携帯電話を持っている人たちは数百人の友達とつながっているというが、本当のところはどうなのだろうか?
他人は病気と借金をしている人からは遠ざかるという。つまり病気と借金をしていると他人は遠ざかり自らは孤独になっていく。
病気をしていても借金をしていてもそれに対応してくれるのが友達というものである。
つまり700人の携帯友達は友達ではなかったということになる。
多くの友達をもつよりも一人の友達を見つけることの方が難しい。
君がどんな立場であっても支えてくれる恋人さえも見つけることは難しいであろう。
いやいや家族でさえもがもはや真に家族と呼べるものでは無くなっている。
芸能人の浅はかな生き方、愛情の乏しい自分かってな生き方に他人への愛はないのだが、人々はそのような芸能人に興味をもつらしい。彼らや彼女たちは自分自身と何の関係もないはずである。
一体この世の中人間の数だけ増え続けても人間関係は希薄になるだけである。
どんなに立派な家を建てようと、どんなに素晴らしいといえる自動車に乗っていようと、たとえ遠くの星を目指そうと結局は人間の幸福につながることはないであろう。
莫迦な宇宙飛行士と呼ばれる山崎直子が日本人最後のスペースシャトル搭乗者であっても、それで人間にもたらすものはなんであろうか?
何時までも一人でポッカリと宇宙に漂いながら人生を満喫できるであろうか?
既に地上でさえ住みにくいところとなっているが、宇宙などというところはもっと薄情である。
短い滞在期間でことがすまされるから英雄気取りでいられるが、今苦悩する人々に300kmの上空のことは生命とのつながりはない。
ブーダンの人々の95%は幸福を感じると言う。
トルストイは大地とともに生きる人々を主題に扱う。
アンナ・カレーニナの中でも終局は土地を耕す人々がもっとも人間としての絆を持ち得るという。
言うのではなく、その描写の中に人間相互の生命が描写されていくのである。
鍬や鋤を持つ農民、昔ながらの生き方を守ることによって人は土の中のミミズがいとおしくなるように、相互の人間関係がいとおしくなるのである。トラクターを使い大規模な農場軽々からは淡々とした儲け主義がはびこるだけである。
なぜ、人は激しい競争で人を蹴落とそうとするのであろうか?
コンペティション(競争)とは、共に歩むという意味があるそうだ。
結局あの世にいくということを考え、どれほど現世のこの世に無限を感じようともあの世の方が永遠に成っている。
しかし、この世の中の人々の愛や慈悲こそがもっとも永遠を表していることを感じないだろうか?
感じない人々は芸術を拝むことである。
放蕩を戒めることも無く、無理を強いることは、人々を破滅へと導くが、どのような人間にも両親というものがある。
親身になる。親という時はどういう意味を持つか?
親→会意兼形声。辛シンは、はだ身を刺す鋭いナイフを描いた象形文字。親の左側は薪シンの原字で、木をナイフで切ったなま木。親はそれを音符とし、見を加えた字で、ナイフで身を切るように身近に接して見ていること。じかに刺激をうける近しい間がらの意。