聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記9章 虹の契約

2024-12-19 21:51:23 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

 洪水後、神様はノアだけでなく、ノアの子供たち(セム、ハム、ヤフェト)にも新しい時代における神様の祝福を語られました。神様は新たに、ノアの家族と一緒に箱舟に載った生き物に、産み、増え、地上に広がるようにと言われました。しかし、創造の時の人間と動物、生き物との関係が以前のようではなくなってしまいました。人間は他の生物を支配せよ(管理せよ)というのは同じですが、生き物は人間の前におののく、つまり人間を恐れるように変わります。そして、以前は人間も生き物も草食だったのですが、肉食が許されます。なぜ、神様がこの時点で人に、3節「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」として与えたのかはわかりません。しかし、神様はひとつだけ条件をつけました。血を含んだ肉を食べないこと。血は命だからと。これは、神様が後に与えた律法で、動物の犠牲を捧げる時も、動物の血は水のように注ぎださねばならないと規定されています(申命記12:16,24 15:23)。神様はたんにイスラエルの民へ律法での祭儀的な規定として血抜きをするように言われたのでなく、これは全ての人への神様の命令であります。なぜ血を食べてはいけないのでしょうか。血が、神様が創られた命を表すからとされます。つまり、自分の食糧のために生き物の命を犠牲にするとき、その動物は神様のものであり、その命を犠牲としていることを忘れてはならないのです。そのしるしとして、命を表す血は食べてはならないのです。

なぜ人の命が大切なのか。あるTVのドラマで、高校生が検事に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問し、答えにつまった検事は「一緒に考えましょう」と高校生に言ったシーンがありました。おそらく検事は刑法に殺人の規定があることは説明できても、例えば「人を殺してはいけないというが、戦争では人を殺してよいのか?」に対しての時代や国、究極的には人によって多様な考えがあるので、「一緒に考えよう」と言ったのでしょう。しかし、「命を奪ってはならないこと」の理由は人が考えて決めることではないと、聖書は明確に記しています。5-6節「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。…人は神様にかたどって造られたからだ。」とあるように、すべての命は神様が創造して作ったもので、神様のものであり、特に人は神様にかたどって造られているからそれを損なってはならないのです。神様の所有の人の命を奪うことは、神様に対する犯罪、神様に対して賠償責任を問われるのです。イエス様は「互いに愛しあいなさい」という命令を弟子たちに言われました。それは、神様が造られた人間であるから、造られたもの同士相手を尊重し、相手から奪わず、相手を傷つけず、平和に互いに生きること、それが神様の求めている人間関係であると言えます。神様抜きで考えた人権、尊厳は国連憲章でいくら定めても、異なった命に対する考え方、慣習、歴史を持つ人々にとってはそれに同意できない部分もあるでしょうし、自分たちが良いと思うことを続けるのではないでしょうか。

12節からは、ノアと神様は契約を結ばれることが記されています。その契約とは、8章21節にも記されていることをさらに詳しく、「2度と洪水で肉なるものを滅ぼすことはしない」という内容で、雲の中の虹(「弓」の意味)をそのしるしとされました。神様は虹を見て契約を思い起こすと言われました。このノアとの契約は神様の一方的な恵みの保証として置かれていて、契約における人間側の義務が記されていません。人間がどうであれ、神様はこの契約を守って下さる方です。

そして、18節からはその後のノアと子どもたちの話が記されています。ノアは農夫(土の人という意味)でぶどう作りを初めて始めたようです。ぶどう、ぶどう酒、ブドウ園、ぶどうの木は、聖書では非常によく出てくる表現で、祝福を意味している箇所が多く(ミカ書4:4 ホセア書ア2:17)、イエス様は譬えで「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネによる福音書15章5節)と言われました。ノアがぶどうの栽培を始め、ぶどうの実が発酵してぶどう酒となり、ノアはそれを初めて飲んだと思われます。ノアがぶどう酒を飲んで酔ってしまい裸で倒れてしまった事と、子どもたちのとった態度を聞いて、父親であるノアが祝福と呪いのことばを3人に言ったことが記されています。信仰の人ノアの発言が記されているのがこの箇所だけであるのも興味深く、子が親を尊敬すべきであること、十戒の「父と母を敬え」が思い出されます。人類は3人の息子たちからさまざまな人種が分かれていくことが10-11章の系図に記されていますが、その中で注目されるところはセムの子孫がアブラハムへつながることです。このセムからダビデ王、そしてイエス・キリストというメシアの系図につながります。


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礼拝メッセージ 「あけぼのの光の訪づれ」

2024-12-16 13:08:58 | 日記

 聖書箇所   ルカによる福音書1:76-80 

 本日は、ルカによる福音書1章のザカリヤの預言の箇所よりメッセージをさせていただきます。ザカリヤは祭司で、神殿の聖所に入って香を焚いていた時に天使が現れ、「妻エリザベトは男の子を産む、その子はヨハネと名付けなさい、彼は主に先だって行き準備のできた民を主の為に用意する。」と告げられました。しかし彼は老齢であったため天使の言葉を信じることが出来ず、子供が生まれるまで口が利けなくなってしまいます。それから10ケ月後、エリザベトは男の子を産み、名前を付けるタイミングでザカリヤが「この子の名はヨハネ」と書いたとたん口が利けるようになり、神を賛美し始めたと記されています。(ルカ1章5-20節)

 ザカリヤの口が利けなかった10ケ月のことについては何も聖書は記していませんが、彼はどのような気持ちだったでしょうか。おそらく、神様のお告げを疑ったことを悔い改めて、じっと忍耐していたことでしょう。その期間に彼が自分の不信仰と向き合い、誰とも話ができないという孤独に置かれたことは、一層神の深い憐みの中におかれ、彼の信仰が深められ、神様への賛美へと呼び覚まされるためだったかもしれません。ですから口が利けるようになったとたん、神を賛美し始め、そして、本日の箇所のように聖霊に満たされ、預言が与えられたのではないでしょうか。ザカリヤは10ケ月間でしたが、ユダの人々は約400年間彼らの間に主の預言者が現れない期間でした。ユダ国がBC586年にバビロニア帝国に滅ぼされ、その後捕囚から国に帰還が許され破壊された神殿が立て直されましたが、その後世界の列強諸国の支配を受け続けていました。その間は旧約聖書の最後の預言書マラキ書が記されたのも約BC400年代(BC5世紀前半)と言われていますので、旧約時代の最後の預言者と言われる洗礼者ヨハネの時迄、約400年間預言者を通しての神様からの言葉が民になかったことになります。人々は神様の言葉がいつ再び預言者を通して語られるか、いつメシアが来られるかと待ち望んでいたのです。

ザカリヤはルカ1:68-69節で「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」と数千年にわたって維持されてきた神の偉大な救いの計画において、約束の通りダビデの家からメシアを起こしてくださったことを神様に感謝して賛美をしています。救いの角とはメシアのことを表します。

76-77節で「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」と、イザヤ40:3の預言されているように、自分の子ヨハネの役割「主の道を整える」こと、メシアの道を備えるという大きな役目の主の預言者となることを預言しています。

メシアの救いを受け入れる準備とは、まず人々の間に悔い改めの心が起こされることです。人々が単に今の現状が苦しくて、助けがほしいと神様に訴えるだけで、自分の罪と向き合わずにいることも可能です。しかしメシアを受け入れるには、まず自分が神様の前に罪人であるという自覚が心の底からあるときに初めて、その罪を悔い改め、罪の赦しを受けたいと願い、罪から救ってくださる方としてメシアを求めるからです。

ユダヤ人にとってメシア救世主はダビデの家系からでる、来るべき王をさしていて、このメシアを神が送り、ご自分の民イスラエルを回復させ、国家として独立させ神の民としての栄光を回復してくれるとユダヤ人は待望していたのです。しかし、マタイによる福音書1章21節が示すように、神様のご計画に基づくメシアは「罪から救う方」だとはっきり天使は告げています。つまりメシアは単なる政治的救世主ではないというメッセージです。そこでバプテスマのヨハネは人々にまず、罪を自覚し、悔い改めるように荒野で叫び、それに応答した人々が洗礼を受けにきました。悔い改めるのは、裁かれるためではなく、罪が赦されるためであり、まさに神様の憐みによるのです。

ですから、78-79節「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」と続きます。メシアによる救いは神の憐みの心によるといっています。神様がわたしたちを憐れんで下さるということは、聖書で一貫したメッセージであります。神様は深い憐みの心によって、私たちの罪を赦そうと決められ、そのために御子イエス様を十字架で代わりに罰せられました。そしてこのキリストによる救いを信じる者は罪に対する罰をとがめられることなく、赦されて、神の子供として永遠の命を頂けるという、本当にこの上ない恵みをすべての人に用意くださりました。父と子と聖霊と一つであられる神様は、私たちが罪と死に縛られ、どうしようもない状態で苦しんでいることを、人間となった御子イエス様を通して、ご自身も共に苦しまれ、悲しまれていると言えます。聖書の神様は「いつもあなたと共にいる」(インマヌエル)の神様であり、神様の憐みの心は、私たち人間の「かわいそうに」と思うだけのレベルではなく、共にいてご自分も苦しみんでくださる方です。

新約聖書での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語の一つは(ギリシャ語)も「腸がちぎれるような苦しみ」という意味から転じて「憐れみ」という意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語が語源で、それは出産の際の母親のお腹の子供に対する慈しみの心という意味が転じて「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。ホセア書11章8節に「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか…私は激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」と神様の愛をホセアは記していますが、エフライムとはイスラエルの別名で、神から離れ偶像崇拝で堕落してしまったご自分の民に対する愛が表現されていますが、ここでも「憐れみ」という単語が使われています。私たちを愛してくださる神様は情け深く、熱情的です。

御子イエス様はその地上での生涯において、神の国を宣べ伝え、そして群衆が羊飼いのいない羊のようだと憐れまれて、教えを話されたと記されていますし、神様の憐みの心をもって社会から疎外されていた人々に関わり、病気を癒し、共に食事をされました。またイエス様はルカによる福音書6章35-36節でこう言われました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と話され、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」イエス様は神の国の到来を告げ知らせ、そこでは互いに隣人を愛することと憐れむことがなされる領域であり、それをご自身が実践して、私たちにその模範を示されました。

私たちは神様が私たちを憐れむような心で他者を憐れむことができるでしょうか。私はこの箇所を通して、神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやることができない愛のなさを示され、悔い改めて、神様に愛を注いでくださいと祈るばかりです。私は折しもコロナ勃発時に病院でソーシャルワーカーの仕事を始めましたが、とにかく世界的に混乱していた時期で、そんな非常事態の日々の中で最初の3年間働いていました。患者さんの中には死に直面し、苦悩している方がおられても、私は病院ではソーシャルワーカーの仕事しかできません。キリストの福音を伝えることの出来ないもどかしさを抱えながら、定年退職になってからではなく、「今」キリストにある希望を人々に伝えなければと緊迫感を持つようになりました。このような経験を通して、神様は私のような者をフルタイムでキリストの福音を伝える伝道者になるよう導いて下さりました。聖書の御言葉を通して、暗闇の中にいる方々、希望が持てない方々に、神様の憐みの心、神様の愛を頂いて、キリストの救いを宣べ伝えたいと願っています。

78節「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」の「あけぼのの光が訪れる」とは、マラキ書4章2節に「しかし、わたしの名を恐れる者たちには、義の太陽が昇る。その翼に癒す力がある。」とあり、その「義の太陽が昇る」という言葉、太陽が昇るとはあけぼのの光が昇ることです。したがって、義の太陽とは救い主イエス様を指し示し、この昇る義の太陽:イエス・キリストが、罪のために死の影で生きていた人々、そして暗闇の中にいた人々に光を与えることを指ししめします。そして、その翼には癒す力、つまり罪びとが悔い改めて赦しを受け、癒されることをマラキが預言し、それが成就されたことをザカリヤが述べています。

またヨハネによる福音書1章1-5節で、言が御子イエス・キリストである、「言の内には命があり、その命は人間を照らす光、光は暗闇の中に輝いている」と記されています。言葉であり光であるイエス様が、暗い世を照らすあけぼのの光として、すでに私たちのところへ来てくださっていることは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して実現しています。そして今も私たちを平和の道へ導いてくださっていることを感謝したいと思います。ヨハネによる福音書はその光について証するために洗礼者ヨハネが神から遣わされたと記しています。(ヨハネ1:6-7)人々は皆平和を求めています。しかしながら、人間の力だけでは、平和の実現が難しかったことは、過去の人類の歴史を見て残念ながらわかることです。やはり、平和を願う人々がまず、自分が神から離れていたこと、その罪をキリストの十字架と復活により赦されて、暗闇ではなく、あけぼのの光の中である主イエスとともに光の中を歩むことで、平和を求めていければと願います。必ず、主イエス・キリストが平和の道へわたしたちを導いてくださると、本日のザカリヤの預言からも希望が持つことができます。

わたしたちはザカリヤの預言の箇所からも救い主の到来の喜び、そして御子を通しての罪の赦しが与えられているという神様の豊かな恵みに感謝し、自分が受けている憐れみの心を少しでも私たちが日常生活の中で他者に対して持てるように祈り、私たちの周りにキリストの平和を広げていくよう神様に用いて頂きたいと願います。私たちの力ではそれはできませんが、聖霊の助けを頂き、導いていただけることが幸いです。詩編119:105に「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」記されているとおり、日々御言葉から私たちの歩む道を照らしていただき、今週も歩んでいきたいと願います。


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旧約聖書の学び 創世記8章

2024-12-12 14:29:21 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇12月12日(木) 創世記8章 心に覚えて働かれる主なる神

 大洪水の水が引き、箱舟はアララト山(アララトという地方のどこかの山と考えられる)の上に止まりました。1節の「神はノアと…に御心に留め」られたと記されています。御心に留めるということは 神様が心に覚えておられる者に向かって働いておられることを意味し、同じ表現が出エジプト記2章24-25節にあり、神様がエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民の叫びを聞き、族長たちと交わした契約を思い起こされ、エジプトから救出されようと働かれる時にも記されています。

ノアは雨がやみ、水が引いてきたのを分かっても、神様の時と言葉を忍耐強く待ち、箱舟にとどまっています。神様ご自身が16節「さあ、箱舟から出なさい。」と、神様の意思に基づいて、地球規模の破滅から生き延びたノアたちに指示されました。ノアとその家族と動物たち、爬虫類等を箱舟から出させ、創造の時のように増えていくように命じられ、新しい時代の始まりが記されています。ノアは箱舟で待っている間、鳥たちを使って、水の引き具合をチェックしていたことが記されています。古代に鳥を使った方角の確認(羅針盤代わり)の航海術があったことの記録はあるそうで、ノアがそのような知恵を用いたのかもしれません。まずカラスを放ち、次に鳩を放ちました。ノアが手を伸べて鳩をつかみ、箱舟の中に戻すという描写がノアの鳩に込めた思いを感じ取れます。長期間、箱舟の中に閉じ込められたノア達がようやく箱舟から出られると、期待と希望を持って鳩を飛ばした事でしょう。3回目に鳩が戻ってこないことから 地上から水が引いて鳩が地上で生きられるようになったことを知ります。新約聖書で、イエス様が洗礼を受けられたとき、「天が裂けて、“霊“がハトのようにご自分に降って来る」(マルコ1:10)と記されていますが、鳩は聖霊を示し、ノア達にとって新しい創造の先触れであり、聖霊が現代にいきるキリスト者にとって、神の国を待ち望みつつこの世を歩む人々を導いてくださる方であることを、この箇所からも想起されます。

地上に出て、最初にノアがしたことは祭壇を造り神様に犠牲の捧げものをしたことです。旧約聖書では人間が動物の犠牲を捧げることを通して、神様との関係の修復をする道を神様は示して下さりました。そして、ノアの時もその犠牲は神様に受け入れられ、主はなだめの香りをかいで「再び大地を呪うことをしない」と言われました。そして、人の心は幼い時から悪いとしながらも、この度したように生き物をことごとく滅ぼすことは2度としないと言われました(21節)。そして自然の秩序:夕が来て朝が来る、夏が来て冬が来る(パレスチナ地方の気候は四季が日本のようにない)という自然界の秩序は、人間がどんなに悪くとも維持されるという神様の恵みを約束してくださっています(22節)。

神様は人の悪に対しては怒られ、裁かれる方でありますが、同時に人に対して忍耐され、憐れみ深く、情け深く、ご自分の民を愛される熱情の神であられることは旧約聖書を読んで知ることができます。本当は、人間が毎日洪水で滅ぼされるべく存在であるにもかかわらず、神様はご自分の創造された人間を救おうとして諦めないお方であります。この洪水の物語が指し示すことは、あらゆる動物犠牲は神をなだめることはできても、それによって人間の罪を取り去ることはできないし、何度も繰り返される必要があるという限界と、真に神をなだめることが出来、一度ですべての人の罪を取り去ることができる御子イエス・キリストの十字架の犠牲と復活による神の救いの御業を指し示しているといえるでしょう。(ローマ3:25-26参照)


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地には平和

2024-12-10 11:37:05 | 日記

 先日、韓国で戒厳令が出されましたが、折しも、日本でそれに相当しかねないと懸念される「緊急事態条項」を憲法に追加することに関連する講演が地域での勉強会として開催され、参加しました。非常にわかりやすい内容で、日本の国政を考える上で、根本的なこと、つまり国民の平和のために、そもそも平和とは何かという平和学の観点からも学ぶことができました。一人の方が「平和とは何ですか?」と先生に質問していました。「3つの暴力①直接的な暴力:戦争や暴力、②構造的暴力:弱者が強者に虐げられる経済的仕組み等、③文化的暴力:戦争等を正当化、犠牲は仕方ないとする思想 が合わさって平和の実現を妨げている。よって平和とはこの3つの暴力をなくし、お互いをケアする、助け合う、人権を尊重する社会が構築されている状態。」と答えておられました*1。

 人間のこれらの暴力を引き起こす原因は、欲であると私は思います。欲求自体が悪いという意味ではなく、人として生きる上で基本的欲求は満たされるべきであり、それが互いに尊重されるのが望ましいのですが、それを超えた「貪欲」が他者を害する悪につながるという意味です。多くの人は私を含めて自分がまず大切です。自分を大切にしようとすると、どうしても他者との利害関係が発生し、忙しくて他者のことまで手がまわらないのが現状だと思います。忙しいとは、心が亡ぶと書きますが、忙しくしていますと他者のことを気遣う余裕がなくなります。

 この平和の定義を聞いて、聖書の平和と非常に似ていると気がつきました。聖書で平和のことを「シャローム」(ヘブル語)と言います。聖書における平和とは、何かが欠如していない充足状態をさし、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解など、人間の生のある領域にわたっての真の望ましい状態を意味する語で、単に精神的な平安状態のみではなく、社会的具体性を伴う福祉状態を総括する概念を指しているそうです*2。

 イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい・」*3と教えられました。これが互いにできれば平和に繋がるのですが、机上での理想では平和は実現しません。実際、自分に余裕がない時、自分に敵対する人が目の前に置かれた時、初めて自分の力や意思で「出来ない」という限界に突き当たります。その時「人間だから仕方がない」と諦めるのではなく、どうしたらよいのでしょうか。そこで、私たちキリストを信じる者は神様に祈って助けを求めることができるのが、慰めであり、励ましです。神様を求めるきっかけは、自分で平和が作り出せない、自己中心的な自分を認め、私たち人間を創られた神様に助けを求めることからかもしれません。自分で頑張れる、自分の力(他者の力も)を信じているうちは、神の助けは必要ないからです。「私には神はいらない、神などいない!」という方には、真の神との平和がないと言えます。

 神の御子イエス様は、神に背を向け、神との間に平和がない人々との和解をもたらすために、つまり下記の「地には平和」をもたらすために神様がこの世にイエス様を送ってくださいました。イエス様を通して与えられる神様の愛と救いの現実そのものが、平和を指していることが聖書を読んでいるとわかってきます。例えば、イエス様が12年間出血が止まらない女性をいやした時*4、罪深い女性の罪を赦された時*5、彼女たちに「安心して行きなさい」と言われ、この「安心」と「平和」が同じ言葉(エイレーネ:ギリシャ語)なので、「平和のうちに行きなさい」とも訳せます。イエス様によって病が癒されるとその人に平和の心がもたらされ、イエス様が「あなたの罪は赦された」と赦しの宣言を与えるとその人に平和が与えられます。究極の平和は神様との平和をまず持つことであり、それがイエス様の十字架と復活の御業を通して成し遂げられました。この救いの御業を感謝し、キリストにある平和を与えられて、この困難な時代を生き、周りの人々にキリストの平和を伝えていくことが、私たちクリスチャンの使命です。それは簡単ではないです。出来ません!と叫びたくなることもあります。しかしイエス様ご自身が平和の源であり「安心して行きなさい」と言って、今も私たちを日々送り出して下さる、そのような大きな励ましと力が与えられることを信じ、地には平和がもたらされるようにと祈り続けたいと思います。

   すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

      「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。 ルカによる福音書2章13-14節

(引用 新共同訳聖書)

*1 「緊急事態条項について考える」、宇都宮大学国際学部国際学科 清水 奈名子教授、2024年12月8日、於:益子町さやど公民館より

*2 『新聖書大辞典』p1199、キリスト教新聞社、1971年、引用

*3 マタイによる福音書22章39節

*4 マルコによる福音書5章34節

*5 ルカによる福音書7章50節


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礼拝メッセージ「神は我々と共におられる」

2024-12-07 09:08:26 | 日記

聖書箇所   マタイによる福音書1章18-25節 

  本日アドベント第2主日は、マタイによる福音書一章からメッセージをさせていただきます。エル・グレコというスペインの画家がいます。彼の「受胎告知」の絵画は有名で、倉敷市の大原美術館に展示されています。その中で描かれるマリアの表情が驚きと喜びの両方を表していて、とても力強い絵画です。おそらくこの絵はルカによる福音書のマリアの応答をもとに描かれたのではないかと思います。なぜなら、マタイによる福音書のイエス様の降誕のストーリーではマリアは沈黙していて、マリアの様子が表されていないからです。マタイでは、マリアの聖霊による妊娠というショッキングな出来事にとまどい、悩んだ、いいなづけの、そして夫となるべく決意したヨセフについて記されています。マリアより妊娠を知らされて、どんなに彼は悩んだことでしょうか。ここでの「正しい人」という意味は律法を守る人ということであり、もし律法に従うと、ユダヤ社会での婚約は結婚と法的に同等の為、マリアを姦淫の罪で石打ちの刑に至らせてしまいます。ヨセフはマリアを愛していたのでそれは避けたかったのでしょう、ひそかに離縁をしようと決心したとあります。ヨセフがマリアを妊娠させておいて離婚したとし自分が負い目を負う可能性をとろうとしても、マリアはシングルマザーとして生きなければならないですし、いずれにしても解決策のない行き止まり状態にヨセフは苦悩したに違いないのです。

  そんな苦悩しているヨセフに、神様は夢でみ使いにより20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われます。ヨセフは1章16節にあるようにダビデの家系ですが、ダビデの王家はユダ王国がバビロニア帝国により滅ぼされ人々がバビロンで捕囚となって以降、もはや王族ではなく、旧約聖書にも名前が記されていない一般市民へとつながっていることがマタイが記す系図によりわかります。それでも、ヨセフはダビデ家の家系であり、聖霊によって妊娠しているマリアを妻として迎えることで、イエス様は実子としてその家系に入れられました。なぜ、家系にこだわるのでしょうか。それは、旧約聖書でダビデの子孫からメシアがおこると預言されていたからであり、神様はその為にヨセフとマリア夫婦の子としてイエス様を生まれさせたのです。

イエスという名は当時よくある名前で、ヨシュアのギリシャ語です(ヘブル語だとイエシュア、「主は救う」の意)。イエス様は、その名の意味するとおり「自分の民を罪から救う」方で、キリストとはメシヤ(救世主)のギリシャ語ですからイエス・キリストは名前と称号の組み合わせです。ユダヤ人にとってメシア救世主はダビデの家系からでる、来るべき王をさしていて、このメシアを神が送り、ご自分の民イスラエルを回復させ、国家として独立させ神の民としての栄光を回復してくれるとユダヤ人は待望していたのです。しかし、1章21節が示すように、預言されている神様のご計画に基づくメシアは「罪から救う方」だとはっきり天使は告げています。それは、メシアは単なる政治的救世主ではないというメッセージです。そしてイエス様の公的生涯においても、ご自分が罪を赦す権威があるとされ(マタイ9章2節 中風の人の癒し)、ご自分が死ぬ目的は多くの人の「罪を赦すため」流される血である(マタイ26章28節)と最後の晩餐の時、ぶどう酒をとって説明されました。エペソの信徒へ手紙1章7節「わたしたちは、この御子の内にあって御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」とあるように、この主イエス様による罪の赦しは、神様の豊かな憐みと恵みによることをクリスマス以外の時期でもいつでも覚えて感謝したいと思います。そして、もはや、イスラエルだけが神の民ではなく、イエス・キリストを信じるすべての民がこの恵みを受けられるという福音です。

 1章23節「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」はイザヤ書7章14節の預言の引用で、この預言がこのイエスの誕生で実現したとしてマタイは記しています。マタイによる福音書のスタイルは一貫して旧約聖書のメシアについての預言の箇所を引用し、それがイエス様において実現したことを述べています。マタイが指摘しているイエス様の来臨、誕生、生涯、死、復活に関しては300以上の旧約の預言が成就しているとされます。インマヌエルとは「神はわれわれと共におられる」という意味であり、これは名前というよりそのご性質や使命を表すと言えます。実際、イエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことは聖書で記されていません。イエス様が昇天される前に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と言われたように、イエス様はいつも共にいて下さる方であることをその名が示しています。「神が共におられる」ことは、旧約聖書で何度か神様が言われているメッセージでもあり、まずヤコブが2回(28:15エサウから逃げる時、46:4はエジプトへヨセフに会いに行く時)、それも人生の転換期の時、先が見えない危機的状況に独りで立ち向かわなければならない時に、神様より「わたしはあなたと共にいる。」と言われています。ヤコブの息子ヨセフも他の兄たちにエジプトに売られた時、神がともにいたから守られた(39:2.21)とあり、このように神様は共にいて導いてくださる方であることが記されています。ちなみに、このヨセフも夢で預言が示され、夢を説くことができます。

 ダビデの子孫であるヨセフがイエス様の救いの御業において、神様から人としてイエス様の父親役を任されたように、私たち一人一人も様々な形で、小さいことかもしれませんが神様の御業において共に働かせて頂く協力者として招かれていることを、本日の箇所は現代に生きる私たちへ励ましていると思います。ヨセフは、神様を信じて神様の御告げに従いました。それは、簡単なことではなかったと察します。神様の救いの業に参加させられたマリアとヨセフは、ベツレヘムまでの旅が守られ、イエス様を無事に産むことができ、ヘロデ王の魔の手からエジプトへ逃避して、ガリラヤに戻るという、幾つもの危険な旅を乗り越えられました。この体験は、二人にとって神様がともにいてくださったことの実体験だったと言えます。ヨセフもそうだったように、神様の御業に関わること、つまり神様から示された道に従って歩もうとすると、いつも喜びや楽しみの道ではなく、苦しみ、痛み、困難が伴うことのほうが多いかもしれません。それでも、神様の約束を信じて従おうとし、乗り越えられる力が与えられると信じ続けられるのは、イエス様の約束「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)という、信仰の確証によると思います。

 神様を信じるとは、神に従うことです。「いえいえ、神様、聖書にはそう書いてありますが、わたしはこれをたくないです。」と、神様の愛の戒めから離れ、自分がしたいことをするという態度を続けていますと、自分の中に二人の主人を持つような葛藤がおこります。するとさまざまな喜びは一時的で、結局自分のために生きている、もしくは人のために生きていかねばならない重荷と虚しさに行き詰ってしまうでしょう。また、教会内において、「私は教会へ行かないで、独りで神様を礼拝しお祈りします。一人で信じているので十分です。」という人がいたらどうでしょうか。神様は人を一人で生きるように造られませんでした、それでアダムにエバを創って傍につれてきたように、神様は人間を他者と関わる社会的な存在として、互いに愛し合うように人間を創られたことが、創世記の初めを読んでいてもわかるでしょう。

 ヨハネの第一の手紙1章7節に「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」と記されています。イエス様の十字架で流された血により、御父とイエス様を信じる者との関係を正しい状態に回復させられるのです。正しい状態に回復されることは、信仰によって義と認められることと言います。神様との関係の回復、和解がもたらされ、それがベースで人同士の関係の回復へとつながっていきます。ヨハネの手紙は特に、兄弟愛についての教えを記し、私たちがキリストの贖いによって罪が赦され、新しい命が与えられたものは、暗闇から光へと移され、光の中を歩む者となると記しています。イエス様が新しい戒めとして与えた「わたしがたあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」をただ聞くだけでは、その意味を知ることができないと思います。愛しにくい兄弟姉妹が目の前に置かれた時、私たちが出来ると思っていたことが出来ないと直面させられるでしょう。その時、自分は神様の憐みと恵による罪の赦しを受け、感謝してそれで終わるわけでなく、神様に従う気があるかが問われるのではないでしょうか。

 私はクリスチャンホームで育ち、神様の存在は信じていましたが、30歳になるまで神様の救いの恵みがよくわからず、よって神様に従うということが窮屈に強制的に感じ、教会でも苦手な人は避けていましたし、自分を棚にあげて他者を裁いていました。ですから教会の兄弟姉妹の方々はどれほど私に忍耐して接してくれたか、その時は気が付かなかったのです。しかし、神様の憐みと恵によりイエス様の十字架の贖いがはっきりとわかり、悔い改めて信仰の道に戻していただいて以来、今まで教会の皆さんが私に忍耐をし、愛して下さったことを感謝することが出来ました。そして、今度は自分が愛する側になろう、忍耐する側になろうと、信仰が成長させられるのにずいぶん時間がかかったものです。主のために生きるとは、神様を信じ神様に自発的に従うことだとの確信が私の中で聖霊により与えられ、たとえ、不完全ではあっても、徐々に内側が変えられていっているのは神様の恵みによります。もちろん、罪は犯しますし、失敗はたくさんしますが、そのつど悔い改めに聖霊が導き、神様に赦され、立ち直らせていただけるという恵みのサイクルの中に生きることができるのは幸いです。

 私たちは、神様が自分の人生において、どのようにヨセフのように神様のみ業の協力者として用いて下さるかはわかりません。分かることは、まずは神の家族である兄弟姉妹をキリストの愛で愛そうとすることが、神の御心にそった協力であり、それに従えるよう必要な助けを求めて祈っていきましょう。私たちをとりまく状況に様々なことがおこっても、心折れることがあっても、このインマヌエル「神がわたしたちと共におられる」で励まされます。神様がわたしたちを憐れみの心をもって、罪を赦してくださるために主イエス様をこの世に送ってくださり、その救いの御業により自分が今生かされていることを覚え、救い主イエス様の誕生を喜びつつ、この降誕節の日々を歩んでいきたいと願います。


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