パピヨン&猫~アリオ&りんご&バジル&くるみのブログ~

愛犬&愛猫と一緒に愛車で日本全国?はまだまだですが、お出掛けした事・趣味のお城の事・鉄道の事など紹介しています。

上田城西櫓の創建時期ほぼ確定12/13

2016-12-14 17:16:01 | 
県宝に指定されている上田城西櫓。
造りは、
白漆喰塗籠に下見板張りをした二重二階の層塔型の櫓。

現在、上田城跡公園には同様の櫓が西櫓の他に
2棟(通称北櫓、南櫓)があります。

この3棟の櫓の内、
西櫓は太政官通達による廃城後の民間払い下げの際に
売れ残りそのままその場に建ち続けました。

これまでこの西櫓は、
第二次上田合戦後に破却された後に、1626~28年に
当時の城主である仙石忠政によって再建された
7棟の櫓の内のひとつと言い伝えられてきました。

今回、放射性炭素年代測定で測定した
西櫓の真ん中に建つケヤキの真柱が
15世紀から17世紀にかけて伐採された
ものであることが特定されました。

最終結果は来月の末頃出るようです。

この結果が確定すれば、先述したことが証明されます。
となると、国指定の重要文化財となる可能性もあるようです。



尼ヶ淵広場から望む西櫓 2016年1月21日撮影

信濃毎日新聞記事より一部文言を抜粋しています。
詳しくは12/13付紙面並びに信毎webにてご確認ください。

第49回「前夜」12/11その3

2016-12-14 14:11:48 | 真田丸
大坂城へやって来た信尹と面会する幸村
そこには、兄信之が!

家康の誘いに
有難迷惑と返す幸村

丸裸となった大坂城でどう戦う?と問う信尹
しかし、幸村にとって、
もはや大坂城がどうであれ家康の首さえ取れればよかったのです。

信濃一国(40万石)を与える。
しかし幸村にはわかっていました。

既にそのような世の中ではないことぐらい

徳川が権力の頂点に座した頃から
大名の領分(領地)は細分化されました。
目的は、大名の弱体化と知行箇所を増やす為。
この他に、再検地、新規開墾、耕作地の拡大、耕作技術の向上なども関係していますが。

秀吉政権まではほぼ国(令制国)単位若しくは複数郡単位で宛行安堵していました。
徳川政権になってからは国(令制国)を細分化しほぼ郡単位で知行されました。
その郡をそれまでの国(令制国)のような感じで領地経営しました。
まぁ中には例外もあります。加賀藩・仙台藩・尾張藩・広島藩など。

信濃国においても当時は
上田・松代・小諸・飯山・松本・諏訪・高遠・飯田と8つあり
それぞれに領主がいるわけで、
一国を与えるということは8領主が他へ移らなければならない。
服従するなんてことはありえないのです。戦国時代の国盗りとは違います。

全領主の服従先は徳川将軍家ただ一つなのだから。

改易がたくさんあれば話は別ですが(しかし改易が頻発しているような状況では安定した政権運営が出来ない)、簡単に移れるような地はほとんど無いのです。

幸村が欲しいのは、家康の首、一つ。

死んではならぬという信之
捕まれと申されますかという幸村

捕まってもまた助ける、赦免を勝ち取るという信之
そしてまた14年(十余年)・・・幸村

九度山での蟄居生活14年。やはり精神的に苦しかった。
そして父昌幸の無念さを知っているが為に。

再び、行く先が全く見えない中で生きていく辛さを味わい、表舞台に出られた喜びを味わってしまっては、死なせはしないという信之の言葉はもはや幸村の心には響かない。

解って欲しいこの気持ちを、兄上
というような表情で見つめるだけ、決して言葉にはしない。
なぜなら、兄上が困らない様に。

それでもあの時、犬伏の別れの際に交わした約束を言いだした信之
では、今ここで酒をという幸村

立ち去ろうとする信之に、兄上と酒を酌み交わしとうございますと言い放つ幸村

これは今生の別れではない!

振り返ることなく立ち去る信之
酒を酌み交わすということは、
振り返るということは
今生の別れを意味しそんなことはあってはならないと思ったのでしょう。

叔父上のほっぺちと生きたいように生きれば良いの一言。

真田家の辛い辛い場面でした。

今日はここまで。つづく・・・

第49回「前夜」12/11その2

2016-12-14 09:13:04 | 真田丸
戦国時代を生きてきた者にとっては大義は大事。

景勝家康の会話に於いても
その大義について言葉が交わされた。

家康の心の内にどこか引っ掛かりがある。
太閤殿下への恩義に叛いても
世の安寧を、お家(徳川家)の安泰を願っての戦。

信長・秀吉が志し、成しえなかった安寧を成し得たい。

家康の考え方は、まさしく戦国時代を生き抜いてきたからこそのものなのでしょう。

しかし、戦国の世を知らない次世代の秀忠
すでに政権運営の長としての実績を積んでいるので
世の安寧将軍の職務として見ている。
なのでその安寧を脅かす存在として見える豊臣家を滅ぼさなければならない。
世の中のシステムが変わったのでそこには戦国時代の考え方は無い。

いよいよ完全な手切れとなった豊臣家徳川家

よく、大坂の陣
豊臣軍(家)(徳川)幕府軍対立だとか、
中には、極端な事例として反逆者の豊臣家に対する政府(幕府)による討伐のようにも言われます。

幕府軍と言うなら家康の意向があったにせよ秀忠が主導していなければならない。
しかしそうではない。

まぁこうした見方は、幕末から明治初頭にかけての混乱期のような
何でもかんでも、そういう風な見方をている気がしてなんだか嫌気がさします

この戦の主導者家康であり、
家康(殿)の一声で派兵された大名達(家臣団)
戦国時代の戦い方と何一つ変わらない、
ただ単に、豊臣家徳川家対立としてみるのが普通であると思います。

信之信吉の陣までやって来ます。
源次郎を説き伏せるために。

慶長20年(1615年)4月29日樫井の戦いをきっかけに夏の陣が始まった。
塙団右衛門が討死。運ばれてきた亡骸に近寄ってくる茶々

ホントにこの人はKYな人です。
よく言った、きり
いい加減にして下さい!御上様がウロウロされると士気が下がります!

大の不忠者の大角与左衛門がしっかりと作戦会議を盗み聴きしています。

あのような話をする場所としては不適格でしたね。
まぁ、まさかととは思ったのでしょうが。
昌幸なら、隠し部屋を作ってそこで話すでしょう、たぶん。

筒抜けなので、どんな策を練っても労しても事うまく運ばず。
ただただ、滅んでいくだけ。

ホントに嫌だねぇ~古狐正信。恐ろしい。
まぁ、この人がいなければ家康もとっくに、なんてなっていたかもしれません。

再び幸村の説得の為に登場した信尹。それに随行する信之

平野め・・・。

信尹、信之の前に現れたのが何と、室賀正武の息子の久太夫(アンジャッシュ児嶋)。
室賀と聴いてピンときた信之真田と聴いてピンときた久太夫

信伊・信之の行く手を阻み父の事を口にするや否や
出ました。こことぞばかりの信之
黙れ、小童!
返し。散々言われたからねぇ。

その勢いに、思わずでた、すいません(◎o◎)
こんなところで、黙れ、小童!には黙れ、小童!
聞けるとは思ってもいませんでした。
似てる似てる、西村さんと児嶋さん。表情も。

つづく・・・