聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

「憐れみ深い神」 土曜礼拝メッセージ

2024-08-31 14:04:59 | 日記

聖書箇所   マルコによる福音書1章40-45節 

本日はマルコによる福音書より「憐れみ深い神」と題しまして、メッセージをさせていただきます。

 「憐れむ」という言葉は、どんな時に用いられるでしょうか。つらい状況の人から話を見聞きし、「可哀そうだな」と思うことができますが、他人であればあるほど、深くその人に感情移入をすることはそう多くはないと思います。「断腸の思い」というのがあり、これは中国の故事からきています。ある人が親子の猿を見つけ、その子猿を船で連れ去ると、母猿は必至に河岸をずっと走って追いかけ、そしてとうとうその船に飛び乗ってきましたが、その時母猿は息絶えてしまいました。そして、その母猿の腹を裂くとはらわたがちぎれていたということで、つまりはらわたが裂けるほど母猿が子猿のことを思って苦しんだのが「断腸の思い」の由来だそうです。新約聖書での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語(原語はギリシャ語)も同じで、「腸がちぎれるような苦しみ」という意味から転じて「憐れみ」という意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語からきており、つまり出産の際の母体の子供に対する慈しみの心という意味が「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。

たとえば、列王記Ⅰ3章にソロモン王の知恵を表す裁判の話があります。二人の遊女が同時期に子を産み、一人が赤ん坊を踏んで死なせてしまったところ、その女がもう一人の遊女の子供と死んだ子をすり替えて、生きている方が自分の子だと主張しました。二人がそれをソロモン王の前の裁きに持ってくと、「この子を二つに割いて、半分ずつ二人に与えよ」と言いました。すると、本当の母親である女が、わが子を憐れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人に上げてください」と言った時の「憐れに」という単語もそうです。

また、ホセア書11:8で、神様は反逆したイスラエルの民に対して、「どうして見捨てることができようか」と激しいく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」という箇所での「憐れみ」もそうです。神様が私たち人間をかわいそうに思われるその表現は、旧約聖書では、激しい、あたかも母親が母体の子を慈しむ、愛を注ぐ思い、女性的な愛情で示されているのが興味深いです。なぜなら聖書は神様を「父なる神」とし、父親的な表現で示しているからです。だからといって、神様に実際男女の性別があるわけではありません。性別というのは被造物の持つ生物学的なものであるとされます。わたしたち人間が神様を理解できるように、類比的に父の愛、母の愛で神様の愛は表現されています。

 

聖書に記録されているイエス様は、当時の政治的に虐げられ貧しい民衆、治らない病を持つ人々、悪霊に取りつかれて苦しむ人々、「罪びと」と言われ社会から疎外され、同胞から差別されていた人々と積極的に関わり、「神の国」を宣べ伝え、彼らと食事を共にし、病を癒されました。イエス様の行動の動機は下記の箇所のように「深く憐れんで」と記されています。イエス様の憐みは単に可哀そうと思うだけでなく、その方々に寄り添い、共に苦しみ、そして助けるという慈愛の思いと行動を伴うものでした。本日の聖書箇所も、重い皮膚病にかかっている人が置かれている社会的状況、つまり汚れた存在として隔離されている状況(レビ記13:45-46)に対して深い憐みを示されたところです。イエス様は思い皮膚病にかかっている人を、腸がちぎれる想いにかられ、手を差し伸べて、その人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われました。

 

イエス様はあえて隔離されている地域に近い路地を通られたからこそ、重い皮膚病を患っている人が、イエス様に近寄って来られたのでしょう。律法では、一般の人に感染しないように移動するときは、一定の距離を置いて歩き、しかも「汚れている」「汚れている」と叫びながら歩かなければならないという、なんとも悲惨な状況でした。その人は、イエスさまの噂を聞いていたので、本当は近くまで行くことができない、そういう社会の、律法のきまりを犯してまで、イエス様の近くへ行きひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。

この人は、膝まずいて、低い姿勢でイエス様に、信仰を持って近づきました。するとイエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」のです。

 

イエスが癒したあと、すぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言われた理由は、単にイエス様の癒しの奇跡を魔術のように触れ回ってもらうと、イエス様が神の国を宣べ伝えるという主な目的が妨げられるからであり、この人が癒されてなすべきことは、社会復帰するためにまず律法で定められたこと「祭司に見せて、清いと宣言してもらう」ことをしてほしかったのだろうと思われます。残念ながら、この男は大いにこの出来事を人々に告げ言い広め始めてしまいました。嬉しかったのでしょう。イエス様は。もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられましたが、それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来たと記されています。

 

私はこの箇所を通して、神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやっていなかった愛のなさを示され、悔い改めます。以前病院で働いていた時は、入院している患者さんたちの生死といつも直面していましたが、全員と接しているわけではなく、関わっていない患者さんの死に対しては無感覚になってしまうことが、働いていて一番つらかったことでした。私が直接かかわるケースは、家族がいなかったり、生活保護を受けていて入院費・アパートの家賃の支払いが困難だったり、何かしら支援が必要な方々でした。今でも忘れないのが、病気が進行し退院ができなくなってきた患者さんと、事務的なことを代理人業者やアパートの家主に取り次がなければならない時がありました。その方とお話するたびに、家に帰りたい、でも自身の体が日に日にしんどくなりと、ご自分の死を覚悟しなければならないけれども、受け入れられないという葛藤を見て取れるとき、私はこの人にどう寄り添えるのかと、なんとかキリストの救いの話しのきっかけを引き出せないかとあれやこれやと考えているうちに、他の仕事もあるので機会がなく、ある朝、その方がすでに亡くなっていたと報告がありました。私は、その人の隣人になりたかった。しかしなれなかったという心残りがあり、そのことを神様に祈りました。キリスト教の病院で、チャプレンとして働く職種でなければ、患者さんに福音を伝えるというのは一般の病院では困難でした。私は、仕事としてキリストの福音を伝えたいという思いが、病院勤務の経験を通してさらに強められ、伝道師になろうと導かれたと思います。

 

隣人と言えば、イエス様は良いサマリア人のたとえを話されました(ルカ10:25-37)。ある旅人が強盗にあい、瀕死状態で道で倒れていた時、祭司やレビ人という宗教家たちは見て見ぬふりをして通り去った。しかしユダヤ人の敵であるサマリア人が通りかかると、その人を憐れに思い、応急手当をし、宿屋へ連れて行って、宿の代金プラスもっと費用がかかったらそれを支払うとまで言った。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めにおいて、この3人の内誰がこの人の隣人となったか?とイエス様は律法学者に問い、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。隣人になるとは、相手が誰であれ傍によって、相手をかわいそうに思い、共に苦しみ、その人に寄り添うことまで問われます。どうやったらそんな、憐みの心をもてるのでしょうか。

 

イエス様はルカによる福音書6章35-36節でこう言われました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と話され、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 

私たちにとって敵とはだれでしょうか。単に自分に敵対してくる人だけではなく、現代社会的にニュースで犯罪を犯した人を見てひどい奴だ、だめな人だと見下げてしまわないでしょうか。そのような態度も彼らを敵としてみなしているかもしれません。一方、天の父は恩知らずの悪人にも情け深いのです。イエス様のいわれる隣人とは、このルカの箇所の天の父が示す憐れみを基準にして、その人の隣人になりなさいと言われます。非常に難しい、実行不可能のことと、諦めてしまいそうになるかもしれません。

 

私たちも以前、キリストへの信仰をいただく前、自分でなんとか困難を乗り越えようとし、それが出来なくて辛く、悲しく、惨めな状態があったと思います。神様はそんな私たちをかわいそうに思って、憐れんで下さり、はらわたが裂ける程の痛みをもって、共に苦しんで下さったからこそ、イエス・キリストの命を犠牲にして、私たちを救い出してくださったことを、深い感謝を持って思い起こします。神様は目に見えなくとも、悲しみの真ん中に共におられる、共に苦しまれていることを信仰で受け止められると、大きな慰めが与えられます。このような憐み深く、共に苦しんでくださる神様は、私たちが自分の意思や力で、ご自分と同じような憐みの心を持って行動するように、強いられるかたではありません。わたしたちが出来ないのはわかっておられるのです。ただ、できなくとも、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、わたしたちが自ら、キリストの心に沿いたい、清められたいという思いを神様に祈り、キリストが内に住んで下さるように願うことで、それが可能になるという希望があります。

 

エフェソの信徒への手紙3章17節に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかり立つ者としてくださるように。」とパウロが祈っているように、キリストの憐みのこころを持つには、私たちの内にキリストが住んでいただくしかないと思います。そうすれば、私たちが、キリストの愛にねざし、愛にしっかり立てるよう内に住む聖霊が導いてくださります。すると差別で苦しむ人、「人と違う」「弱い」からなどでいじめられ、虐げられて辛い思いをしている方、自分の敵に対してさえもっと気にかけるように、心が変えられていく、そして最初は何もできなくとも、その方々のために祈り始める。するといつか、わたしたちにも、各々与えられた場所で、その時その時にある人の隣人になる機会が与えられると思います。そして、イエス様は、わたしたちがその機会を逃して出来なかったとき、また別の機会も与えて下さる、やさしいかたです。

 

私たちは、インマヌエル「神が共にいて下さる」という名前である、イエス・キリストを、自分の必要や悩みのためだけでなく、他の方々の必要のために自らが関わっていくということを生活の様々な状況で実感したいと願います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼拝でのかぶり物@ルーマニア人の教会

2024-08-30 10:42:45 | 日記

 以前ギリシャのアテネに旅行に行ったとき、ルーマニア人教会の礼拝に参加したことがあります。その当時ギリシャには多くのルーマニア人が出稼ぎ労働者として在住し、彼らのための教会が現地にあり、この時日本人のグループ向けに日本人の宣教師が通訳をして頂き、礼拝に参加させて頂きました。そこで驚かされたことは、まず小さい子供も静かに座って、お母さんと礼拝に参加していること(通常子供は礼拝の途中で退席、もしくは最初から子供の礼拝として別に行われている)、そして女性が頭にハンカチみたいな布をつけていること、こんなにも大勢の若い家族が、異国の地にて彼らの母国語での礼拝を捧げるため熱心に集まっていることでした。女性の頭の布はかぶり物と言われ、女性が礼拝に出席する際に身に着けるべきものとして聖書に記されており*1、キリスト教でも宗派によってそのことを今でも守っている教会はありますが、現代の特にプロテスタントの教会では服装は自由であり、かぶり物を女性がつけることを守っているのは珍しいからです。

 私は聖書を読むとき、その時代の社会を反映している慣習や差別的記述に関してはあまり深く考えずにいました。特に女性の地位は当時低く、頭数には数えられないし、公的な場での発言は許されていませんでした。しかし、使徒パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝える上で、革命的なことを記しています。人種、性別、社会的階級は一切なく、キリスト・イエスにおいて一つなのだと*2。そして、礼拝において女性も与えられた賜物を用いて発言(祈ったり、預言したり)できるという画期的なことを記しています*3。キリストにおいて、人は新しく創造され、神様の前に違いはなく、平等であるからです。一方で、当時の社会的身分の違いがそう簡単にひっくり返るわけではなく、パウロがそれにそった発言をしていることも彼の手紙に示されています。その一見矛盾とも思われる記述について、それはパウロの平和や秩序を大切にしていたゆえの、周辺社会への配慮だと思えるのです。しかしパウロはさりげなく彼の手紙に、地域教会で奉仕していた女性たちの名前を挙げています。それは大っぴらには言えなくとも、キリストにある新しい信仰共同体(教会)においては、女性の立場と使命は新しくされていることを控えめに表現しているのではないでしょうか。

 パウロは、キリストの十字架によって、人間関係における敵意が滅ぼされ、キリストにおいて一人の新しい人につくり上げることで、平和を実現し、キリストを信じる者を一つの体として神様と和解させてくださったと記しています(エフェソ2:14-16)。キリストを信じる者は、自分たちが救いに与ることに留まらず、キリストの福音を知らない人々に伝える、つまり神との和解を勧める任務があります。キリスト者は、差別や敵意を廃棄したキリストの平和を世の中に運ぶ役目があります。その際、相手の社会背景、宗教、歴史を無視し、これが真理だと押し付けるやり方は、キリストの愛に根差していないでしょう。過去キリスト教の宣教にそういう時代があったことも否定できません。その反省とともに、違った考えを持っている人とまずは対話し、困っているもしくは虐げられた人々の話を聞く、そして平和に向けて共に働いていこうとすること、その上でキリストの福音を曲げずに伝えていくことが問われるのではないかと思わされます。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 (コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章17節)  (引用 新共同訳聖書)

*1 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2-16節

*2 ガラテヤ3:26-28

*3 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:5  14:1-5


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「目を開かれたので」

2024-08-16 16:44:37 | 日記

 猛暑日が続く年です。驚いたことに、これとほぼ同じ気温が82年前の8月に名古屋市内でも記録されていたそうです。当時は冷房はありませんが、日本家屋は風通しを良くした作りで、蚊帳を使って虫をよけ、家の敷地内に木を植えて日陰を作り、井戸水を打ち水にしたりと工夫をし、なんとか乗り切ったそうです。現代では冷房がない生活が考えられません。しかし、森林の中は太陽の光が木々にさえぎられ、真夏の日中でも涼しく快適ですので、私たちは週に一度は車で森の傍まで行き、森を一時間程歩きます。

 地球には、砂漠地帯のような年中酷暑の場所に住む民族もいます。古来からベドウィンなどの遊牧民は砂漠に点在するオアシスを利用し、ラクダ・羊の放牧や売買を営みながら、テントで移動生活をしています。現代は定住化する人が増え、その人口は減っているそうです。そのベドウィンの話に関連し、ハガルという女性の話が聖書に記されています。彼女はエジプト人で、古代イスラエル民族の祖先のアブラハムの妻、サラの奴隷として雇われました。神様がアブラハムとサラに子を授けると約束しましたが、高齢のサラはそれを待ちきれず、自分の代わりにハガルに夫と子供を作らせ、自分の子とすると提案しました。いざ神様の約束どおりにサラが子を授かると、彼女はハガルとその子イシュマエルを追い出すようアブラハムに要求し、哀れなハガルは息子と二人っきりで砂漠に追い出されました。ハガルが苦しんで泣いていると、天から神のみ使いが呼びかけ、井戸を見つけさせ二人を助けたというストーリです。この親子は砂漠に住み、イシュマエルから12部族の民族が生まれました。

 聖書の本筋はイエス・キリストの祖先となるアブラハムとサラのストーリーですが、今回ハガルにあえて着目したのは、神様は弱い者の叫びをこの世界中のどこでも聞き逃さない方であると今一度気づかされたからです。そして、目の前にあっても、様々な事情や思いで覆いかぶされて見えなくなっている必要なもの、つまり神様のキリストに示される愛を、その人の目を開いて見せて下さります。ハガルがこの時神様への信仰を持っていたどうかは記されていませんが、虐げられ、悲しみに叫んで泣いていました。神様は、その人に信仰があってもなくても、全ての人の叫びを聞き、かわいそうに思って、助けて下さる、慈愛の方であります。その究極が、ご自身の御子イエス様を全ての人が救われるために、十字架で死なせ、復活させた出来事に現わされます。

今、戦争により生死の狭間におかれている状況、家庭内暴力、学校でのいじめ、会社でのハラスメント、多くの人々が神様を知らずに苦しみ、叫んでいます。これらの人々の声を神様が聞いて下さっていることを信じ、その方々のために祈り続けたいと思います。神様を信じることによる解放、救い、すばらしさ、そして神様にすべてを信頼し、委ねて生きることが出来ることを「知る」ことが出来るように祈りたいと思います。私たちは、明日についてどうなるかわからないので、思い煩ってもかえって心が病みます。むしろ、神様がなんとかしてくださるとすべて委ねて、神様に信頼しつつ、今生かされていることの感謝の祈りを日々ささげたいと思います。

 

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。」(創世記21章19-20節)

 (引用 新共同訳聖書)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼拝メッセージ 「キリストへの信仰によって生きる」

2024-08-10 13:06:12 | 日記

2024年8月11日、12日 益子教会 メッセージ 聖書箇所  ガラテヤの信徒への手紙2章16-21節

 本日は、ガラテヤ信徒への手紙より、「キリストへの信仰によって生きる」と題してお話しをしたいと思います。ガラテヤ信徒への手紙は、パウロの手紙の中で、最も口調の強い表現と切迫感をもって書かれた手紙です。パウロの宣教によって、ガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれ、その信徒たち(今のトルコ地域)がキリストの福音を信じて喜んでいましたが、パウロが去ったあと、ユダヤ人でキリストをメシヤと信ずる者(ユダヤ主義的キリスト者)がやってきて、「キリストを信じるだけではだめだ、異邦人はユダヤ教の律法を守り、割礼をうけなければ救われない」という偽りの福音を教え、キリストの福音からガラテヤ信徒の人々を引き離そうとしていたのです。キリストの福音はイエス・キリストを信じる信仰によって救われる、義とされるのであって、律法を守ることを付け加えてはならないことをパウロがガラテヤの信徒の人たちに説明しています。

その説明は16節で「律法の実行によってはだれ一人として義とされない」と、パウロははっきり断言しています。人は生まれながらにして自己中心なので、自分の意思で良い人になろうと努力しても不可能であり、律法のようなすべての法律や道徳的に正しさを完璧に守れる人間は誰ひとりいません。つまり誰も神様の前に、「わたしは自分の行いによって正しい、無罪です」ということができないからです。

私たち日本人にとって「律法を守ることで義と認められる」とは具体的にどういうことかあまりピンとこないかもしれません。たとえていいますと、自分は、社会的、道徳的に何か良いことをしたいと思う。しかし、様々な事情で、今の自分の生活を犠牲にしてまで出来ない。またこれをしてはいけないとわかっていても、うっかりしてしまう、仕方なくしてしまい、罪悪感を持ってしまう。そしてこれらを償うために、何か自分でできる良い行いをして罪の償いにあてるという心理的操作は日本社会にもあると思います。しかしこれでは、根本的な罪の解決にならず、また同じことの繰り返しになります。

 わたしにとってはクリスチャンホームで育ったことは大きな恵みでしたが、若い頃キリストの福音を理解していなかったゆえに、聖書の教えが律法となって私を支配し、苦しんだという経験があります。私は洗礼を受けましたが、その後キリストを救い主として生きることの意味がぼんやりしてしまい、良いこと、なすべきことと知っていても自分の意思、弱さでできない、これはしてはいけないと頭では知っていても誘惑に負けてしまう、後悔してもまた繰り返していました。後ろめたさを抱えつつ、教会の奉仕を少しはして、教会に通うことで気休めを自分のなかで作り、一方いつも責められる思いがありと内面が非常に不安定で、律法に支配されているユダヤ人に近い状況でした。私は思っていました「神様は聖書の教えを守れない私を赦さず、見捨てただろう」と。自分の力で頑張らねばならない、自分の為に生きることに疲れてしまいました。

憐れみ深い神様はそんな私をかわいそうに思って、30歳の時、キリストがそんな自分のために、十字架にかかって死んでくれたから、私は神様の前に自分がどんなにダメなクリスチャンであっても無罪とされ、キリストのおかげで神様の前に出られると信じる信仰が与えられました。すると、負い目や重荷が取り去られました。これからはキリストのために生きること、神様にすべてゆだねて生きることができるのだという喜びと解放感が与えられました。

 パウロは、律法自体は霊的で、聖なるもので良いものだとも言っています。(ローマ7:12、14)しかし、罪はその良い律法を利用して、人を破滅に導きます。つまり律法や聖書のことばを自分の意思や努力によって守ろうとし、それで自分の中で正しいとすることで、神様ではなく、自分で自分を支配できる、自分の行いで自分を義と認めようとするという傲慢な状態に導くからです。自分の意思や力で、正義を獲得できると思い、一方出来ない自分がいるという分裂状態を律法は作り出すので、そのことを律法に支配されていれるとパウロは説明しています。

義とされるとは、神様によって「あなたは無罪」と宣言されるという、法廷用語であります。それは神との関係が正しい関係に移されることを意味します。キリストの十字架と復活のおかげで、罪に問われることもなく、堂々と神様の前に出られること、そして神様との愛の関係、信頼関係の中に生き、祝福と恵に招きいれられること、それがキリストを信じる信仰によって義とされるということです。私たちは正しくなくとも、キリストの義がわたしたちを覆ってくださります。この神様との正しい関係になることはイエス・キリストへの信仰によってのみです。律法を守るという行いによってではないのです。

  またパウロは、19節で「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。」と言っています。これは、約2000年前にイエス・キリストの十字架の死が成し遂げてくださったこと、その影響が今も私たちの上に続いている、その死を共有しているといいかえられます。それは、わたしたちがキリストを信じ、洗礼を受けることによって罪に支配された古い自分は死んで、そのお葬式をしたということです。同時に、聖霊が与えられ、洗礼によって新しい命により、キリストに結ばれて神に対して生きることが可能になります。だから20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言っています。同じことをコリント信徒への手紙Ⅱ 5:15でもパウロ記しています。「キリストがわたしの内に生きる」ことについて、パウロはエフェソ3:16-17で 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 」と記しています。

このパウロの祈りは、神様が聖霊により、わたしたちの内なる人を強めて、信仰によってわたしたちの霊の部分にキリストに住んでいただけるようにと、お願いしています。なんでもそうですが、神様にお願いすればかなえられるのです。キリストによって「新しいわたし」になった状態、罪の法則から解放された新しい人として私たちの感情がどうであれであれ、わたしたちは生かされているのです。

   現代に生きるわたしたちも、ガラテヤの信徒の人と同じような罠にはまる可能性があります。また、生活の中である罪に悩まされる、落ち込む「わたし」がいると、「本当に救われているのだろうか、新しくなってないではないか」「代わりに何か良いことをしなくては」と疑うことがあるかもしれません。そのような元の不自由な状態の思いに戻そうとする力、肉の思いが働いても、思い起こしましょう。神様の前にすでに私は義と認められているのだと、キリストと結ばれ、新しく創造された者(コリント信徒への手紙Ⅱ3:18 5:17)、として私は生きているのだと、毎回御言葉の約束によって引き上げていただきましょう。この神様の大きな恵みを一度受けて、それを無駄にできるでしょうか。キリストが十字架でしてくださったことで、私たちは何もせずに、神様との愛の関係を与えられ、神様の子どもとしてすべて良いものを与えられる、今も、将来も天においても相続することを約束されている、このたくさんの恵みを信仰で受け取り続けよう、とこの御言葉は現代に生きるわたしたちにも強くメッセージを訴えています。

神様が与えてくださったこの救いの喜びを感謝し、主に従おうとすれば、結果的によい行いに導かれます。パウロはエフェソの信徒への手紙2:8-10で

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」 つまり、聖霊が結ぶ実として良い行いさえも神様から与えられるものです。

20節「わたしが今、肉において生きているのは、」は別訳では「今わたしがこの世に生きているのは」とあり、わたしたちはこの世の生活を送りながらも、キリストに目を注ぎ(へブル12:2)キリストにすべてを委ねて歩むことを「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛しわたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」とパウロは表現しています。 

父なる神様が聖霊により、力をもってわたしたちの内なる人を強めてくださるよう、内に住んでくださるキリストに全面的に委ね、主がわたしたちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、キリストへの信仰によって日々生きられるよう、互いに祈りあいましょう。 

(引用 新共同訳聖書)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする