正覚ノ門 徒然帖

正覚者の言葉、日々の雑感。
・金剛般若経・無著頌 R2/1/7〜3/11 7/20〜
・長老偈経 3/14〜7/17

金剛般若経 四

2020-07-23 05:15:52 | 日記

おはようございます。

四 ところでまたスブーティよ、求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。何かにとらわれて施しをしてはならない。形にとらわれて施しをしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない。
このように、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、跡を残したいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。
それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすくは計り知れないほどになるからだ。スブーティよ、どう思うか、東の方の虚空の量は容易にはかり知られるだろうか。」
スブーティは答えた。「師よ計り知られません。」
師は問われた。「これと同じように、南や西や北や下や上の方角など、あまねく十方の虚空の量は、容易く計り知られるだろうか。」
スブーティは答えた。「師よ、計り知られません。」
師は言われた。「スブーティよこれと同じことだ。もし求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳の積み重なりは容易くははかり知られないのだ。」
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫〜)

※頌3 (ここには布施のみが語られているが)布施は六つの完全性(波羅蜜多)を代表する。(すなわち布施は三種に分類され)財物と、おそれなきと、教えと(の三種の布施であるが、このこと)から、一つ(すなわち財物の布施が布施パーラミター)であり、三つ(すなわち教えの布施が精進と禅定と智恵とのパーラミター)である。それは執着なき知恵の実践の道である。
頌4 (執着なき実践とは)自分自身に対しても、返礼されることについても、また、(善の行為の)結果に対しても執着のないことである。それは(自分への執着から布施を)行わなかったり、(返礼を期待し、あるいは布施の結果に執着して、さとりへの道とは)別の目的をもって、(布施を)行わなかったりする 、この両者が遮止されていることである。
頌5 (心を)訓練するとは、(布施者と受施者と施物との)三つの対立関係において、その"相の観念"から心を遮断すること、さらに(相の観念なくしてしかも布施が成り立つかという、次に述べるような)続いて起こる疑いから遮断することである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)