け入れられるのか?
改革を急ぐと、足元をすくわれます。ただ、現在の油価が続く限り、経済は順調で国内の不満も出ず、カダフィー家の
支配は続く、との見方が有力です。なにか生々しい話で、いろいろあるのだろうと想像もしてしまいます。ガイドさんの
説明ではありましたが、どこまでが本当のことか? 真偽のほどはわかりません。来年は革命40周年を迎えますが
それまでに成果を示せるかが、改革路線の正念場となりそうです。これからのリビアを注目していきたいと思います。

トリポリ空港の上空からの写真です
  



リビアへ №3

2008-04-24 | 旅行

カダフィー体制はリビアの巨大なオイル収入の構成な分配を求め1973年、すべての外国石油会社に対し
最低51%のリビアの参加受け入れを求めました。アフリカ最大の石油資源を擁するリビアが積極的に石油
天然ガスの鉱区を開放し外資を誘致した結果、数百億ドルが道路、学校、住宅、病院、農業促進や壮大な
インフラ整備に費やされています。潤ったとはいえ、長く経済制裁で鎖国状態であったために、人材不足で
国際標準のサービスや資本主義のルールなどを理解している人はわずかで、30%といわれる失業率にも
かかわらず、3Kといわれる、いわゆる「危険、きつい、きたない」仕事はエジプト人ら外国人労働者任せで、
リビア人はあまり働かず生活は政府のばらまく給付金に頼っているのが実態のようです。が町で出会った
人達は、屈託のない、明るくてやさしい人達でした。空港からホテルに向かって高速道路とパームツリーの
並木を走る中、アパートの建物の壁面にカダフィー大佐の看板が大きく掲げられているのが印象的でした。


  


リビアへ  №2

2008-04-23 | 旅行

4/7 深夜、カタール航空で関空出発 11時間20分のフライトでドーハへ そこで乗り継ぎ再び5時間30分の
フライトでリビアの首都トリポリへ到着 長い空の旅でした。リビアの地理はアフリカ大陸の北部、地中海に面して
おり、サハラの一部で国土の大部分は砂漠です。年間を通じて雨はあまり降りません。リビアの歴史は7世紀に
アラブに征服されイスラム教が広がり、その後16世紀にオスマン帝国に併合。1911年にイタリアの植民地となり
「リビア」と呼ばれる。その後、連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア・ドイツ)の間で激戦となり連合軍の占領下に
置かれるがイタリアの敗戦で戦後は英、仏の共同統治領となるなど目まぐるしく変化しました。1959年アメリカの
石油会社エッソにより石油が発見されるが、外国資本の管理下にあり石油による国家収入は低くアラブ人社会に
不満が広がりました。 1969年9/1 カダフィ大尉(当時)と同士の将校たちによるクーデターで、ドイツに滞在中の
ドリース1世国王を退位させ(無血革命)現在のカダフィ大佐を元首とする「リビア・アラブ共和国が」誕生しました。


ドーハで乗り継ぎトリポリへ                   トリポリ空港
  


リビアへ 旅の日記

2008-04-21 | 旅行

4/7~4/17の11日間、リビアに行って来ました。正式には、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国と
いうそうです。昨年12月のシリア、ヨルダンに続き中東の砂漠と遺跡巡りに、はまっています。時差はー7時間です
滞在中、雨は一滴も降らず気温は30度にもなりました。リビアが外国人の入国を許可したのは約10年ほど前で
しかも考古学者のみというところでしたので観光地としては整っていなく、みやげ物屋もなくサービスも行き届いては
いませんがその分、まだ手つかずの生のリビアが見れて私達はラッキーでした。リビアの歴史やテロ支援国家の
ならず者として国連の経済制裁を受け長く鎖国状態にあったが5年前の制裁解除で急激な変貌を遂げつつあること、
来年、無血クーデターで王政から革命40周年を迎えること、絶対的カリスマ性を持つカダフィー大佐と家族のこと、等
興味深いことがいっぱいです。少しづつ又、つたない写真で紹介してゆきたいと思います。観光最終日の4月15日、
地中海沿岸にたたずむサブラタ遺跡を見学中、誰かの声で空を見上げると一面太陽が大きな円で囲われていて
皆びっくりしました。日輪という虹の一種の現象だそうですが日本では、まず見れない光景だろうと思い感動というか
少し不気味な感じもしましたが思わず太陽にカメラを向けました。しばらく眼前が黄や青の斑点がチラつき困りました

 写真は日輪です