聖書箇所 ルカによる福音書1:76-80
本日は、ルカによる福音書1章のザカリヤの預言の箇所よりメッセージをさせていただきます。ザカリヤは祭司で、神殿の聖所に入って香を焚いていた時に天使が現れ、「妻エリザベトは男の子を産む、その子はヨハネと名付けなさい、彼は主に先だって行き準備のできた民を主の為に用意する。」と告げられました。しかし彼は老齢であったため天使の言葉を信じることが出来ず、子供が生まれるまで口が利けなくなってしまいます。それから10ケ月後、エリザベトは男の子を産み、名前を付けるタイミングでザカリヤが「この子の名はヨハネ」と書いたとたん口が利けるようになり、神を賛美し始めたと記されています。(ルカ1章5-20節)
ザカリヤの口が利けなかった10ケ月のことについては何も聖書は記していませんが、彼はどのような気持ちだったでしょうか。おそらく、神様のお告げを疑ったことを悔い改めて、じっと忍耐していたことでしょう。その期間に彼が自分の不信仰と向き合い、誰とも話ができないという孤独に置かれたことは、一層神の深い憐みの中におかれ、彼の信仰が深められ、神様への賛美へと呼び覚まされるためだったかもしれません。ですから口が利けるようになったとたん、神を賛美し始め、そして、本日の箇所のように聖霊に満たされ、預言が与えられたのではないでしょうか。ザカリヤは10ケ月間でしたが、ユダの人々は約400年間彼らの間に主の預言者が現れない期間でした。ユダ国がBC586年にバビロニア帝国に滅ぼされ、その後捕囚から国に帰還が許され破壊された神殿が立て直されましたが、その後世界の列強諸国の支配を受け続けていました。その間は旧約聖書の最後の預言書マラキ書が記されたのも約BC400年代(BC5世紀前半)と言われていますので、旧約時代の最後の預言者と言われる洗礼者ヨハネの時迄、約400年間預言者を通しての神様からの言葉が民になかったことになります。人々は神様の言葉がいつ再び預言者を通して語られるか、いつメシアが来られるかと待ち望んでいたのです。
ザカリヤはルカ1:68-69節で「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」と数千年にわたって維持されてきた神の偉大な救いの計画において、約束の通りダビデの家からメシアを起こしてくださったことを神様に感謝して賛美をしています。救いの角とはメシアのことを表します。
76-77節で「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」と、イザヤ40:3の預言されているように、自分の子ヨハネの役割「主の道を整える」こと、メシアの道を備えるという大きな役目の主の預言者となることを預言しています。
メシアの救いを受け入れる準備とは、まず人々の間に悔い改めの心が起こされることです。人々が単に今の現状が苦しくて、助けがほしいと神様に訴えるだけで、自分の罪と向き合わずにいることも可能です。しかしメシアを受け入れるには、まず自分が神様の前に罪人であるという自覚が心の底からあるときに初めて、その罪を悔い改め、罪の赦しを受けたいと願い、罪から救ってくださる方としてメシアを求めるからです。
ユダヤ人にとってメシア救世主はダビデの家系からでる、来るべき王をさしていて、このメシアを神が送り、ご自分の民イスラエルを回復させ、国家として独立させ神の民としての栄光を回復してくれるとユダヤ人は待望していたのです。しかし、マタイによる福音書1章21節が示すように、神様のご計画に基づくメシアは「罪から救う方」だとはっきり天使は告げています。つまりメシアは単なる政治的救世主ではないというメッセージです。そこでバプテスマのヨハネは人々にまず、罪を自覚し、悔い改めるように荒野で叫び、それに応答した人々が洗礼を受けにきました。悔い改めるのは、裁かれるためではなく、罪が赦されるためであり、まさに神様の憐みによるのです。
ですから、78-79節「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」と続きます。メシアによる救いは神の憐みの心によるといっています。神様がわたしたちを憐れんで下さるということは、聖書で一貫したメッセージであります。神様は深い憐みの心によって、私たちの罪を赦そうと決められ、そのために御子イエス様を十字架で代わりに罰せられました。そしてこのキリストによる救いを信じる者は罪に対する罰をとがめられることなく、赦されて、神の子供として永遠の命を頂けるという、本当にこの上ない恵みをすべての人に用意くださりました。父と子と聖霊と一つであられる神様は、私たちが罪と死に縛られ、どうしようもない状態で苦しんでいることを、人間となった御子イエス様を通して、ご自身も共に苦しまれ、悲しまれていると言えます。聖書の神様は「いつもあなたと共にいる」(インマヌエル)の神様であり、神様の憐みの心は、私たち人間の「かわいそうに」と思うだけのレベルではなく、共にいてご自分も苦しみんでくださる方です。
新約聖書での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語の一つは(ギリシャ語)も「腸がちぎれるような苦しみ」という意味から転じて「憐れみ」という意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語が語源で、それは出産の際の母親のお腹の子供に対する慈しみの心という意味が転じて「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。ホセア書11章8節に「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか…私は激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」と神様の愛をホセアは記していますが、エフライムとはイスラエルの別名で、神から離れ偶像崇拝で堕落してしまったご自分の民に対する愛が表現されていますが、ここでも「憐れみ」という単語が使われています。私たちを愛してくださる神様は情け深く、熱情的です。
御子イエス様はその地上での生涯において、神の国を宣べ伝え、そして群衆が羊飼いのいない羊のようだと憐れまれて、教えを話されたと記されていますし、神様の憐みの心をもって社会から疎外されていた人々に関わり、病気を癒し、共に食事をされました。またイエス様はルカによる福音書6章35-36節でこう言われました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と話され、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」イエス様は神の国の到来を告げ知らせ、そこでは互いに隣人を愛することと憐れむことがなされる領域であり、それをご自身が実践して、私たちにその模範を示されました。
私たちは神様が私たちを憐れむような心で他者を憐れむことができるでしょうか。私はこの箇所を通して、神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやることができない愛のなさを示され、悔い改めて、神様に愛を注いでくださいと祈るばかりです。私は折しもコロナ勃発時に病院でソーシャルワーカーの仕事を始めましたが、とにかく世界的に混乱していた時期で、そんな非常事態の日々の中で最初の3年間働いていました。患者さんの中には死に直面し、苦悩している方がおられても、私は病院ではソーシャルワーカーの仕事しかできません。キリストの福音を伝えることの出来ないもどかしさを抱えながら、定年退職になってからではなく、「今」キリストにある希望を人々に伝えなければと緊迫感を持つようになりました。このような経験を通して、神様は私のような者をフルタイムでキリストの福音を伝える伝道者になるよう導いて下さりました。聖書の御言葉を通して、暗闇の中にいる方々、希望が持てない方々に、神様の憐みの心、神様の愛を頂いて、キリストの救いを宣べ伝えたいと願っています。
78節「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」の「あけぼのの光が訪れる」とは、マラキ書4章2節に「しかし、わたしの名を恐れる者たちには、義の太陽が昇る。その翼に癒す力がある。」とあり、その「義の太陽が昇る」という言葉、太陽が昇るとはあけぼのの光が昇ることです。したがって、義の太陽とは救い主イエス様を指し示し、この昇る義の太陽:イエス・キリストが、罪のために死の影で生きていた人々、そして暗闇の中にいた人々に光を与えることを指ししめします。そして、その翼には癒す力、つまり罪びとが悔い改めて赦しを受け、癒されることをマラキが預言し、それが成就されたことをザカリヤが述べています。
またヨハネによる福音書1章1-5節で、言が御子イエス・キリストである、「言の内には命があり、その命は人間を照らす光、光は暗闇の中に輝いている」と記されています。言葉であり光であるイエス様が、暗い世を照らすあけぼのの光として、すでに私たちのところへ来てくださっていることは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して実現しています。そして今も私たちを平和の道へ導いてくださっていることを感謝したいと思います。ヨハネによる福音書はその光について証するために洗礼者ヨハネが神から遣わされたと記しています。(ヨハネ1:6-7)人々は皆平和を求めています。しかしながら、人間の力だけでは、平和の実現が難しかったことは、過去の人類の歴史を見て残念ながらわかることです。やはり、平和を願う人々がまず、自分が神から離れていたこと、その罪をキリストの十字架と復活により赦されて、暗闇ではなく、あけぼのの光の中である主イエスとともに光の中を歩むことで、平和を求めていければと願います。必ず、主イエス・キリストが平和の道へわたしたちを導いてくださると、本日のザカリヤの預言からも希望が持つことができます。
わたしたちはザカリヤの預言の箇所からも救い主の到来の喜び、そして御子を通しての罪の赦しが与えられているという神様の豊かな恵みに感謝し、自分が受けている憐れみの心を少しでも私たちが日常生活の中で他者に対して持てるように祈り、私たちの周りにキリストの平和を広げていくよう神様に用いて頂きたいと願います。私たちの力ではそれはできませんが、聖霊の助けを頂き、導いていただけることが幸いです。詩編119:105に「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」記されているとおり、日々御言葉から私たちの歩む道を照らしていただき、今週も歩んでいきたいと願います。