聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

神様を見ることはできますか?

2024-05-18 14:47:17 | 日記

 

 先日、ある方から質問を受けました。聖書には「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子だけである神、この方が神を示されたのである。」*1と書いてあるけれど、旧約聖書には人が神を見たことがいくつかかいてある。どう理解したらよいのか、と。

わたしはその日、聖霊の働きについて話をしたところで、聖霊は「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ16:13,14:26)とイエス様が話されたことに対しの問いであり、自分は注解書を調べても、聖霊によってもいまだにこの問題が悟れないとおっしゃるのです。私は旧約の箇所で長老たちが「神を見た」のは足元だけの描写しか記されていないので*2、全部の姿を見たわけではないと解釈していたこと、基本的には幻や夢などでしか人は神様を見ていないだろうと告げると、その方は、他にも旧約聖書に「主は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」とか、「私は神を見てなお、・・・」と記されている箇所があると。

その方は、わたしよりも聖書を勉強し、知識はたくさん持っておられるのかと察します。しかし、神様の御言葉は神学的知識や学術的なことですべて解明できるものではなく、また聖書に書いてあることの中で整合性がとれていない事柄もあり、ここに少し、あそこに少し記されているという面もあります。私は、その整合性についてはわからないと申し上げた上で、神様は霊なので(イザヤ31:3,ヨハネ4:24)、基本的にわたしたち人間には神様を生で見ることが出来ないと思うし、幻や夢で部分的に見た人々はいても、物理的にこの体で神様を見ることはできないと理解していますと伝えました。「聖霊が、その時になれば、~さんに納得されるようにこのことを示してくださるでしょう」と言いますと、了承されました。

神の独り子である、神であるイエス様だけが、神様をじかに見ることができ、私たちが直接見ることができるのは、天国に行って新しい復活の身体でもって神様を見られる時ではと私は期待しています。私は、今、神様やイエス・キリストが目にみえなくとも、聖霊が私の心に住んでおられ、神様が共にいてくださっている、その臨在を信じています。なぜなら、今までの信仰生活で、その時その時に必要なみ言葉の理解、悟り、知識が与えられる、つまりこれまで生きてきた上での様々な状況に応じて神様が導き、必要なことを恵みとして与え、守られてきているという体験があるからです。聖書を読んでいて分からないこと、疑問はたくさんあります。そのような質問に対するお互いの理解を分かち合えることは幸いだと感謝します。そして互いに祈りつつ、もっと神様を知って、信頼していきたいと願います。神様は信仰の成長の度合いや必要に応じて、その人に納得がいく理解を、聖霊を通して与えてくださると信じます。

 

「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネによる福音書20章29節

 

「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」出エジプト記33:20-23節

*1 ヨハネによる福音書1章18節

*2 出エジプト記24:9-11「…彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」

(引用 新共同訳聖書)


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礼拝メッセージ 「弁護者:聖霊の働き ヨハネによる福音書16章より」

2024-05-11 16:45:32 | 日記

聖書箇所 ヨハネによる福音書16章4-15節   「弁護者:聖霊の働き」

来週は教会歴ではペンテコステ(聖霊降誕日)となります。それに先駆けて、本日はヨハネによる福音書より、聖霊の働きについて皆さまと分かち合わせていただきたいと思います。
 
 イエス様は十字架にかかる直前に、弟子たちに最後の話をされます。その中で「私のいくところに今ついてくることはできない(13:36、以下ヨハネによる福音書)」「わたしは去っていくが、また戻って来る」(14:28)と話され、また弟子たちが今後イエス様のゆえに迫害にあうこと(15:18-27)を話されました。すると弟子たちは「先生はどこへ行ってしまうのか?」と心が騒ぎ、悲しみで満たされていました。
 
 この前の箇所で、イエス様はイエス様が去るからこそ、父が別の弁護者つまり聖霊が送られ、永遠に彼らと一緒にいるようにしてくれることを説明しています(ヨハネ14:26)。ヨハネ14:16で、イエス様がいなくなっても、聖霊が弟子たちとともにおり、内にいるから、「私はあなたがたをみなしごにしておかない」と聖霊を与える約束を弟子たちに話しています。(14:18)
 
 ヨハネによる福音書は聖霊を「弁護者」と紹介しています。他の訳では助け主、ヘルパー、協力者と訳されていますが、原語のギリシャ語の意味は「呼ばれたら傍にきてくれる者」「呼ばれてそこへ来た人」です。人が「助けてください」と呼ぶと、傍にきて助けてくれる人という意味で、弁護人・弁護士の意味を持つようになったそうです。また「慰める者」「励ます者」という意味もあり、「慰め主」と訳す聖書もあります。聖霊はイエス様が天に戻られた後、私たちの内に住み、そばにいて助けてくれる方だからです。聖霊は私たちの傍にいて、助け導き、慰めを与え、励ましてくれる方です。たとえ聖霊が目に見えなくとも、感じられなくとも、何か不思議な体験(例えば幻をみた、声が聞こえた)などがなくとも、聖霊が内に住んでおられ、働かれていることを信じることが大切です。
 
 また聖霊は真理の霊として、私たちを教え、導きます。イエス様はヨハネ14:6「私は道であり、真理であり、命である」とご自身を真理と言われましたので、イエス様が真理であります。ですから聖霊が真理の霊であるかぎり、聖霊は自分からかたるのではなくイエス様から聞いたことを語り(16:13)、イエス様について証しをされます(15:26)。一方で、父がイエス様の「名によっておつかわしになる聖霊が、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせる」(14:26)とありますので、父なる神様からも遣わされています。なぜなら父と子は一つだからです(10:30)。つまり父と子と聖霊の示すことには矛盾がありません。真理の霊はわたしたちをみちびき、真理をことごとく悟らせるとイエス様は言われています(16:13)
 
 そして、聖霊の重要な役割は人々を救いに導くことです。聖霊は罪、義、裁きについて、この世の誤った理解・認識を明らかにするとあります(16:8-11)。それは人々に救いをもたらすためであり、これら3つ罪、義、裁きは十字架の御業について示しています。まず罪について、この世は罪というと、刑法上の罪・違反のことと思います。聖霊は罪とはイエスを信じないことであると示します。これが根本的な罪であり、そこからさまざまな罪が派生していきます。イエス様を信じないということは、神様が私たちに与えてくださった救いの方法、イエス様の十字架の御業を拒否するということです。
 
 義については、義とは一般的に「正しいこと」と捉えますが、義の概念は人や国によって異なり、相対的です。だからお互い、自分たちの義が正しいと主張するところに争いが起こります。しかし、聖霊が明らかにする義とは、イエス様が召天されたことであると記しています。つまり「義とは、天の御国には入れるイエス様のような正しさ」という、絶対的な義を示しています。すると誰もイエス様のような正しさはないことになります。しかし、神様は、私たちに信仰によって義と認めて下さる道を私たちに与えてくださいました。イエス様が、私たちの代わりに罰を受けてくださることによって、私たちが正しいとされる、つまり義が私たちに着せられ、神様はキリストにあって私たちを正しいと見てくださり、天に迎えてくださります。
 
 裁きについては、人は裁きというと自分や他人が裁かれることと思います。しかし聖霊は「この世の支配者が」つまり悪魔が十字架のみわざにおいて、裁かれることを明らかにします。ヘブル人への手紙にこう書かれています。「それは死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために生涯、奴隷の状態にあった者達を解放なさるためでした。(2: 14-15)」とあります。聖霊はこのように十字架による救いをこの世の人々に示す役割をし、イエス・キリストを信じる信仰に導きます。
 
 救われた後、聖霊は信徒のこの世で生活と教会において働いてくださいます。その働きはたくさんありますが、ここでは主要な働きをいくつか述べます。まず、父なる神様への祈りを可能にするために働いてくださいます。私たちは祈るとき「天の父なる神様」と呼びかけ、イエス・キリストのみ名によって祈りなさいと、イエス様が言われたように、祈るとき、そこに聖霊が働かれます。パウロはローマ8:16にて「この霊こそはわたしたちが神の子供であることをわたしたちの霊と一緒になって証してくれる」とし、神の子とする霊を受けて神様に「アバ 父よ」と親しく呼ぶことができます。あたかも子供がその信頼しているお父さんに話しかけるようにして父なる神様になんでも祈ることができます。
 
 また聖霊は、わたしたちがどういのったらよいかわからない時も、代わりに父なる神様のみこころに従って、とりなしてくださるとローマ信徒への手紙8:26-27で記されているとおりです。私たちは意識していなくとも、祈りと礼拝、また黙想において、父なる神様、子なるキリスト、聖霊との交わりに自身も含めて頂いていることを実体験しています。
 
 次に、聖霊は御霊の実を結ばせ、互いに愛し合えるようになれるよう信仰を成長させてくれます。パウロはガラテヤ信徒の手紙5章16-26節で、霊の導きに従って歩めば、肉の欲望を満足させるようなことはなく、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制とし、霊の導きに従って歩もうと励ましています。励ましているということは、これが書かれた時代のクリスチャンも御霊の実を結べていなかったから、パウロは彼らを励ましており、そして現代でも神の言葉は、変わらずに私たちを励ましているわけです。
 
 最後に 聖霊はイエス・キリストを証する力を信徒に与えます。私たちは人の反応を恐れてしまうと、何も言えなくなってしまいます。しかし、聖霊の力が上から注がれると、ペトロが大胆に人々に十字架につけられたイエスがキリストであり、復活されたことを大胆に証しし、大勢の人が一度に信じたことは、まさに聖霊の力によります。このように、現代に生きる私たちにもペトロに注がれた同じ聖霊の力が、イエス様を証しようとするときに与えられます。
 
 証しは、聖書の内容を全てしっていなくとも可能です。原始キリスト教会では、普通の人々が聖霊の力を受けて、周りの人々にキリストのことを口コミで伝え、福音が伝えられていきました。神様が私たちを愛して、キリストにおいて何をして下さったか、そして自分がどう変えられたかを、つまりイエス様の十字架によって、罪が赦され、神の子供とされるという大きな恵について、そしてそのキリストを信じることで自分の心に平和が与えられていることを具体的に人々に証しできるでしょう。証の機会は生活の中で様々な形で与えられるかもしれません、人間関係で悩んでいる人からの相談、平和を求めて、どうしたらよいのかと模索している人との会話など、その機会さえも、神様が与えてくださります。証した後は、その人に聖霊が働かれるよう祈り、その人の救いを祈っていくことが私たちのやるべきことです。救われるのは神様のなさる業で、私たちはキリストの福音を証しし、み言葉の種をまくことです。
 
 教会は聖霊の働きによって集められた信徒の群れです。聖霊がイエス・キリストに対する信仰を創り、信じ続けることを可能にし、キリストを証しすることをも可能にしてくださります。聖霊の働きによって、イエス・キリストが今も共にいて下さることを私たちは体験し、聖書を通して神様をもっと知り、私たちの生活を通してキリストに栄光を帰せるよう導いて下さいます。このような聖霊の助けによって、私たちはキリストの身体:教会として一つの霊によって一つに結ばれ、神様と主イエス・キリストを礼拝し、互いにキリストの愛を示し、人々にキリストを証しする機会が与えられるよう祈っていきたいと願います。


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心の渇きを満たす水

2024-05-01 23:11:23 | 日記

 天気の良い日に、数時間、教会の庭の草取りをしていて軽い熱中症にかかりました。そうならないように、たくさん水を飲みながら、帽子もかぶって作業をしていたのですが。しばらくの間、頭痛が生じ、身体が水分を欲している状態で、のどが渇いてしかたがありませんでした。

 身体には水分補給が必須で、脱水状態は致命的です。同様に、下記の詩で、魂が渇くという表現があります。それはまるで、涸れた谷に鹿が、水を求めるようだと、詩編の作者は表現しています。生きるために動物も水を求めてさまよいます。人は、魂の渇きが満たされることを欲してさまよいます。どんなに裕福でも、家族が健康で生活が満ち足りていたとしても、何か心が満たされない、心にぽっかり穴が開いていて、それを埋めてくれるものを探し求めているのではないでしょうか。先日ある方が、「寂しくて、ついSNSをしてしまうんです」と言われていました。そしてそのSNSの言葉で自分が傷ついて、不安になってしまうという繰り返しだと。人の飢え渇きを満たせるのは、誰かの言葉ではなく、自分の才能でもなく、実は人間を創られた神様、命を与える神様であることを、聖書は記しています。  

 神の御子であるイエス様はこの世に来られた時、一人の女性と井戸端で話をされました。彼女が井戸に水を汲みにきていたところに、イエス様は水の話をされます。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4:13-14)

 また、エルサレムでの祭りに集まっている人々に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7:37-38)と言われました。

 心の、魂の飢え渇きを満たせるのは、救い主であるイエス様だけです。イエス様が与える水については「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた」(同7:39)と記されています。この霊は、聖霊といって、イエス様を救い主と信じる人に与えられ、この聖霊によって神様とイエス様と祈り、また導かれ、聖書の書いてあることを理解でき、また必要な時にみ言葉を思い出すことができるように、助け主として私たちの心の内側に住まれ、働いてくださる方です。

 この詩編の作者のように、一時的に神様を見失いになるほど、神様はどこにおられるのかと、苦しみの中で追い詰められ、呻くことは信仰を持っていてもあり得ます。しかし、そんな苦難の中においても、「なぜ、うなだれるのか、私の魂よ、神を待ち望もう!」と自身が自分の魂に激励できるのです。なぜなら、今まで神様が自分をどれ程愛してくださったかを、イエス様の十字架を通して知り、心に喜びが溢れ、神様の愛で満たされた経験をしてきたからです。この神様の愛を受け取ることができ、信仰が与えられているからこそ、今すぐ神様の助けが得られなくとも、祈り続けても状況がなかなか変わらなくとも、希望を失わずに、きっと神様が助けて下さる、ふさがれている道を開いてくださる、閉ざされた扉を開けてくださると信じて、耐え忍ぶことができます。

 一人でも多くの方が、イエス・キリストに出会い、神様の愛で心が満たされるよう、困難な状況にあっても神様の助けを得て日々歩めますよう、祈り求めたいと思います。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。

神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。

昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。

人は絶え間なく言う 「お前の神はどこにいる」と。

5わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす

喜び歌い感謝をささげる声の中を

祭りに集う人の群れと共に進み

神の家に入り、ひれ伏したことを。

6なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。

神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう

「御顔こそ、わたしの救い」と。」     詩編42編2-6節

(引用 新共同訳聖書)


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