おはようございます。
二十五 スブーティよ、どう思うか。<わたしは生きているものどもを救った>というような考えが、如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである。また、スブーティよ、如来が救ったというような生きものが、なにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着があることになるだろう。スブーティよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。スブーティよ、『<愚かな一般の人たち>というのは、愚かな一般の人たちではないにほかならぬ』と如来は説いた。それだからこそ<愚かな一般の人たち>と言われるのだ。(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
※ この節に関する頌(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)
頌60 法界(において、すべて)は平等であるから、また(五)蘊は、(その上に仮に設けられた衆生という)名とともに、法界の外にあるものではないから、勝利者(仏陀)によって衆生が解脱されられるのではない。
※ この節に関する頌(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)
頌60 法界(において、すべて)は平等であるから、また(五)蘊は、(その上に仮に設けられた衆生という)名とともに、法界の外にあるものではないから、勝利者(仏陀)によって衆生が解脱されられるのではない。
頌61 "自我への執着"ということ(すなわち我執)と、そこに(五蘊の)法(もの)に対して執着があること(すなわち法執)とは、同じ誤りなのである。「(私によって)救われた衆生がある」と執着するとき、そこには、執着すべからざるものへの執着があると考えられるからである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます