国鉄天北線が廃止になって相当の年月が経過した。かつてはここが本線だったのだ。
日露戦争に勝利して、北緯50度が国境線となり、稚内~大泊間に連絡船が就航していた当時、
ここには急行が走り、樺太に急ぐ賓客が特別室でもてなしを受けていたなんて。
今では想像もつかない。すでに鉄路は取り払われ、過去のよすがを偲ぶものは皆無に近い。
でも旧・小石駅にははっきりした記憶がある。
かつて横光は「沿線の小駅は小石のように黙殺された」と書いたが、彼はきっと
「小石」駅が実在するとは知らなかったのだろう。
ともあれ、同線の「小石~曲淵」両駅の駅間距離が20数キロにおよび、
国内トップクラスであったことを、およそ鉄道ファンであれば知らぬはずはない。
たしか25年ほど前の、晩秋か初冬のある日、天北線の始発に音威子府から乗った。
当然5時台。積雪はゼロ。乗客は7~8人だったか。
ところが1時間ほど走って急な登りにかかったところで、突然列車(ディーゼルカー)が停止した。
私は最前部にいて、若い運転士と本部との無線のやりとりを聞いていた。
「いやあ、落ち葉ですべって、これ以上走れないんです」
「よしわかった。救援を出すから停止のまま待つように」
だいぶ長く感じられたが、実際には1時間弱で一両の列車が到着し、後部に連結。
やってきた大ベテランとおぼしき運転士は、「おい、替われ、ここは若干テクニックがいる。
原因は軽すぎることだから二両にした。まあ見とれ」と言うなり発車した。
時速5キロくらいか、ほんとに歩くようなスピードで前進させた。
「いいか、絶対止まるなよ。どんなに遅くても止めなければなんとかなる」
落ち葉の油ですべるのが私にもわかった。車輪が時々から回りする。
それでも30分ほどかけて一番の難所を乗り切ったところで、
「よし、これであとはいけるだろう」と、席を元の運転士に戻した。
分水嶺を越えたら、下りは快調そのもの。1時間半遅れで無事終点まで到着。
このドラマこそ「小石~曲淵」間で起こったことなのだった。
今は代替バスが走っているらしいが、こんな山中は通らず、別の開けた道を快走しているとか。
明治末~大正期には唯一の鉄路だったという記憶は、遠いかなたに消えてしまった。
最新の画像[もっと見る]
- 調所広丈に会いたい 4年前
- ラジオ体操第三の謎(続) 5年前
- 骨董市に行きたい2 6年前
- デジタル遺品について 6年前
- 林竹治郎に会いたい 7年前
- 徳田球一に会いたい 7年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます