聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

「武器で戦うというメンタリティー」をなくすために

2024-07-15 10:44:09 | 日記

 先日、地域の平和を考える会に参加した時に、コスタリカという中南米の国のドキュメンタリー映画を観ました。コスタリカは軍隊を持たない世界でも珍しい国であり、その国がどのようにして超大国のプレッシャーと軍需産業が支配する世界の力関係の中で、永世中立国として独立を保ち、警察による治安維持と国際司法裁判所・国同士の話し合いによる解決だけでやってこられたその歴史と、現代の新たな問題:貧富の格差を知る機会となりました。私は20代の時に、コスタリカの村の小学校で英語の教師として働いていた友人を訪ねたことがありました。その時すでに、海外の多国籍企業の進出に起因する経済格差を感じましたが、村の子供たちの笑顔が輝いていたのが記憶に残ります。半世紀近く前より、コスタリカでは小学生から英語だけでなく、自国の平和憲法を学ぶカリキュラムがあり、教育・福祉に政府が予算をさいているとのことです。日本はどうでしょうか。

 人には残念ながら、誰も教えなくとも闘争心というのを持っています。そして、それを正当化し、かっこよく見せるツールが、戦闘系のアニメ・映画・ゲームです。誰も娯楽として、気にもせずに楽しんでいますが、これらは戦わないと自分を守れない、暴力も自己防衛のために仕方がないというメンタリティーを植え付けるのに効率的です。私は平和を願うのであれば、世界のすべての国が軍隊を持たず、武器を廃棄し、国際間の紛争は国際機関による話し合いによればとかねてから願っていますが、現実は人々の間のこの暴力による戦いのメンタリティーをなくしていこうと努力しない限り、平和への道は困難でありましょう。ニュースでは犯罪の、戦争の現実が日々報道され、人々を恐れと失望感へと追いやっていきます。

 しかしながら、そんな人間の状況であっても、神様は天から見渡して、目覚めた人、神を求める人はいないかと探しておられると冒頭の聖書箇所に記されています。神様は、諦めないのです。人がどんなに邪悪になろうとも、刑法的には罪をおかしていなくとも、無意識のうちに戦うことを「多少の犠牲はしかたがない、必要悪だ」と暴力を正当化し、受け入れてしまう者が、いつか平和に目覚めることを。そして平和とは、究極のところ神様にあって実現可能であり、そのことを求める人を探しておられるのだと思います。神様は「お前は悪いから、だめだ」と切り捨てず、立ち返ることを待ち*1 、弱さの中にある人々を憐れみ、助けようとされる方であります。その罪を赦そうと、この世に御子イエス・キリストを送ってくださいました。その十字架によって、どんな罪でも赦され、罪に対する罰はすべて、イエス様が十字架で追ってくれたことは、なんという神様の愛なのだろうかと、深く思わされます。死からよみがえって天におられるイエス様が神様と私たちの間に立ち、和解を取り次いでくださいます。

 神様を信じず、反抗していることこそが根源的罪であり、ここから人間同士の罪に展開していくということを知り、そして悔い改め、神様に立ち帰ることが、人間同士の平和への道であると、聖書の言葉を通して、気が付くことを待っておられる。忍耐強く、何千年も。なぜそこまで、神様は待ってくださっているのかと、自分自身も赦された者として、自分のような小さな存在に目を留めて下さる神様の愛を感謝しています。まずは、武器で戦うというメンタリティーの刷り込みに対して疑問を持ち、それを無くしていくことから平和を考え、そして多くの人々が平和へ行きつく道に導かれるように、日々祈りたいと思います。「武器は農具に変えられる、もはや人々は戦うことを学ばない」 という神様の預言が実現されますように。


「主は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」   詩編14章2節     (引用 新共同訳聖書)

 *1 エゼキエル書3章11節
 *2 イザヤ書2章4節


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