おはようございます。
九・d師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が<わたしは尊敬さるべき人になった>とういうような考えをおこすだろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人が、<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、尊敬さるべき人といわれるようなものははなにもないからです。それだからこそ、《尊敬さるべき人》と言われるのです。師よ、もしも、尊敬そるべき人が<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
※ 尊敬さるべき人 ー 阿羅漢、アラハン。四果の最高位で、語源的には「(尊敬供養に)値ある人」(漢訳では応供)の意。
この第九節は次の「九e」で終わります。明日はこの節のまとめとして無著の頌を取り上げます。
スブーティは答えた―「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人が、<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、尊敬さるべき人といわれるようなものははなにもないからです。それだからこそ、《尊敬さるべき人》と言われるのです。師よ、もしも、尊敬そるべき人が<わたしは尊敬さるべき人になった>というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
※ 尊敬さるべき人 ー 阿羅漢、アラハン。四果の最高位で、語源的には「(尊敬供養に)値ある人」(漢訳では応供)の意。
この第九節は次の「九e」で終わります。明日はこの節のまとめとして無著の頌を取り上げます。