おはようございます。
三 師はこのように話し出された「スブーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。すなわち、スブーティよ『およそ生きもののなかまに含められるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自から生まれ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなく無いのでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。』と。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が、《生きているものという思い》をおこすとすれば、もはやかれは求道者とは言われないからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、誰でも《自我という思い》をおこしたり、《生きているものという思い》や、《個体という思い》や、《個人という思い》などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫〜)
※頌2 人々に利益をもたらそうとする意欲が心に起こる時、それは功徳に満ちたものとなる。(その意欲は四種に考えられるのであって、経に①"およそ衆生界に属する……彼ら全てを"というように意欲は)広大であり、(②"涅槃の世界に引き入れなければならない"というように)最高なるものであり、(③"実はいかなる衆生も涅槃に入ったのではない"というように)極限に達したものであり、(④"衆生という観念が生ずるならば彼を菩薩と呼ぶべきではない"というように)転倒ならざるものである。(このような四種の意欲のあることが)この(大)乗における(菩薩の)あり方である。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)