日本天文学会の日本天文遺産にも認定されている福島県会津若松市にある藩校日新館の天文台跡。この種の遺跡としては珍しい存在だ。これは2012年8月に訪れた折の写真である。浅草には幕府天文方の観測施設があったが、それもこうした築山の上にあったことが浮世絵に描かれている。それもこんな感じだったのだろうと思わせる。会津若松市が設置した看板(写真参照)によれば、規模が半分になったとのことだから、往時のままなら確かに観測装置も置けたような気がする。
ところで、最近、東洋文庫にある「日本教育史1,2」というのを見つけた。そこに会津藩の日新館について載っていた。下記のような内容である。
会津藩日新館は、寛文の初年(*1)、藩祖松平正之(*2)が、稽古堂を建てしに起因し、天明八年(*3)、容頌(かたのぶ)が、大に土木の功を起し、黌舎を改造せしに至りて、始て日新を持って館に名づけたり。
初め正之は、山崎闇斎(*4)、吉川惟足(*5)を聘し、神道及朱学を尊信しければ、一藩之を守りて、終始変ぜず、歌は、二条家の法に遵ひ、神道には、口訣(くけつ)、伝授等の事あり。
また洋学、医学、算術、筆道、礼式、兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、柔術、游泳、居合、薙刀の類ありて、凡そ士族たる者は、十歳に至れば、必ず此に就きて、文武の[学]を兼習せしむ。
其文学の等級には、生徒を四等に分ちて、初て学に就く者を四等生とし、孝経、小学、四書、五経の素読を試みて、三等とし、之に少しく講義を加へて、二等とす。
三等を三百石以下の格とし、二等を三百石以上の格とし、並に其禄を有する者の、必ず修むべきの課とせり。
更に唐本にて素読を試み、且講義を雑(まじ)へて一等とし、始て至善堂に入ることを得。
至善堂は、大学と称し、又講釈所と称し、其生徒を大学生と称す。
其生徒の、此に入るは、通例十六歳なれども、若し其業、既に此度に進める時は、年齢、未だ合格せずと雖も、亦此に入ることを得るなり。
此堂に上る者は、聴講、輪講、賦詩、作文に従事し、弓馬(ゆんば)、槍刀の内にて、必ず其二種を学ばしめ、其余の武芸は、一に各人の志向に任す。而して郊野にて隊を結び、槍刀を角して、衆人をして縦覧せしめ、以て其業を奨励する事あり。
さて其退学の期は、長子は、二十五歳とし、二三男は、二十一歳としたれど、若し文武の芸、未だ合格に至らざれば、退学を許さず。
又其年齢、未だ定格に満たざるも、芸業既に達せる者は、自由に退学することを得るなり。
此藩にては、数年間、学校闕席なき者を賞賜し、其文武の業の、家督を相続すべき度に至らざる者に、小普請入りを命じ、之に禄悦を課し、或は禄税を課し、或は禄秩を減ず。
而して文学の、大学生に昇りたる者は、武術は、未だ合格に至らずとも、此事なく、武術の、数種の免許を得たる者も、文学合格せずとも、股此事なし。
又平民の子弟は、藩立校に入ることを禁じたれども、学業進歩の者には、試験の上に、賞与する事あり。
此藩には、此学校の外に、藩地に南学館ありて、友善社と称し、北学館ありて、青藍社と称す。倶に独礼以下の子弟を教ふる所なり。
(*1)寛文の初年-1661年、将軍は徳川家綱
(*2)松平正之-保科正之(ほしな まさゆき、1611~1672)。会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。将軍の「ご落胤」でもある。正之は養育してくれた保科家への恩義から保科を名乗り、幕府から勧められた松平姓は3代目正容から
(*3)天明八年-1778年。将軍は10代徳川家治、11代徳川家斉
(*4)山崎闇斎(1619-1682)-江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。とりわけ、湯武放伐を否定して、暴君紂王に対してでも忠義を貫いた周文王のような態度を肯定した。吉川惟足の吉川神道を発展させて「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。
(*5)吉川惟足(よしかわ これたり、1616~1695)-江戸時代前期の神道家。保科正之の信任を得て、子孫は代々、会津藩から初め50俵、後に30俵の合力米が給付されていた。
この本は元が明治23年、24年に文部省から発行された佐藤誠実著「日本教育史」とのことである。
内容的にはおいて市の説明版と大きな齟齬はないと思うが、ただどの程度、天文台として機能していたのだろうか? その辺りは、どうも研究している方々にもよくわからないようで、具体的な内容は紹介されていない。上の文から推定すると、学術面では洋学、医学、算術が挙げられているものの全体の中での比重は小さいようであり、観測データを取得し、解析をするといったところまでやっていたのか、疑問ではある。この洋学や算術の内容がわかればある程度推定できるのだが・・・
いずれにしろ、他藩にこんなものがあったのか、またこの日新館の天文台が浅草観象台と何か関係があるのか、気になるところではある。
(星学館、2022.2.25.)
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