先日、ある方から質問を受けました。聖書には「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子だけである神、この方が神を示されたのである。」*1と書いてあるけれど、旧約聖書には人が神を見たことがいくつかかいてある。どう理解したらよいのか、と。
わたしはその日、聖霊の働きについて話をしたところで、聖霊は「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ16:13,14:26)とイエス様が話されたことに対しの問いであり、自分は注解書を調べても、聖霊によってもいまだにこの問題が悟れないとおっしゃるのです。私は旧約の箇所で長老たちが「神を見た」のは足元だけの描写しか記されていないので*2、全部の姿を見たわけではないと解釈していたこと、基本的には幻や夢などでしか人は神様を見ていないだろうと告げると、その方は、他にも旧約聖書に「主は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」とか、「私は神を見てなお、・・・」と記されている箇所があると。
その方は、わたしよりも聖書を勉強し、知識はたくさん持っておられるのかと察します。しかし、神様の御言葉は神学的知識や学術的なことですべて解明できるものではなく、また聖書に書いてあることの中で整合性がとれていない事柄もあり、ここに少し、あそこに少し記されているという面もあります。私は、その整合性についてはわからないと申し上げた上で、神様は霊なので(イザヤ31:3,ヨハネ4:24)、基本的にわたしたち人間には神様を生で見ることが出来ないと思うし、幻や夢で部分的に見た人々はいても、物理的にこの体で神様を見ることはできないと理解していますと伝えました。「聖霊が、その時になれば、~さんに納得されるようにこのことを示してくださるでしょう」と言いますと、了承されました。
神の独り子である、神であるイエス様だけが、神様をじかに見ることができ、私たちが直接見ることができるのは、天国に行って新しい復活の身体でもって神様を見られる時ではと私は期待しています。私は、今、神様やイエス・キリストが目にみえなくとも、聖霊が私の心に住んでおられ、神様が共にいてくださっている、その臨在を信じています。なぜなら、今までの信仰生活で、その時その時に必要なみ言葉の理解、悟り、知識が与えられる、つまりこれまで生きてきた上での様々な状況に応じて神様が導き、必要なことを恵みとして与え、守られてきているという体験があるからです。聖書を読んでいて分からないこと、疑問はたくさんあります。そのような質問に対するお互いの理解を分かち合えることは幸いだと感謝します。そして互いに祈りつつ、もっと神様を知って、信頼していきたいと願います。神様は信仰の成長の度合いや必要に応じて、その人に納得がいく理解を、聖霊を通して与えてくださると信じます。
「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネによる福音書20章29節
「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」出エジプト記33:20-23節
*1 ヨハネによる福音書1章18節
*2 出エジプト記24:9-11「…彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」
(引用 新共同訳聖書)