聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

「賜物を生かし互いに仕える」礼拝メッセージ

2024-10-13 10:09:48 | 日記

聖書箇所   ペトロの手紙Ⅰ 4章7-11節 

 本日は、ペトロの手紙Ⅰ 4章7-11節 「賜物を生かし互いに仕える」と題してメッセージをさせていただきます。このペトロの手紙Ⅰは 現在のトルコの地域の異邦人(ユダヤ人以外の人々)キリスト者の諸教会にあてて、弟子のペトロがシルワノという人を通して記した手紙とされます。この時代はすでに、キリスト教徒への激しい迫害が起こっており、このような苦難にあってもキリストの模範に従い、相手に憎しみを抱かず、報復を慎み、善を行い、キリストにある希望に固くたつように(2:13-19)と手紙の前半に記されています。内容的に、これから洗礼を受ける信徒にむけての説教として語られた内容ではないかとされます。

 7節「万物の終わりが迫っています」にあるように、世の終わりが近いことを思って、信徒同志の交わりを深めるようにとの勧めが記されています。終わりの時とは、神様の救いが完成するとき、つまり将来のことですが、同時に主イエスの十字架と復活の出来事により終わりの時は「すでに来ている」という意味も含みます。そしてその救いの完成は黙示録22:20にイエス・キリストが「然り、わたしはすぐに来る。」と言われているように、再びキリストが来られる再臨の時です。イエス様が復活されてから2000年以上の間、教会はこの暗い世の中にあって、上からの光を証しする群れとして立てられています。教会は先ほど述べました終わりの日が何かということを知らされていますし、たとえそれがいつ来るかは知らされなくとも、キリストの再臨の時が終わりの日だとしっているのは幸いです。なぜなら私たちは、キリストの十字架と復活のおかげで、キリストが再び来られた時裁かれることはなく、死から命へすでに移されています。もし、キリストを信じていなければ、希望もなく、ただ終わりの日がくるという、しかも自分がどうなるかわからない、裁かれるという恐れだけになるからです。これからも戦争や、災害、飢饉などが激しくなってくると、マスコミがその不安をあおり、人々は、キリスト者が騒がないで、平安でいられるのを見て、どうして平気でいられるのか?と尋ねられる時、その希望は何かを説明できるように備えておきましょうと、ペトロの手紙Ⅰ 3章15節にも示されています。それが、キリストの福音の証しとなり、その尋ねた人は救いに導かれるかもしれません。

7節後半「よく祈りなさい」、8節「心を込めて愛し合いなさい」と続きます。「心をこめて」とは、気分に左右されない愛で、根気強く、忍耐して相手に接することです。キリストの愛は、人間の状況や感情によって左右されるものではなく、神様から注がれる愛であり、その「愛は多くの罪を覆うからです」とあります。 箴言10:12 「憎しみはいさかいをおこす 愛はすべての罪を覆う」 とあります。

相手が何か自分に対してひどいことをしたとき、それを攻撃しかえすのではなく、可能な限り対話により相手の現状を知り、相手の魂のために祈り、神様にお任せすることができます。すると相手に罪が示されれば、神様によって悔い改めに導かれ、神様の赦しを受け取り、救いに導かれます。そのことが起こるよう、相手の祝福を祈り、悪に対して悪で返すことをしないように、上からの力を求めたいと思います。

 9節 「不平を言わずにもてなし合いなさい。 」お互い欠けの有る者同士、考え方も異なり、育ってきた環境もことなりますので、仲良し同志がみな教会のメンバーとは限りません。それでも、お互いがキリストにあって神の家族であり、神様に赦された者として互いに赦し合い、寛容な心をもって不平を言わないようにと、かえって互いにもてなしあおうと実践的な薦めです。

そして今回のタイトルにあります、賜物については10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 」についてですが、神様は私たち一人一人に賜物を与えてくださっています。賜物とは何か才能があること、得意なことがあって、それを教会の奉仕としてするという以上の霊的な賜物を示しています。コリントの信徒への手紙1 12:1-11節、28節をお読みします。

賜物はお互いに仕え合うために与えられる様々な恵みであり、一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の、教会の益となるためです。各自がその受けた恵みの賜物を教会の中で働かせるために与えられています。それは、キリストが十字架で命を犠牲にしてまで私たちを愛してくださったことへの感謝の応答であり、奉仕として「しなくてはならない」というような義務感で用いるものではありません。

 ペトロの手紙Ⅰ 4章に戻りますと、11節「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」とありますが、この語る者とは、説教者、牧師です。説教者は、神様の御言葉を皆さんへ取り次ぐために、その与えられた賜物を用いて、神の言葉を語るにふさわしく語らなければなりません。私たち説教者は、神様から与えられるメッセージを受け取り、それを取り次ぎ、皆さんが受け取るという、つまり管のような役目の賜物として与えられています。ですから、聞く皆さんは、礼拝ごとに語られる神の言葉を毎週受け取り、その神様の御言葉が教会という小さな群れを造り変え、一人一人の信仰が新たにされることで、神様への愛の応答は持続されます。祈り・礼拝に参加し、賜物を用いて互いに仕えることは相互に、必要不可欠です。

 5-6節「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 」 教会での奉仕の務めにはいろいろあります、働きにもいろいろありますが、それらは全て、神がお与えになったのは神様です。賜物とは何か目に見える奉仕だけで用いられるのではなく、目に見えない奉仕、たとえば祈りで支えることや、一言、聖書の言葉から励ましや慰めの言葉を相手にかけること、相手の話を聞くこと、これらも大切な賜物であります。

 ですから、それぞれの力、賜物に応じて、自発的に、神様への感謝の応答として奉仕できれば、健全な霊的状態といえます。もし、したくないのに、牧師から頼まれたから している、奉仕が重荷だ、礼拝に参加するのに喜びがないという状態であれば、立ち止まり、自分の心を探られたほうがよいでしょう:神様に、感謝しているか、救われていることを喜んでいるか、神様に信頼して祈っているか。これらの一つでもひっかかるのであれば、もしかすると、日常生活の様々な思い煩い、悩みを自分で抱え込んでいたり、誰かを赦せないという思いがあって、神様のこれらの恵みに目を留めることを忘れ、心が暗く、苦い思いが生じてしまっているかもしれません。そしてそれが他者との人間関係の問題へと発展していくものです。そのことに気づきがあたえられたら、まずご自分と神様の間の関係で、信頼と愛と、平安が与えられていることを御言葉をよむことで示され、信仰を再確認し、神様の力で信仰を強めて頂くことをお勧めします。

 教会の宣教は牧師だけがするのではなく、教会のメンバー一人一人が神様に愛され、その愛への応答として互いに仕えることで成り立ちます。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです(11節)とあります。教会はキリストの体で、私たち一人一人はその部分、器官だとパウロが例えているように、教会が喜びに満たされることを、ご自分の喜びとして、イエス様も神様も共有されます。だから、すべての素晴らしいこと、ほめるべきことは、人間ではなく、神様がすばらしいと、感謝して礼拝をささげられる、そのことで神様に栄光を返せるからです。

 最後にコリントの信徒への手紙1 12章12-27節 をお読みします。

  26-27節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」とあるように、私たちは、キリストの体という、一つの体で互いが必要です。一人では信仰を持続できないし、互いに祈り合い、支え合い、何よりもまず、心を込めて互いのことを考え、配慮し、苦しみを共有し、喜びも分かち合い、みなで主とともに歩んでいきたいと願います。

引用:新共同聖書


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和解・和平を祈る

2024-10-06 18:41:31 | 日記

 10月7日。昨年、イスラエル国にハマスというテロリスト集団が奇襲攻撃を始め、それから戦争状態が一年経ちます。そもそもハマスはパレスチナの代表でもなく、正式な軍隊でもない、テロリストであることを日本のニュースは報道しません。いつもイスラエルが悪いと報道するのは、日本のニュースが反イスラエルの中東諸国の国営放送からその情報を得ているからです。いずれにしても世界の紛争が早く終わるように、平和のために、今、何ができますか?と問われると、両者とも戦いを早く終え、お互い和解するよう、人々が安全に生活できるようにと平和のために祈り続け、そして情報を識別し、マスメディアに操作されないようにと心がけています。

 一方、人は他国の大きな戦争の和平を求めながら、自分の周りの人と、職場のある人と、家族と和解していないことがありがちです。つまり自分のことは棚にあげて、遠い国の国際紛争について早く和解すればと思えてしまうのです。

 聖書は和解について、こう記しています。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」 (1)実は、私たち人間は生まれた時から、神様に敵対しているのです。その敵対とは、人は自分を創った神の存在を否定し、信じないこと(これを聖書では罪といいます)、そして自分の思うままに生き、他者を傷つけ、自分も傷つけ、個人差があってもどこかで争いを起こす、もしくは関わりたくないので距離をおく、無視すると、実は自分は気づいていないだけで和解していない関係をどこかに持っている可能性があります。神を信じない罪から派生して、人間関係の争いが生じ、そして様々な罪に発展しています。一方、神を信じる者は、人間同士互いに愛し合いなさい、赦し合いなさいという、キリストの愛に倣って歩むものと教えに従おうと励まされます。

 神様は、全ての人間を大切に思い、祝福したいと、関係を修復したいと思われ、そこで世にご自分の御子イエスを送られました。その目的は、人が神に敵対してきたことを認め、その罪のためにイエスが十字架にかかられて死んでよみがえられたことを信じることで、全ての罪が赦されること、そして新しく生きることができるように心に聖霊が与えられ、地上で生きている間は、聖霊が正しい道へと私たちを導いてくださるので安心です。

 私たちキリスト者は、ヒューマニズム(人道主義)ではなく、キリストの愛が動機で、平和を求め、対話しようとし、祈り、行動します。なぜなら「まず、神様がわたしたちを愛して、キリストをこの世に送ってくださった」 (2)その十字架の救いの御業により、私たちはもはキリストに結ばれて生きるからです。神様の愛を受け、キリストを信じた者は、キリストの和解の言葉を他者に伝え、聖霊の働きにより平和を運ぶものとして、この世の中に派遣されていきたいと願います。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(1ヨハネ4:19-21)

 

[1] コリントの信徒への手紙二 5:19

[2]ヨハネの手紙1 4:10

 


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