人間 死んでしまったら すべて 終わりではありません。
過去・現在・未来にわたって 因果の法則が支配するということ。
三時業の教え。
善悪の業の結果を 生きているうちに果を受ける 順現業(じゅんげんごう)
私たち人間が 生きている間に造った 善業・悪業の結果を
生きている間に その報いとして受けること。
次に生まれ変わって受ける 順次業(じゅんじごう)
私たち人間が 生きている間に造った 善業・悪業の結果を
次の世に生まれ変わった時に その報いとして受けること。
次の次以降に生まれ変わった時に受ける 順後業(じゅんごごう)
私たち人間が 生きている間に造った 善業・悪業の結果を
次の次の世以降に生まれ変わった時に その報いとして受けること。
つまりは 前世で造った 自らの善業・悪業の報いを
今 受けていることになる。それは 持ち越された業ということ。
この世に生を受けてからのことで考えると
つじつまが合わなくなるのです。
この世に生れて このかた 特に何も悪いことはしていないのに
何で どうして というような 理不尽さを感じることになるのです。
例えば 幼くして 不慮の事故により 命を失うこと。
若くして 不運の事件により 命を失うようなことが それです。
そして 私たちが生きている間 業は現在進行形ということになります。
また 私たちが死を迎えることによって
もちろん 来世に持ち越す業も 存在しているのだということです。
ただ 私たちには どれほどの悪業を所有しているのか分からないのです。
私たちは 成佛しないかぎり 輪廻(りんね)といって
生まれ変り 死に変わりを 繰り返しているのです。
輪廻(りんね)とは 輪廻転生(りんねてんしょう)ということで
私たちの心は 不滅で 生まれ変わり
死に変わりして 苦しまなければならないということです。
業因縁により 自業自得により 善因善果 悪因悪果により
過去から 今現在 そして未来へと
善悪の業の報いを 受けなければならないのです。
このことは 信不信に関わらず 教えを知ろうが 知るまいが
すべての 人間に当てはまる 真実の教えなのです。
ぶっそうな話をしますが。心苦しい お話になりますが
災難に遭うには 災難に遭わなければならない 原因がある、ということ。
人を殺すには 人を殺さなければならない 原因がある、ということ。
恨みをもつ者と 怨まれる者との 因果関係。
恨みを生じさせる原因があった。怨まれる原因があった。
殺されるには 殺されるだけの 原因がある、ということです。
悲しいことに いじめを苦に自殺しなければならないことも
原因があってのことであって やむにやまれる ことと思います。
南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛
合掌
職場や学校での いじめも 虐待も 上司のセクハラも パワハラも
DVも 加害者 被害者ともに 何かしらの原因が存在するものです。
善い行いには 善い結果が得られるわけですが
悪いことをしてしまったことに対しては
自ら 懺悔(さんげ)をするしか 方法はありません。
意識すると しないとに関わらず 日常生活の中で
他人に対して 迷惑をかけていたりするものです。
自分も他人も 自らを中心にして 生きていますし
見ること 聞くこと 考えることなど
すべて 自己中心でありますから
知らず知らずに 嫌な思いをさせていたり
いろいろと悪影響を 与えていたりするものです。
逆に 私たちも 嫌な思いをさせられたりするものです。
信じて 念じて 行じる。
祈り念ずること 感謝すること 懺悔(さんげ)すること
この三本柱を 常に 心に思いつつ
では 懺悔(さんげ)の方法ですが
南無大日遍照金剛を お唱えしながら
心の中で 懺悔滅罪(さんげ めつざい)
罪障消滅(ざいしょう しょうめつ)と 念ずるのです。
このことが 祈り念ずることであり
感謝することだけではなく 懺悔もしなければなりません。
何故ならば 感謝すること自体 善いことなのですが
感謝だけですと どうしても 思い上がりや
ごうまんな人間に なりやすいのです。
感謝させていただく そのかげで 周りの者が
負担を強いられたり 苦労させられている
泣かされている者いるのも事実です。
その為に 懺悔(さんげ)することも 必要になってくるのです。
祈念 感謝 懺悔によって
自らの 悪業悪果を 消滅させようではありませんか。
南無大悲観世音菩薩
南無大悲観世音菩薩
南無大悲観世音菩薩
有難うございます。有難うございました。
あなたに 観世音菩薩さまのご加護がありますように
合掌