聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記8章

2024-12-12 14:29:21 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇12月12日(木) 創世記8章 心に覚えて働かれる主なる神

 大洪水の水が引き、箱舟はアララト山(アララトという地方のどこかの山と考えられる)の上に止まりました。1節の「神はノアと…に御心に留め」られたと記されています。御心に留めるということは 神様が心に覚えておられる者に向かって働いておられることを意味し、同じ表現が出エジプト記2章24-25節にあり、神様がエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民の叫びを聞き、族長たちと交わした契約を思い起こされ、エジプトから救出されようと働かれる時にも記されています。

ノアは雨がやみ、水が引いてきたのを分かっても、神様の時と言葉を忍耐強く待ち、箱舟にとどまっています。神様ご自身が16節「さあ、箱舟から出なさい。」と、神様の意思に基づいて、地球規模の破滅から生き延びたノアたちに指示されました。ノアとその家族と動物たち、爬虫類等を箱舟から出させ、創造の時のように増えていくように命じられ、新しい時代の始まりが記されています。ノアは箱舟で待っている間、鳥たちを使って、水の引き具合をチェックしていたことが記されています。古代に鳥を使った方角の確認(羅針盤代わり)の航海術があったことの記録はあるそうで、ノアがそのような知恵を用いたのかもしれません。まずカラスを放ち、次に鳩を放ちました。ノアが手を伸べて鳩をつかみ、箱舟の中に戻すという描写がノアの鳩に込めた思いを感じ取れます。長期間、箱舟の中に閉じ込められたノア達がようやく箱舟から出られると、期待と希望を持って鳩を飛ばした事でしょう。3回目に鳩が戻ってこないことから 地上から水が引いて鳩が地上で生きられるようになったことを知ります。新約聖書で、イエス様が洗礼を受けられたとき、「天が裂けて、“霊“がハトのようにご自分に降って来る」(マルコ1:10)と記されていますが、鳩は聖霊を示し、ノア達にとって新しい創造の先触れであり、聖霊が現代にいきるキリスト者にとって、神の国を待ち望みつつこの世を歩む人々を導いてくださる方であることを、この箇所からも想起されます。

地上に出て、最初にノアがしたことは祭壇を造り神様に犠牲の捧げものをしたことです。旧約聖書では人間が動物の犠牲を捧げることを通して、神様との関係の修復をする道を神様は示して下さりました。そして、ノアの時もその犠牲は神様に受け入れられ、主はなだめの香りをかいで「再び大地を呪うことをしない」と言われました。そして、人の心は幼い時から悪いとしながらも、この度したように生き物をことごとく滅ぼすことは2度としないと言われました(21節)。そして自然の秩序:夕が来て朝が来る、夏が来て冬が来る(パレスチナ地方の気候は四季が日本のようにない)という自然界の秩序は、人間がどんなに悪くとも維持されるという神様の恵みを約束してくださっています(22節)。

神様は人の悪に対しては怒られ、裁かれる方でありますが、同時に人に対して忍耐され、憐れみ深く、情け深く、ご自分の民を愛される熱情の神であられることは旧約聖書を読んで知ることができます。本当は、人間が毎日洪水で滅ぼされるべく存在であるにもかかわらず、神様はご自分の創造された人間を救おうとして諦めないお方であります。この洪水の物語が指し示すことは、あらゆる動物犠牲は神をなだめることはできても、それによって人間の罪を取り去ることはできないし、何度も繰り返される必要があるという限界と、真に神をなだめることが出来、一度ですべての人の罪を取り去ることができる御子イエス・キリストの十字架の犠牲と復活による神の救いの御業を指し示しているといえるでしょう。(ローマ3:25-26参照)


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地には平和

2024-12-10 11:37:05 | 日記

 先日、韓国で戒厳令が出されましたが、折しも、日本でそれに相当しかねないと懸念される「緊急事態条項」を憲法に追加することに関連する講演が地域での勉強会として開催され、参加しました。非常にわかりやすい内容で、日本の国政を考える上で、根本的なこと、つまり国民の平和のために、そもそも平和とは何かという平和学の観点からも学ぶことができました。一人の方が「平和とは何ですか?」と先生に質問していました。「3つの暴力①直接的な暴力:戦争や暴力、②構造的暴力:弱者が強者に虐げられる経済的仕組み等、③文化的暴力:戦争等を正当化、犠牲は仕方ないとする思想 が合わさって平和の実現を妨げている。よって平和とはこの3つの暴力をなくし、お互いをケアする、助け合う、人権を尊重する社会が構築されている状態。」と答えておられました*1。

 人間のこれらの暴力を引き起こす原因は、欲であると私は思います。欲求自体が悪いという意味ではなく、人として生きる上で基本的欲求は満たされるべきであり、それが互いに尊重されるのが望ましいのですが、それを超えた「貪欲」が他者を害する悪につながるという意味です。多くの人は私を含めて自分がまず大切です。自分を大切にしようとすると、どうしても他者との利害関係が発生し、忙しくて他者のことまで手がまわらないのが現状だと思います。忙しいとは、心が亡ぶと書きますが、忙しくしていますと他者のことを気遣う余裕がなくなります。

 この平和の定義を聞いて、聖書の平和と非常に似ていると気がつきました。聖書で平和のことを「シャローム」(ヘブル語)と言います。聖書における平和とは、何かが欠如していない充足状態をさし、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解など、人間の生のある領域にわたっての真の望ましい状態を意味する語で、単に精神的な平安状態のみではなく、社会的具体性を伴う福祉状態を総括する概念を指しているそうです*2。

 イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい・」*3と教えられました。これが互いにできれば平和に繋がるのですが、机上での理想では平和は実現しません。実際、自分に余裕がない時、自分に敵対する人が目の前に置かれた時、初めて自分の力や意思で「出来ない」という限界に突き当たります。その時「人間だから仕方がない」と諦めるのではなく、どうしたらよいのでしょうか。そこで、私たちキリストを信じる者は神様に祈って助けを求めることができるのが、慰めであり、励ましです。神様を求めるきっかけは、自分で平和が作り出せない、自己中心的な自分を認め、私たち人間を創られた神様に助けを求めることからかもしれません。自分で頑張れる、自分の力(他者の力も)を信じているうちは、神の助けは必要ないからです。「私には神はいらない、神などいない!」という方には、真の神との平和がないと言えます。

 神の御子イエス様は、神に背を向け、神との間に平和がない人々との和解をもたらすために、つまり下記の「地には平和」をもたらすために神様がこの世にイエス様を送ってくださいました。イエス様を通して与えられる神様の愛と救いの現実そのものが、平和を指していることが聖書を読んでいるとわかってきます。例えば、イエス様が12年間出血が止まらない女性をいやした時*4、罪深い女性の罪を赦された時*5、彼女たちに「安心して行きなさい」と言われ、この「安心」と「平和」が同じ言葉(エイレーネ:ギリシャ語)なので、「平和のうちに行きなさい」とも訳せます。イエス様によって病が癒されるとその人に平和の心がもたらされ、イエス様が「あなたの罪は赦された」と赦しの宣言を与えるとその人に平和が与えられます。究極の平和は神様との平和をまず持つことであり、それがイエス様の十字架と復活の御業を通して成し遂げられました。この救いの御業を感謝し、キリストにある平和を与えられて、この困難な時代を生き、周りの人々にキリストの平和を伝えていくことが、私たちクリスチャンの使命です。それは簡単ではないです。出来ません!と叫びたくなることもあります。しかしイエス様ご自身が平和の源であり「安心して行きなさい」と言って、今も私たちを日々送り出して下さる、そのような大きな励ましと力が与えられることを信じ、地には平和がもたらされるようにと祈り続けたいと思います。

   すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

      「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。 ルカによる福音書2章13-14節

(引用 新共同訳聖書)

*1 「緊急事態条項について考える」、宇都宮大学国際学部国際学科 清水 奈名子教授、2024年12月8日、於:益子町さやど公民館より

*2 『新聖書大辞典』p1199、キリスト教新聞社、1971年、引用

*3 マタイによる福音書22章39節

*4 マルコによる福音書5章34節

*5 ルカによる福音書7章50節


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礼拝メッセージ「神は我々と共におられる」

2024-12-07 09:08:26 | 日記

聖書箇所   マタイによる福音書1章18-25節 

  本日アドベント第2主日は、マタイによる福音書一章からメッセージをさせていただきます。エル・グレコというスペインの画家がいます。彼の「受胎告知」の絵画は有名で、倉敷市の大原美術館に展示されています。その中で描かれるマリアの表情が驚きと喜びの両方を表していて、とても力強い絵画です。おそらくこの絵はルカによる福音書のマリアの応答をもとに描かれたのではないかと思います。なぜなら、マタイによる福音書のイエス様の降誕のストーリーではマリアは沈黙していて、マリアの様子が表されていないからです。マタイでは、マリアの聖霊による妊娠というショッキングな出来事にとまどい、悩んだ、いいなづけの、そして夫となるべく決意したヨセフについて記されています。マリアより妊娠を知らされて、どんなに彼は悩んだことでしょうか。ここでの「正しい人」という意味は律法を守る人ということであり、もし律法に従うと、ユダヤ社会での婚約は結婚と法的に同等の為、マリアを姦淫の罪で石打ちの刑に至らせてしまいます。ヨセフはマリアを愛していたのでそれは避けたかったのでしょう、ひそかに離縁をしようと決心したとあります。ヨセフがマリアを妊娠させておいて離婚したとし自分が負い目を負う可能性をとろうとしても、マリアはシングルマザーとして生きなければならないですし、いずれにしても解決策のない行き止まり状態にヨセフは苦悩したに違いないのです。

  そんな苦悩しているヨセフに、神様は夢でみ使いにより20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われます。ヨセフは1章16節にあるようにダビデの家系ですが、ダビデの王家はユダ王国がバビロニア帝国により滅ぼされ人々がバビロンで捕囚となって以降、もはや王族ではなく、旧約聖書にも名前が記されていない一般市民へとつながっていることがマタイが記す系図によりわかります。それでも、ヨセフはダビデ家の家系であり、聖霊によって妊娠しているマリアを妻として迎えることで、イエス様は実子としてその家系に入れられました。なぜ、家系にこだわるのでしょうか。それは、旧約聖書でダビデの子孫からメシアがおこると預言されていたからであり、神様はその為にヨセフとマリア夫婦の子としてイエス様を生まれさせたのです。

イエスという名は当時よくある名前で、ヨシュアのギリシャ語です(ヘブル語だとイエシュア、「主は救う」の意)。イエス様は、その名の意味するとおり「自分の民を罪から救う」方で、キリストとはメシヤ(救世主)のギリシャ語ですからイエス・キリストは名前と称号の組み合わせです。ユダヤ人にとってメシア救世主はダビデの家系からでる、来るべき王をさしていて、このメシアを神が送り、ご自分の民イスラエルを回復させ、国家として独立させ神の民としての栄光を回復してくれるとユダヤ人は待望していたのです。しかし、1章21節が示すように、預言されている神様のご計画に基づくメシアは「罪から救う方」だとはっきり天使は告げています。それは、メシアは単なる政治的救世主ではないというメッセージです。そしてイエス様の公的生涯においても、ご自分が罪を赦す権威があるとされ(マタイ9章2節 中風の人の癒し)、ご自分が死ぬ目的は多くの人の「罪を赦すため」流される血である(マタイ26章28節)と最後の晩餐の時、ぶどう酒をとって説明されました。エペソの信徒へ手紙1章7節「わたしたちは、この御子の内にあって御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」とあるように、この主イエス様による罪の赦しは、神様の豊かな憐みと恵みによることをクリスマス以外の時期でもいつでも覚えて感謝したいと思います。そして、もはや、イスラエルだけが神の民ではなく、イエス・キリストを信じるすべての民がこの恵みを受けられるという福音です。

 1章23節「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」はイザヤ書7章14節の預言の引用で、この預言がこのイエスの誕生で実現したとしてマタイは記しています。マタイによる福音書のスタイルは一貫して旧約聖書のメシアについての預言の箇所を引用し、それがイエス様において実現したことを述べています。マタイが指摘しているイエス様の来臨、誕生、生涯、死、復活に関しては300以上の旧約の預言が成就しているとされます。インマヌエルとは「神はわれわれと共におられる」という意味であり、これは名前というよりそのご性質や使命を表すと言えます。実際、イエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことは聖書で記されていません。イエス様が昇天される前に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と言われたように、イエス様はいつも共にいて下さる方であることをその名が示しています。「神が共におられる」ことは、旧約聖書で何度か神様が言われているメッセージでもあり、まずヤコブが2回(28:15エサウから逃げる時、46:4はエジプトへヨセフに会いに行く時)、それも人生の転換期の時、先が見えない危機的状況に独りで立ち向かわなければならない時に、神様より「わたしはあなたと共にいる。」と言われています。ヤコブの息子ヨセフも他の兄たちにエジプトに売られた時、神がともにいたから守られた(39:2.21)とあり、このように神様は共にいて導いてくださる方であることが記されています。ちなみに、このヨセフも夢で預言が示され、夢を説くことができます。

 ダビデの子孫であるヨセフがイエス様の救いの御業において、神様から人としてイエス様の父親役を任されたように、私たち一人一人も様々な形で、小さいことかもしれませんが神様の御業において共に働かせて頂く協力者として招かれていることを、本日の箇所は現代に生きる私たちへ励ましていると思います。ヨセフは、神様を信じて神様の御告げに従いました。それは、簡単なことではなかったと察します。神様の救いの業に参加させられたマリアとヨセフは、ベツレヘムまでの旅が守られ、イエス様を無事に産むことができ、ヘロデ王の魔の手からエジプトへ逃避して、ガリラヤに戻るという、幾つもの危険な旅を乗り越えられました。この体験は、二人にとって神様がともにいてくださったことの実体験だったと言えます。ヨセフもそうだったように、神様の御業に関わること、つまり神様から示された道に従って歩もうとすると、いつも喜びや楽しみの道ではなく、苦しみ、痛み、困難が伴うことのほうが多いかもしれません。それでも、神様の約束を信じて従おうとし、乗り越えられる力が与えられると信じ続けられるのは、イエス様の約束「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)という、信仰の確証によると思います。

 神様を信じるとは、神に従うことです。「いえいえ、神様、聖書にはそう書いてありますが、わたしはこれをたくないです。」と、神様の愛の戒めから離れ、自分がしたいことをするという態度を続けていますと、自分の中に二人の主人を持つような葛藤がおこります。するとさまざまな喜びは一時的で、結局自分のために生きている、もしくは人のために生きていかねばならない重荷と虚しさに行き詰ってしまうでしょう。また、教会内において、「私は教会へ行かないで、独りで神様を礼拝しお祈りします。一人で信じているので十分です。」という人がいたらどうでしょうか。神様は人を一人で生きるように造られませんでした、それでアダムにエバを創って傍につれてきたように、神様は人間を他者と関わる社会的な存在として、互いに愛し合うように人間を創られたことが、創世記の初めを読んでいてもわかるでしょう。

 ヨハネの第一の手紙1章7節に「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」と記されています。イエス様の十字架で流された血により、御父とイエス様を信じる者との関係を正しい状態に回復させられるのです。正しい状態に回復されることは、信仰によって義と認められることと言います。神様との関係の回復、和解がもたらされ、それがベースで人同士の関係の回復へとつながっていきます。ヨハネの手紙は特に、兄弟愛についての教えを記し、私たちがキリストの贖いによって罪が赦され、新しい命が与えられたものは、暗闇から光へと移され、光の中を歩む者となると記しています。イエス様が新しい戒めとして与えた「わたしがたあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」をただ聞くだけでは、その意味を知ることができないと思います。愛しにくい兄弟姉妹が目の前に置かれた時、私たちが出来ると思っていたことが出来ないと直面させられるでしょう。その時、自分は神様の憐みと恵による罪の赦しを受け、感謝してそれで終わるわけでなく、神様に従う気があるかが問われるのではないでしょうか。

 私はクリスチャンホームで育ち、神様の存在は信じていましたが、30歳になるまで神様の救いの恵みがよくわからず、よって神様に従うということが窮屈に強制的に感じ、教会でも苦手な人は避けていましたし、自分を棚にあげて他者を裁いていました。ですから教会の兄弟姉妹の方々はどれほど私に忍耐して接してくれたか、その時は気が付かなかったのです。しかし、神様の憐みと恵によりイエス様の十字架の贖いがはっきりとわかり、悔い改めて信仰の道に戻していただいて以来、今まで教会の皆さんが私に忍耐をし、愛して下さったことを感謝することが出来ました。そして、今度は自分が愛する側になろう、忍耐する側になろうと、信仰が成長させられるのにずいぶん時間がかかったものです。主のために生きるとは、神様を信じ神様に自発的に従うことだとの確信が私の中で聖霊により与えられ、たとえ、不完全ではあっても、徐々に内側が変えられていっているのは神様の恵みによります。もちろん、罪は犯しますし、失敗はたくさんしますが、そのつど悔い改めに聖霊が導き、神様に赦され、立ち直らせていただけるという恵みのサイクルの中に生きることができるのは幸いです。

 私たちは、神様が自分の人生において、どのようにヨセフのように神様のみ業の協力者として用いて下さるかはわかりません。分かることは、まずは神の家族である兄弟姉妹をキリストの愛で愛そうとすることが、神の御心にそった協力であり、それに従えるよう必要な助けを求めて祈っていきましょう。私たちをとりまく状況に様々なことがおこっても、心折れることがあっても、このインマヌエル「神がわたしたちと共におられる」で励まされます。神様がわたしたちを憐れみの心をもって、罪を赦してくださるために主イエス様をこの世に送ってくださり、その救いの御業により自分が今生かされていることを覚え、救い主イエス様の誕生を喜びつつ、この降誕節の日々を歩んでいきたいと願います。


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「レストラン」の由来:回復

2024-12-06 11:27:46 | 日記

 私たちは普段は家で料理を作って食事をしていますが、たまにレストランに行くことがあります。お客様がいらした時や、何か大きなイベントが終わったあとの「お疲れ様会」のような時に、自分たちで料理を作って後片付けをするということなしに、食事を頂きリフレッシュするという目的があります。歴史的に外食する文化は古代からあり様々な呼称はあるそうですが、「レストラン」という言葉は 18 世紀に、フランスのパリで店を出した人が看板に「胃を痛む者は誰でも私のもとに来なさい。元気にしてあげよう」と記し、スープ、鶏肉、ゆで卵などをお客に出したのが始まりだそうで、ラテン語の「レストラーレ」(以前の状態に戻す、回復する)が語源だそうです。どこかで聞いたことがあるフレーズ。さすがキリスト教文化の歴史が長いヨーロッパならでわですが、下記のイエス・キリストの言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」をもじったとされるそうです*1。

 外食であれお家ご飯であれ、食事を共にするということは喜びであり、食事をとることで心身ともに回復されます。しかし、現代は自然なままの食物を食べることが難しくなっている、つまり遺伝子組み換えをされた小麦、成長ホルモンを投与された鶏肉、大量の農薬つき果物・穀物と保存料つきの食糧が多く市場で出回り、また産地の偽造など、食の安心が危ぶまれ、それらが体内に蓄積されて健康に害を与えているでしょう。食べて「回復」どころか、健康を損なう可能性があります。利益を追求し、自然のサイクルを損なって、結局それが人間自身に帰ってくることを考えますと、これだけ進歩した科学技術と知恵をもってして、利益追求でなく自然にそった生活と経済の流れを可能にする方法を研究開発できないものかと常に思います。

 イエス様は、わたしたちが心身ともに疲れ、負のスパイラルにはまって疲弊してしまう弱さ、また他者のことより自分の利益を追求してしまう罪深さをご存じです。そこで「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いて下さっています。イエス様の所へ行くとは、イエス様を通して提供される神様の救いを信じることです。これを信じるにはまず「自分はなぜ疲れているのか?その結果どうなっているのか?」と自分自身に問うとよいでしょう。そして、神様からのメッセージが記される聖書を読んでいると、こんなに疲れ、虚しく、死んだら終わりの希望がもてない人生を送っているのは、自分が神様から離れていたからだと気が付くのではないでしょうか。もともと神様は人間を愛するために創られ、自然と調和した極めてよい状態に造られたと聖書に記されています*2。そして、人間がその神様から離れてしまうことを、聖書では「罪」と言います。神なしで自分で生きられるという高ぶり、その罪を自覚した時、それに対する救いがあるのか?と求めるなら、さらに聖書の言葉を読むと答えが示されます。「だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には、開かれる。」*3 とイエス様の言葉のとおりに聖霊の働きで信仰に導かれるからです。

 神様がわたしたちの罪を赦し、新しい命と希望を与えてくださるために御子イエス・キリストを地上に送ってくださりました。イエス様は私たちのすべての罪を負って代わりに十字架につけられて罰せられ、そのおかげですべての人の罪が赦されて、もとの状態、神様と共に信頼していられる平和な状態に回復:リストーレするようにしてくださったのです。そして、イエス様ご自身が3日後に死からよみがえられて、天に戻られたことで、キリストの救いを信じる者も死で終わるのではなく、永遠の命を与えられることが聖書に記されています。多くの疲れている人々、希望が持てない状態に悩む人々が、一時的なその場しのぎの回復ではなく、キリストを信じて休みを得、さらに魂の平安を得られる、つまり真の回復が与えられるよう祈り続けたいと願います。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 マタイによる福音書11章28-30節

 

*1「アレテイアー釈義と黙想 ヤコブの手紙 ペトロの手紙1,2 ヨハネの手紙1,2,3 ユダの手紙 ヨハネの黙示録」、日本キリスト教団出版局、2002年、184ページ引用

*2 創世記1章31節

*3 ルカによる福音書11章10節


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