以下は最近刊行された改訂版「知床半島カヤック水路誌」の巻末の原稿です。旧版の水路誌は知床にカヤッカーが増え始めた17年前、個人的に作成したものです。
今回、知床財団と羅臼町が改訂版を出すにあたり、依頼を受けてこの原稿を書きました。これを知床エクスペディションのブログページに「知床日誌32」
として掲載します。また水路誌は知床財団羅臼ビジターセンターで入手できます。希望される方は知床財団までお問い合わせください。
この水路誌は知床の海を解説することでカヤッカーの安全に役立つことを願って作られたものです。これはガイドブックではありません。日々刻々と変化する海で、これをガイドブックとして使うことは危険です。あれから17年たちました。その間幸いにも大きな事故は起きていません。しかし私を含めて危険な目に遭う人は毎年のように出ています。判断を誤り運が悪ければ、ここではすぐに致命的な事故につながります。海況の変化を注意深く観察すること、常に地図や海図で現在位置を確認すること、余裕を持って柔軟に行動することがが知床では重要です。
20年前、アウトドアブームの中で知床にも大勢のカヤッカーが訪れるようになりました。しかしその多くはあまり経験がなく、冒険心だけが旺盛な人たちでした。相泊近くで波をくらって転覆し、漁師に助けられた人、定置網のロープに舳がからまって沈し、大波で上下する綱にぶらさがり懸垂しながら命からがら岸に泳ぎ着いた人、岬の沖で羅臼側に回り込めず、南東の強風の中、国後島まで流されロシア国境警備隊に保護された人、故意に中間ラインを越えてロシア側に入り巡視船に連れ戻された人、ルシャの沖で風に流され、携帯電話で保安庁に救助を求めて19号番屋の大瀬さんに助けられた人もいました。私も2度、ルシャと念仏岩で事故をおこしかけ、結果的に地元のみなさんに迷惑をかけました。
アウトドアは現代のブームに過ぎません。そんな中で自己を主張したところで所詮レジャーの域を越えません。そのような人たちが当時計画したのが羅臼から国後へのカヤックツアーです。知床は漁業者の生活の場です。漁師はカヤッカーをいつも心配し見守ってくれます。そんな彼らはいつも拿捕の危険に怯え、国境の海で漁をしています。そのような状況でカヤックだけが自由に振る舞えるわけがありません。国後計画は立ち消えになりましたが、その後もここに修学旅行のカヤック体験の企画を役場に持ち込んだ人がいたと聞きました。知床は穏やかな湖や川ではなく、時に牙をむく海です。大規模な体験ツアーには向いていません。
知床はリアルな冒険のフィールドです。それはアリューシャンやアラスカ、南米パタゴニアなど世界の辺境の海に匹敵するものです。トラブルは全て自分で解決せねばならず、誰も助けてくれません。シーカヤックは時に命を奪われるスポーツです。海は公平であり、経験の有無を問わず危険も喜びも公平に私たちに与えてくれます。現代のカヤッカーは生きるために数千年にわたって海を漕ぎ続けた無数の海洋先住民の末裔なのです。
近年、カヤッカーの増加に伴い上陸や出艇場所、あるいは駐車に際してのトラブルが多く起こっています。その原因の多くはカヤッカーの側にあります。しかし、もし地元の人たちが広い心で何も知らないカヤッカーに接してくれたら、カヤッカーもいつの日か知床の人々とその自然に敬意を払い、節度を持って地元の人々と接する日が来るのではないでしょうか。そのためにも無知から来る過ちや迷惑を遠慮せずに指摘していただけたらと思います。排他性や閉鎖性は、サーフィンの世界がそうであるように地元にもサーフィンの文化にも結局は良い結果を生みません。またカヤッカーも正しくシーマンシップを具現化すべきです。海には様々な人が生きています。他者への配慮がカヤック航行の自由を保障します。私が言うと鬼が笑いますが、日本のカヤッカーはそのことを理解すべきです。
昔アイヌの人々は半島羅臼と国後島古釜布の間を自由に行き来していました。国や国境がなかった時代、人々は意志さえあればどこへでも行けました。どこへでも自由に行けるということは有難いことです。自由は尊いものです。私はこの海を漕ぎ続けられることに感謝しています。水路誌再刊に取り組んでくれた環境省はじめ知床財団の皆さんに敬意を表します。
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