聖書箇所 マルコによる福音書1章40-45節
本日はマルコによる福音書より「憐れみ深い神」と題しまして、メッセージをさせていただきます。
「憐れむ」という言葉は、どんな時に用いられるでしょうか。つらい状況の人から話を見聞きし、「可哀そうだな」と思うことができますが、他人であればあるほど、深くその人に感情移入をすることはそう多くはないと思います。「断腸の思い」というのがあり、これは中国の故事からきています。ある人が親子の猿を見つけ、その子猿を船で連れ去ると、母猿は必至に河岸をずっと走って追いかけ、そしてとうとうその船に飛び乗ってきましたが、その時母猿は息絶えてしまいました。そして、その母猿の腹を裂くとはらわたがちぎれていたということで、つまりはらわたが裂けるほど母猿が子猿のことを思って苦しんだのが「断腸の思い」の由来だそうです。新約聖書での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語(原語はギリシャ語)も同じで、「腸がちぎれるような苦しみ」という意味から転じて「憐れみ」という意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語からきており、つまり出産の際の母体の子供に対する慈しみの心という意味が「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。
たとえば、列王記Ⅰ3章にソロモン王の知恵を表す裁判の話があります。二人の遊女が同時期に子を産み、一人が赤ん坊を踏んで死なせてしまったところ、その女がもう一人の遊女の子供と死んだ子をすり替えて、生きている方が自分の子だと主張しました。二人がそれをソロモン王の前の裁きに持ってくと、「この子を二つに割いて、半分ずつ二人に与えよ」と言いました。すると、本当の母親である女が、わが子を憐れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人に上げてください」と言った時の「憐れに」という単語もそうです。
また、ホセア書11:8で、神様は反逆したイスラエルの民に対して、「どうして見捨てることができようか」と激しいく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」という箇所での「憐れみ」もそうです。神様が私たち人間をかわいそうに思われるその表現は、旧約聖書では、激しい、あたかも母親が母体の子を慈しむ、愛を注ぐ思い、女性的な愛情で示されているのが興味深いです。なぜなら聖書は神様を「父なる神」とし、父親的な表現で示しているからです。だからといって、神様に実際男女の性別があるわけではありません。性別というのは被造物の持つ生物学的なものであるとされます。わたしたち人間が神様を理解できるように、類比的に父の愛、母の愛で神様の愛は表現されています。
聖書に記録されているイエス様は、当時の政治的に虐げられ貧しい民衆、治らない病を持つ人々、悪霊に取りつかれて苦しむ人々、「罪びと」と言われ社会から疎外され、同胞から差別されていた人々と積極的に関わり、「神の国」を宣べ伝え、彼らと食事を共にし、病を癒されました。イエス様の行動の動機は下記の箇所のように「深く憐れんで」と記されています。イエス様の憐みは単に可哀そうと思うだけでなく、その方々に寄り添い、共に苦しみ、そして助けるという慈愛の思いと行動を伴うものでした。本日の聖書箇所も、重い皮膚病にかかっている人が置かれている社会的状況、つまり汚れた存在として隔離されている状況(レビ記13:45-46)に対して深い憐みを示されたところです。イエス様は思い皮膚病にかかっている人を、腸がちぎれる想いにかられ、手を差し伸べて、その人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われました。
イエス様はあえて隔離されている地域に近い路地を通られたからこそ、重い皮膚病を患っている人が、イエス様に近寄って来られたのでしょう。律法では、一般の人に感染しないように移動するときは、一定の距離を置いて歩き、しかも「汚れている」「汚れている」と叫びながら歩かなければならないという、なんとも悲惨な状況でした。その人は、イエスさまの噂を聞いていたので、本当は近くまで行くことができない、そういう社会の、律法のきまりを犯してまで、イエス様の近くへ行きひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。
この人は、膝まずいて、低い姿勢でイエス様に、信仰を持って近づきました。するとイエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」のです。
イエスが癒したあと、すぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言われた理由は、単にイエス様の癒しの奇跡を魔術のように触れ回ってもらうと、イエス様が神の国を宣べ伝えるという主な目的が妨げられるからであり、この人が癒されてなすべきことは、社会復帰するためにまず律法で定められたこと「祭司に見せて、清いと宣言してもらう」ことをしてほしかったのだろうと思われます。残念ながら、この男は大いにこの出来事を人々に告げ言い広め始めてしまいました。嬉しかったのでしょう。イエス様は。もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられましたが、それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来たと記されています。
私はこの箇所を通して、神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやっていなかった愛のなさを示され、悔い改めます。以前病院で働いていた時は、入院している患者さんたちの生死といつも直面していましたが、全員と接しているわけではなく、関わっていない患者さんの死に対しては無感覚になってしまうことが、働いていて一番つらかったことでした。私が直接かかわるケースは、家族がいなかったり、生活保護を受けていて入院費・アパートの家賃の支払いが困難だったり、何かしら支援が必要な方々でした。今でも忘れないのが、病気が進行し退院ができなくなってきた患者さんと、事務的なことを代理人業者やアパートの家主に取り次がなければならない時がありました。その方とお話するたびに、家に帰りたい、でも自身の体が日に日にしんどくなりと、ご自分の死を覚悟しなければならないけれども、受け入れられないという葛藤を見て取れるとき、私はこの人にどう寄り添えるのかと、なんとかキリストの救いの話しのきっかけを引き出せないかとあれやこれやと考えているうちに、他の仕事もあるので機会がなく、ある朝、その方がすでに亡くなっていたと報告がありました。私は、その人の隣人になりたかった。しかしなれなかったという心残りがあり、そのことを神様に祈りました。キリスト教の病院で、チャプレンとして働く職種でなければ、患者さんに福音を伝えるというのは一般の病院では困難でした。私は、仕事としてキリストの福音を伝えたいという思いが、病院勤務の経験を通してさらに強められ、伝道師になろうと導かれたと思います。
隣人と言えば、イエス様は良いサマリア人のたとえを話されました(ルカ10:25-37)。ある旅人が強盗にあい、瀕死状態で道で倒れていた時、祭司やレビ人という宗教家たちは見て見ぬふりをして通り去った。しかしユダヤ人の敵であるサマリア人が通りかかると、その人を憐れに思い、応急手当をし、宿屋へ連れて行って、宿の代金プラスもっと費用がかかったらそれを支払うとまで言った。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めにおいて、この3人の内誰がこの人の隣人となったか?とイエス様は律法学者に問い、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。隣人になるとは、相手が誰であれ傍によって、相手をかわいそうに思い、共に苦しみ、その人に寄り添うことまで問われます。どうやったらそんな、憐みの心をもてるのでしょうか。
イエス様はルカによる福音書6章35-36節でこう言われました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と話され、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
私たちにとって敵とはだれでしょうか。単に自分に敵対してくる人だけではなく、現代社会的にニュースで犯罪を犯した人を見てひどい奴だ、だめな人だと見下げてしまわないでしょうか。そのような態度も彼らを敵としてみなしているかもしれません。一方、天の父は恩知らずの悪人にも情け深いのです。イエス様のいわれる隣人とは、このルカの箇所の天の父が示す憐れみを基準にして、その人の隣人になりなさいと言われます。非常に難しい、実行不可能のことと、諦めてしまいそうになるかもしれません。
私たちも以前、キリストへの信仰をいただく前、自分でなんとか困難を乗り越えようとし、それが出来なくて辛く、悲しく、惨めな状態があったと思います。神様はそんな私たちをかわいそうに思って、憐れんで下さり、はらわたが裂ける程の痛みをもって、共に苦しんで下さったからこそ、イエス・キリストの命を犠牲にして、私たちを救い出してくださったことを、深い感謝を持って思い起こします。神様は目に見えなくとも、悲しみの真ん中に共におられる、共に苦しまれていることを信仰で受け止められると、大きな慰めが与えられます。このような憐み深く、共に苦しんでくださる神様は、私たちが自分の意思や力で、ご自分と同じような憐みの心を持って行動するように、強いられるかたではありません。わたしたちが出来ないのはわかっておられるのです。ただ、できなくとも、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、わたしたちが自ら、キリストの心に沿いたい、清められたいという思いを神様に祈り、キリストが内に住んで下さるように願うことで、それが可能になるという希望があります。
エフェソの信徒への手紙3章17節に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかり立つ者としてくださるように。」とパウロが祈っているように、キリストの憐みのこころを持つには、私たちの内にキリストが住んでいただくしかないと思います。そうすれば、私たちが、キリストの愛にねざし、愛にしっかり立てるよう内に住む聖霊が導いてくださります。すると差別で苦しむ人、「人と違う」「弱い」からなどでいじめられ、虐げられて辛い思いをしている方、自分の敵に対してさえもっと気にかけるように、心が変えられていく、そして最初は何もできなくとも、その方々のために祈り始める。するといつか、わたしたちにも、各々与えられた場所で、その時その時にある人の隣人になる機会が与えられると思います。そして、イエス様は、わたしたちがその機会を逃して出来なかったとき、また別の機会も与えて下さる、やさしいかたです。
私たちは、インマヌエル「神が共にいて下さる」という名前である、イエス・キリストを、自分の必要や悩みのためだけでなく、他の方々の必要のために自らが関わっていくということを生活の様々な状況で実感したいと願います。