四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

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2010年08月10日 16時02分59秒 | 日毎起こること
世界広しといえどもファシストの国にもハマコー先生のような政治家は生まれない。きっとヒットラーにも尊敬されたであろう。


wiki浜田幸一

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日本の政治家
浜田 幸一
はまだ こういち
生年月日 1928年9月5日(81歳)
出生地 千葉県富津市
出身校 日本大学農獣医学部中途退学
現職 政治活動家
所属政党 自由民主党
親族 浜田靖一(子)
公式サイト 浜田幸一オフィシャルブログ「このままじゃいかんのだよ!!」
衆議院議員
選挙区 千葉県第3区
当選回数 7回
任期 1969年 - 1993年
表・話・編・歴


浜田 幸一(はまだ こういち、1928年(昭和3年)9月5日 - )とは、日本の元政治家であり、タレントである。株式会社ヤマト名誉顧問[1]。目次 [非表示]
1 人物概要
2 経歴
2.1 少年期
2.2 政治活動
2.3 政界引退後
3 逸話
3.1 「元ヤクザ」
3.2 ハマコーの武功
3.3 ラスベガス事件
3.4 法相殴打事件
3.5 「宮本顕治人殺し」発言
3.6 メディア出演
3.7 その他の逸話
4 最近の発言
5 人物
6 家族
7 語録
8 著書
9 出演番組
9.1 ドラマ
9.2 バラエティなど
10 出演CM
11 音楽
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク

人物概要

政治家としては、自由民主党の衆議院議員として当選は通算7回に及び、衆議院予算委員長、自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、閣僚経験は得られないまま1993年(平成5年)に政界を引退した。

「ハマコー」との愛称で知られ、また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」との異名をもつ。現在は「政治活動家」と自称しているほか、テレビ番組 『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)では、「悪党党幹事長」を名乗っている。
経歴
少年期

1928年(昭和3年)、千葉県富津市出身。父は青堀町の大地主の家に生まれ育ち、町の助役を務めるほどの名士だったにもかかわらず、バクチにのめりこみ、一家の財を失ってしまった。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという。[2]

1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど太平洋戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として木更津航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた。[3]

中学3年のときに茨城県土浦の海軍航空隊に赴き海軍予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している。[4]

1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の木更津航空廠で玉音放送を聞くこととなった。ちょうどこの頃に兄が戦病死。[5]

それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った。[6]

青年団活動を行っており、竹下登や野中広務と知り合う[7]。
政治活動

富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙で千葉3区より自由民主党から初当選し、川島派に加わった。以後、通算当選7回。

1973年には中川一郎・渡辺美智雄・石原慎太郎らと共に民族主義右派の青嵐会を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた(後述)。

1993年7月に息子である浜田靖一に地盤を譲り政界を引退した。当選7回を数えたが、閣僚への就任は無かった。
政界引退後

議員引退後の1993年12月に出版された著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)は、発行部数168万部(1995年4月現在)のミリオンセラーとなった。同著では自分自身をその中の1人として自省している。またタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に登場。1994年には連続テレビドラマ『お玉・幸造夫婦です』で、八千草薫と夫婦役を演じた。現在は主に政治を話題としたバラエティ番組に出演し、歯に衣着せぬキャラクターには一定の人気がある。

2007年の第21回参議院議員通常選挙では古巣の自由民主党の選挙用テレビコマーシャルに出演。

2010年1月21日、アメーバブログにてオフィシャルブログを開設した。同年1月25日にはtwitterのアカウントを取得した。
逸話
「元ヤクザ」

テレビ等のメディアにおいて「千葉でヤクザをしていた」と公言している。自身の著書において、第二次世界大戦後、法律の枠外に置かれた在日朝鮮人の「不良行為」に対して我慢がならず、現場を見つけては撃退するなど暴れていた、と記している。

傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「木更津のダニ」との悪名をとった(「町のダニ」とも)。この渾名は当時(1951年)の地元の新聞記事でも用いられている。24歳のころケンカに巻き込まれ、相手を刺してしまい、『日雇い人夫浜田幸一』との見出しで報じられた。この時、浜田の母が、木更津で一番有名な弁護士を用立て息子を助けた。

自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団稲川会初代会長の稲川聖城である。上記の事件で懲役1年の実刑判決を受け服役、出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川組に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。後年『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。

児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員と千葉県議会議員を経て、衆議院議員選挙に挑戦。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一や町井久之が後援者に加わり、依然としてかつて所属していた組の支援も受けていた。

共産党の議員に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」と述べている。

また、政治学者の高畠通敏は、1980年代半ばのフィールドワークにおいて、当初はヤクザ上がりの政治家だと思っていたところ、「地元では、浜幸を"現役"ヤクザの一員として誰も怪しまない」ことに驚いたという[8]。
ハマコーの武功

「四十日抗争」、「大平正芳」、および「福田赳夫」も参照

1979年に、自民党史上最大の危機と言われた四十日抗争で、党内の反主流派が築いたバリケードを強行突破。両院議員総会の開催を導いた。

バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるってことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」という名演説を張る。実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿だった。

浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけた上でのことだったが、「NHKに出ると必ずこの時の映像が流れる」と本人も苦笑していた。
ラスベガス事件

1980年3月6日に発覚。1973年11月に「ラスベガスのカジノで4億6000万程度を一晩ですってしまった」とされる事件。

当然そんな大金を浜田が用意できるわけはなく、当時浜田が不動産関係で世話になっていた小佐野賢治が代わりに用立てて支払った。ところが、その金が実はロッキードから小佐野に流れた金であるとの議会証言がアメリカで行われ大騒ぎになった。浜田も言うとおり、ロッキード事件とは直接関係はなかった。しかし、届け出無しで外国に日本円を持ち出して両替した外国為替法違反の嫌疑なども報じられたため(発覚時は公訴時効が成立)、この年に行われた総選挙へ自民党の公認が得られなかった。自ら出馬を見送り収入の無くなった浜田は小佐野の不動産会社で真面目に働き、土地の売買等を通じて数年かけて借金を全額小佐野に返済したと語っている。

なぜ4億6000万という金額になったのか、一体何をしたのかを、テレビ番組で平沢勝栄に問われ、「一度失敗すると500万失くす」ゲームで損失が膨らんだと答えた。また、当時のことを振り返り、「ラスベガス大学に留学していた」と自嘲し、笑いをさそうことがある。

現地の日本向け旅行社ではガイドが浜田が大損をしたホテル(サンズホテル)の前で「あれがかのハマコーさんが4億5000万円をすったホテルです」とアナウンスをしていた。本人もこのことをネタにしている。
法相殴打事件

「自由民主党本部放火襲撃事件」も参照

1984年9月19日、自由民主党本部が中核派に放火され炎上した。浜田はいち早く駆けつけ消火にあたった。そこへ当時の法務大臣であった住栄作が酔っ払った状態で現れ、「マッチポンプな真似しやがって」と発言した。それに怒りを感じた浜田は、住を殴りつけてしまった。後に住は発言が不適当だったことを認め、浜田に謝罪した。

1984年9月20日、日本テレビ「ワイドショー」において、浜田は「(自民党本部放火事件の)責任はだれにあるというかというと、泳がしていた我々にあると思いますよ。『中核派』を泳がしていた。やっぱり法律違反で破壊するものを泳がした。そういう一つの政策の誤りがあるんじゃないですか」と「過激派の泳がせ政策」を認めている。

1984年11月27日には、中核派によって木更津市の事務所に時限爆弾を仕掛けられるなど、激しい攻撃も受けた。
「宮本顕治人殺し」発言

「日本共産党査問リンチ事件」も参照

1988年2月6日、衆院予算委員会で質疑に立った日本共産党の正森成二議員が、「過激派への政府の対応は、泳がせ政策ではないか」との趣旨の発言をし、竹下登首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁したことに対し、正森が「浜田委員長も過去、ワイドショーで共産党と同じ意見を述べていた」と発言した(参照:#法相殴打事件)。当時の衆院予算委員長だった浜田は、共産党と自分の意見の違いを見せようと思い咄嗟に「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と、過激派と宮本率いる共産党をあたかも同一視しようとしたため、正森は激昂したが、このとき浜田は正森の言う「泳がせ政策」発言を肯定したため、正森は対決を避け、他の質問に移った。

その後終了間際、正森が円ドル為替問題の質疑中であったが、唐突に浜田が
「昭和八年十二月二十四日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね」
「私が言っているのは、ミヤザワケンジ君(宮本顕治の誤り)が人を殺したと言っただけじゃないですか。」(参照:日本共産党査問リンチ事件)

と発言。正森が発言の撤回を求めて抗議し、委員会室は一時騒然となった。

NHKでこの審議の模様が生中継されており、自分の意見と共産党の意見は違うと印象づけるための、中継放送の終了時間を逆算した確信的発言であると浜田本人は述べている。

この時、浜田を予算委員長に推薦した金丸夫人は「バカ!あんたなんか死んじゃえばいいんだ」と号泣した。浜田は、自分の首と議事録削除阻止を狙っていたが、結局委員長を辞任した。NHKはこの模様を時間の関係上途中で打ち切って「大草原の小さな家」を再放送したことに対し、同局には苦情の電話が殺到した。

後に、正森議員と国会の廊下ですれ違った際に「俺の首を獲りやがって」と発言したが目は笑っていたという。

第112回国会 予算委員会 第7号(63. 2. 6)議事録
メディア出演

議員引退後はタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に出演。連続ドラマ『お玉・幸造夫婦です』では、その素人演技と内容の突飛さ(元相撲取りという設定)が失笑を買い、今もスカイパーフェクTV!で再放送されるほどのカルト的な人気作品となった。この頃には「かわいい」として女子高生からの人気をも集めた[9]。

現在もマルチに活躍中。だが、発言など粗暴なのは相変わらずであり、番組収録中に激昂して途中退席することもしばしばある。
2004年3月27日に放送された『たかじんのそこまで言って委員会 春の芸能界スペシャル』の中で、俳優の今井雅之が同席していたイエローキャブの野田義治社長に対して「お前らみたいなのがいるから芸能界が低く見られるんじゃ!」と激昂し、それをみた浜田が「何を偉そうに目上の人に対してお前は言ってるんだ!」と怒り、途中退席する一幕があった。
郵政民営化法案の採決を棄権した参議院議員大仁田厚が、出演した『ワイド!スクランブル』にて「僕らは小泉さんの子供です。親を裏切れなかったんですよ!」と大声を発したため、浜田が「お前、何俺にどなってんだよ」と大仁田を一喝。大仁田は先程のテンションから一転「すいません」と謝った。
その他の逸話
選挙区で浜田の出身地である富津市の二代目市長だった白井長治はハマコー嫌いで知られていた。県連会長や自治体の首長が議員よりチカラを持っているのが珍しくない関東で白井の豪腕ぶりも有名だった。講談社の月刊誌「現代」(1981年2月号)の取材で白井はラーメンの汁がついたワイシャツのままインタビューをうけている。記者が「浜田さんは何で選挙に強いんですか?」と聞くと白井は「コレに決まってんだろう」と太い親指と人差し指で輪を作ってみせた。「議員も議員なら市長も市長だ」とこのインタビューはまとめている。
選挙の際の自己紹介は、「浜」で働き、「田」で働き、「幸」せ、「一」番であった。また、田んぼで農作業をしている有権者のそばまで行き、泥で汚れたズボンを車の中で履き替えていたこともあるという。
県議会議員時代に小佐野賢治と出会い、以後は不動産取引で大もうけした。昭和44年の衆議院議員選挙で初当選した時、出馬当初はほとんど泡沫候補扱いされていたが、大規模災害時に、大雨などにも関わらず浜田一人で各家庭にローソクを配るなど、日頃の行動が実を結んだ当選であると自称している。
当時角栄が属していた佐藤栄作の佐藤派入りを希望するも、同期当選の佐藤派議員数名から「ヤクザのハマコーが佐藤派に入るのなら、派閥から出て行く」という声が上がり、断念。角栄の命を受けて、川島正次郎の許に身を寄せる。川島と角栄の他、中川一郎、金丸信に師事した。
元々青嵐会は、田中角栄内閣による中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国との間の所謂「日中国交正常化」に伴う、同国と対立している中華民国との国交断絶に反発した若手議員による政策集団、という色彩が濃厚であったが、浜田はその中でも特に強硬な親中華民国、反中華人民共和国派議員であった。後の福田赳夫内閣における日中平和友好条約承認審議を巡って、青嵐会の取った抵抗は単に本会議の欠席という中途半端なものであった。しかし浜田と中山正暉だけはあえて出席し、堂々と反対票を投じている。この時浜田は「青嵐会が中華民国に対して、信義を重んじる世界の人々に対して、公約を実行できなかったことを顔向けできないことだと思っている」と語った。
さらに青嵐会は田中に対する反発から昭和49年の参議院議員選挙において、既に自民現職が2人もいる北海道選挙区(定数4)に「青嵐会公認」と称し無所属の高橋辰夫を立てる。この時浜田も堂々と高橋の応援に駆けつけている。高橋は落選したものの意外に票を取り、結果現職2人も共倒れとなった。非公認候補の擁立、応援はれっきとした党規違反であり、ましてや北海道の全議席を失なった責任は重大であった。しかしなぜか浜田含む青嵐会への処分は不問とされた。
自著『弾丸なき抗争』で、「田中角栄、三木武夫、福田赳夫の3人の権力亡者は今すぐ死ね」と言い切っている。しかしさすがに田中は度量が広く、その出版記念パーティーで「浜田君に死んじゃえと言われた田中角栄です」と挨拶して会場の大爆笑を誘った。
田中は浜田のこうした話術を評価しており、石破茂は、「話し方はハマコーの演説を聞いて勉強しろ!」という田中の言葉を紹介している[10]。
竹下登が予算委員会で英語を引用して「There is no rule without exceptions.(例外のない規則はない)」と答弁したところ、予算委員長の浜田は「総理、ここは日本の国会ですから日本語で答弁してください」と注意した。
国会内で英字新聞を読んでいた人物に対し、「日本の国会議員なら日本語の新聞を読みなさい」と言ったところ、その人物が「英語かぶれ」で有名な宮沢喜一だった。議員歴、年齢共に先輩である宮澤に対し、さすがの浜田も恐縮していると、宮澤は「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞くらいお読みなさい」(英語の理解と広い国際視野の獲得を指すものとみられる)と返した。この言葉に浜田は「自分では勉強できないと思ったので息子(靖一)を留学させて、勉強させた。」と語る。
三木武夫に向かって「話し方やら性格やら、私は三木さん、あなたが大嫌いだ」と言ったという話も残っている。
森喜朗の政治姿勢を厳しく批判することが多く、テレビタックルでは内閣総理大臣だった森のことを「あんなの」と呼び、共演者の笑いを誘った。また、自民党の幹事長会に出た現職首相の森に「森、てめぇこのやろうぶっ飛ばすぞ」と言い、それを止めに入った古賀誠幹事長に「調子にのってんじゃねえぞ」と言った。森は苦笑いをしていた。
東京湾アクアライン建設の立役者。神奈川県川崎市と千葉県木更津市をつなぐ高速道路の建設を推進した。建設費は1kmあたり1000億円で、1兆5000億円かかったという(15km)。川崎市から海ほたるまでは海中道路で、海ほたるから木更津市は海上道路となる。通行料が高いことや、通行する自動車数が予測よりも少なく、赤字となっており、国会などでも問題となった。この点を指摘されると「私の責任です」と言い、続けて「あと100年後したら、必ずこの事業の意義が分かる時がくる」と述べた。
自らの過去の行動を顧みて、息子だけは立派に育てて社会に恩返しをするとの信念から、息子・浜田靖一を幼少の頃から渡辺美智雄の家に預ける。1993年7月、靖一に地盤を譲り政界引退。羽田孜から新党への誘いを受けていたが、これを固辞。本人は後年インタビューで「二世議員なんてもってのほかだと思っていたから、息子が政治家を目指すにしても地盤を継がせる気はなかった。でも自分の意に沿わない後継者が選ばれるのは嫌でしょうと説得された」と語っている。靖一の選挙に応援することはほとんどなかったが、2009年の衆議院選挙で自民党候補が軒並み苦戦し、靖一も大臣の職にあったため地元で十分な運動が出来なかったピンチに陥った際には応援に立ち、駅前で涙ながらに土下座し 「どうか、どうか、靖一を勝たせてやって下さい」 と叫んでいた。[11]
社会党議員に対し「黙れ!強姦野郎!」「強姦をやるのとはわけが違うんだぞ!」と野次を飛ばし問題化した事がある。しかし結果的に浜田自身は何の処分も受けず、逆にその社会党議員(安宅常彦)の方が次期総選挙で党公認を貰えず引退に追い込まれている。
1989年の社会党のマドンナブーム直後に「社会党は北朝鮮から金を貰っている」と発言した。
1993年の政治改革関連法案の是非を決める総務会でピケを張り開会を妨害しようとする若手議員に対しわざと躓き「人殺しが。」と絶叫するシーンは今でもテレビ番組でよく放映されている。
過去の経歴や、その口の悪さのために、知名度が高く政治家歴が長かったものの大臣職に就くことはなかった。唯一、安倍晋太郎から「自分が首相になったら大臣に登用する」と言われたが、結局安倍は首相の地位を目前にして世を去ることになった。
最近の発言
中川昭一
自由民主党国会対策委員会委員から要請され、師である中川一郎の長男中川昭一(当時経済産業大臣)に対し、酒癖の悪さを厳しく叱咤した(前述『弾丸なき抗争』によると中川一郎も前後不覚になるまで酔い潰れるのが常であり、浜田はそれを「政治家として敵に弱みを見せる失態」と批判している。昭一に父と同じ轍を踏んで欲しくないからこそ、あえて浜田は苦言を呈したのである[要出典]。またこのためか、浜田自身は酒は一切飲まないとも書いている)。
靖国神社問題
靖国神社問題に絡む富田メモの報道は、天皇制を廃止して大統領制成立を目指す勢力の陰謀であると、『ビートたけしのTVタックル』において主張。
ビートたけしのTVタックル
『TVタックル』の番組中、「22年間議員をやって、天皇陛下から勲章を貰っていないのは自分だけ。それは自分の言う事が常に本当のことしか言わないから」と発言している。
同番組でいじめ自殺問題が取り沙汰された際は、日本教職員組合及び日教組からの支持を得ていた旧日本社会党の、教育界における影響力の弊害だと主張する。いじめ自殺多発の原因は国内の革新勢力にありと発言(滝川市立江部乙小学校いじめ自殺事件、中山成彬も参照)。
2003年の自民党役員人事における安倍晋三の幹事長就任を事前に『TVタックル』で予想していた(他の多くの識者や政治家は山崎拓幹事長の留任を有力視していた)。
郵政民営化
2005年の郵政民営化騒動の際にも『TVタックル』に登場し、「自由民主党の総裁が、日本の総理大臣が、やろうとすることに反対するなら自民党から出て行け」と反対派議員を叱責した。小泉首相が衆議院解散を示唆し始めたころ、民営化反対の自民党議員たちに対し、「(衆議院の)解散もいやだ、自民党にも残りたい、では筋が通らない」と述べていた。
天国と地獄のアクアライン構想
2007年の誕生日の民放のインタビューに答え、「父はおそらく地獄にいるが、母は天国へいると思う。天国と地獄を結ぶアクアラインはまだ出来ていないと聞いている。母の肩を叩くために、今度生まれてきたら天国と地獄をつなぐアクアラインを造りたい。通行料はただにしたい」と発言した。
後期高齢者医療制度
2008年には同年6月8日投開票の沖縄県県議会選挙に合わせた自由民主党のテレビコマーシャルに出演、自らも対象(79歳)となっている後期高齢者医療制度についてアピールした。
少子化問題
2008年9月1日には映画「幸せの1ページ」のトークショーの場で「幸せの秘訣は?」との質問に「子供を3人以上産まない女は国家に必要とされていない」と答えた。この発言に対し、同席したゲストの川島なお美は表情を強張らせ、自身のブログで浜田の発言を批判した。また、「幸と1のタイトルつながりで呼ばれたため最初は断ったんだよ」「若者たちに明確に言っておきたい。求めない者、努力しない者には幸せは与えられない。自分の歩く道がどんなにつらくても、すべてを達成することで幸せは訪れる。だから働かない者に幸せはない。義務を果たしてこそ名誉があり、名誉を重んじて祖国があるんだ」と発言している。
人物

闇市で青春時代を過ごしたため親しみがあるのか、度々私服姿で船橋駅周辺や津田沼駅周辺をブラつく姿が目撃される。趣味として囲碁を嗜んでおり、津田沼囲碁クラブ[12](千葉工業大学向いのモリシアビルディング7F)の常連となっている。また、ブログやTwitterに挑戦したり、iPhoneを購入するなど、最新の技術やトレンドに対する関心も強い[13]。自由民主党本部が第22回参議院議員通常選挙立候補予定者を対象としたツイッター講座を開催したと知ると、「あえて言おう、遅すぎる!!」[14]と苦言を呈し「すぐやれ!! みんなやれ!! なう!!」[14]と叱咤している。
家族

実弟の浜田正雄は京葉銀行頭取を務めた。息子の浜田靖一は後継者として衆議院議員となり、麻生内閣では防衛大臣に就任した。
語録
「自民党の終わりは日本の終わり」
「日米安保なくして日本の繁栄はない」
「これから大増税時代が来る」 
「自民党は可愛い子供たちの時代のためにあるんだ」
「平和は願っているだけではやってこない」
著書
弾丸なき抗争―権謀術数に生きる男の戦い(1983年1月)  ISBN 4584005028
不肖ハマコーがゆく―一所懸命に闘い、一所懸命に死ぬ(1989年7月) ISBN 4890367691
実力者に問う!!―これからの日本をどうする(1990年11月) ISBN 4062051877
日本をダメにした九人の政治家(1993年12月) ISBN 406206779X
永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史(1994年2月) ISBN 406256033X
ハマコーの世の中間違っとる(1994年4月) ISBN 4643940352
ハマコーの証人諫問―国民のために代表質問いたします(1994年7月) ISBN 4334970907
ハマコーの何度言ったらわかるんだ!(1995年5月) ISBN 4643950382
たまには誉めてやる これからの18人―ハマコーの政治家“私”観(1995年6月) ISBN 4331504921
ハマコーの非常事態宣言(1995年7月) ISBN 4391117622
新版 日本をダメにした九人の政治家(1995年10月) ISBN 4062561190
みっともない「生き方」はするな!―ハマコー、この“破天荒人生”に知恵あり(1996年3月) ISBN 4837916317
予言集(1996年6月) ISBN 4643960590
石原慎太郎くんへキミは「NO」と言えない(1999年6月) ISBN 482110671X
日本を救う9人の政治家とバカ1人(2001年7月) ISBN 4575292524
お願いだから、わかって下さい。国会というところ…(2002年4月) ISBN 4591072118
ハマコーだう!ツイッターの言葉力(2010年6月) ISBN 9784062162661
出演番組
ドラマ
お玉・幸造夫婦です(1994年 ytv) - 浜口幸造 役
車椅子の弁護士・水島威(1)(1996年 テレビ朝日) - 大沢良 役
新・科捜研の女 第5シリーズ 第1話(2004年 テレビ朝日) - 笹山 役
バラエティなど
森田一義アワー 笑っていいとも!(2002年4月~9月、フジテレビ)
ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日)
公式には2008年3月、それまでの同志に対して罵詈雑言を浴びせたことで降板となったとされている。その後スタジオ収録には復帰していない。2009年7月20日放送分で、VTR出演ではあるが久々に登場し、番組20周年に対するコメントを寄せている。
たかじんのそこまで言って委員会(ytv)
爆笑問題&日本国民のセンセイ教えて下さい!(テレビ朝日)
モーニングショー
いきなり結婚生活(テレビ東京)
ライオンのごきげんよう(フジテレビ)
太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。(日本テレビ)
乱入というかたちで不定期に登場していたが、2010年2月以降は特別企画が増えたため、ほぼレギュラーとなっている。
ハマコーと氣志團翔の木更津だう!(フジテレビONE)2010年6月22日~
出演CM
道三めん 新生タイプ すごいやつ
サッポロビール サッポロ生黒ラベル(2002年)
自由民主党 長寿医療制度編(2007年)
音楽
浜博也「男の浪漫」(1994年、日本クラウン) - 作詞と台詞を担当
脚注[ヘルプ]

^ 名誉顧問になった だう!|浜田幸一オフィシャルブログ「このままじゃいかんのだよ!!」
^ グレートマザー物語
^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.86-87 〔ISBN 406256033x〕
^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.88-89 〔ISBN 406256033x〕
^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.90,92 〔ISBN 406256033x〕
^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.95 〔ISBN 406256033x〕
^ 魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社
^ 高畠通敏『地方の王国』岩波同時代ライブラリー、1997年、69頁
^ 『何の因果で』 P.19 - ナンシー関 [ISBN 4041986052]
^ 人前で緊張しない話し方? 石破茂オフィシャルブログ 2009年2月20日
^ 読売新聞2009年8月25日
^ 津田沼囲碁公式ホームページ
^ 「『つぶやきは秘書のやったことです』――81歳『ハマコー』ツイッター大人気」『「つぶやきは秘書のやったことです」 81歳「ハマコー」ツイッター大人気 (1/2) : J-CASTニュース』ジェイ・キャスト、2010年2月9日。
^ a b 浜田幸一『Twitter / 浜田幸一: 先週、自民党次期参院選候補者対象に、第一回ツイッター ...』2010年2月9日。
関連項目
石井準一
浜田靖一
自由民主党本部放火襲撃事件
四十日抗争
日本をダメにした九人の政治家
外部リンク
ハマコーのブログ このままじゃいかんのだよ!! - ブログ
浜田幸一 (555hamako) - Twitter
カテゴリ: 現在進行 | 出典を必要とする記事/2009年10月 | 日本のタレント | 日本の政治評論家 | 衆議院議員 | 自由民主党の国会議員 | 千葉県選出の国会議員 | 千葉県の地方議会議員 | 日本の反共主義者 | 千葉県出身の人物 | 1928年生 | 存命人物
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最終更新 2010年8月10日 (火) 06:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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