三河武士がゆく

日本史や地域のお話し。
特に幕末や戦史をメインにしています。

少しでも歴史に疑問があれば、調べてみましょう

2024年08月30日 11時26分31秒 | 歴史
この2-3年のことだが、内山彦次郎暗殺に興味をもって調べてきた。
小野友五郎の時も同じであるが、歴史の定説には間違いがあるもので、それは、意図せずそうなったのか、わざとそのようにしたのか、理由は様々だが、著名な人の言動や著作によって、信用され、さらに一人歩きすることもある。
だから、歴史は少しでも変だと感じたら、疑って調べる必要があり、面白い。

文久3年、大坂町奉行所与力内山彦次郎が何者かによって惨殺された。維新のどさくさでお蔵入りとなるが、西村兼文「新撰組始末記」によって、新選組犯人説が流れた。
更に、元新選組永倉新八の証言によって、西村の説はいっそう信憑性を帯びた。

しかし、犯人新選組説にはいくつかの疑問があることは、以前から指摘されていた。
極めつけは、真犯人は別にいるという史料の存在がわかっていながら、なぜか重視されなかった。

平成頃から、新選組説は姿を消し、令和になった今では、新規の出版物に見ることはない(たぶん)。

コメ・食糧の安全保障と想像力・対応力

2024年08月28日 19時17分15秒 | 雑記

コメ・食糧の安全保障と想像力・対応力

おどろくことに、戦前の政治家、軍の指導者たちのなかには、おそろしく、想像力と対応力(実情に適した決断と実行力)に欠けていたことがわかってきている。

・開戦決定までの過程
・緒戦での勝利後の方針が決定できない(考えていない、統一できない)
・敗戦(戦争の継続)が確実になった段階での戦争終結への方針が決まらない(終戦までに多くの命が失われた)


昨年の米の収穫は、不作ではない。
では、どこに米があるのか?
様々な要因があると、マスコミは言っているが、大きな原因は、米政策にある。

食生活の変化、減反政策は、食料安全保障リスクの上昇という生命に関わる問題を引きおこしてきた。

一度荒廃した水田は、簡単には元に戻らないという。
農家が米を作らなくなれば、次世代の作り手も減少していく。

外国の安価な資源に頼る構造になるので、国内産業は弱体化して、為替の変動や気候変動の影響を受けやすくなるのは確実である。

世界が食糧危機になった時、いったい、どこの国が助けてくれるのか?
食料問題ではないが、コロナワクチンはどうだったか?

さて、昨日の農水大臣の言によれば、備蓄米を出さないという。
誰が、いつ、助けを必要としているのかが、わかっているのに。

「昭和恐慌」が、その後の日本の動向に与えた影響はかなり大きい。
なぜ、恐慌となったのか?
何を優先したのか?

令和の「大塩の乱」「米騒動」「昭和恐慌」とならないためにも、何を優先していくのかを考えて、速に実行して頂きたい。


今日は、豊川海軍工廠が爆撃された日です

2024年08月07日 14時19分11秒 | 戦争ー空襲
昭和20年8月7日、豊川海軍工廠が爆撃され、約2600人(約2800人とも)の命が犠牲となった。勤労動員された学徒約450人も含まれている。


昨日の中日新聞社朝刊に、九死に一生を得た方の証言があった。
そのなかに、いつもは「総員退避」の前に出される「女子、学徒退避」がなかったとあった。鉄帽を被り屋外に出たときには、すでにB29が上空にあった。


「総員退避」の発令が遅く、「女子、学徒退避」を発令する余裕はなかったということ。


ところが、石川県出身の女子挺身隊員を中心にした証言集、『ああ豊川女子挺身隊 8.7豊川海軍工廠の悲劇』(昭和38年)には、当時、防空発令室にあった海軍報道班員の方の証言として、「空襲警報」の後、「女子ならびに低学年学徒退避」が発令され、この報道班員の方が、マイクに向って工廠内に知らせたとある。
そして、その後で「総員退避」が発令されたということになっている。


「女子ならびに低学年学徒退避」あるいは、「女子、学徒退避」が発令されたのか、という問題について、近藤恒次氏が『学徒動員と豊川海軍工廠』(昭和52年)で言及された。近藤氏は、豊橋市立工業学校の動員学徒付添教官であり、担任の生徒と共に火工部第二弾莢工場にあり被爆している(同工場では愛知高等実習女学校生徒も働いていた)。


近藤氏によれば、「総員退避」の5分前に発令される「女子ならびに低学年学徒退避」命令はなく、「総員退避」の時には、B29は頭上にあったという。工廠外へ退避する余裕はなく、至近にある防空壕に逃げ込むのが精一杯だった。実習女学校生徒の方は、防空壕に爆弾の直撃を受けて亡くなっている。


道具を持って逃げたとしても、5分早ければ、5分遠くへ逃げられた事には間違いはないと思う。なぜ、「総員退避」が遅く、「女子ならびに低学年学徒退避」も発令されなかったのだろうという疑問は、当然多くの方が持っておられたはずだ。


近藤氏はこの件について、昭和49年、空襲時に防空発令室にあった工廠長の副官の方から直接、当時の事情を聞き取っている。これによれば、生産か退避かの板挟みで、「女子ならびに低学年学徒退避」発令の余裕がなかったということである。(『学徒動員と豊川海軍工廠』66頁の注7)


工廠長の判断を鈍らせたものは何だったのか?


「七月三十日午前十時頃、動員学徒付添教官の非常呼集があり、工廠長より直接の指示があった、今朝空襲警報が発令された際、一部の大学動員学徒が工廠の命令なく退避したことに対する厳重な訓戒であった。すなわち、今や兵器の生産は焦眉の急であり、瞬時たりともおろそかにすることはできぬ。動員学徒は当工廠長の全責任において、廠長の命令に従うべきことを厳守せよというのであった。如何なる事態が生じようとも、廠長の命なくして行動することは一切許されぬことを再確認したのである」(『学徒動員と豊川海軍工廠』51頁)


人の命よりも、兵器の生産が優先されたのである。




※経済を優先するか、人命か?
過去も現在も今後も、避けては通れない問題が現れる。自然破壊、産業公害、コロナも、何を最優先するのか?いざという時に、その人の性格の本質的な部分が如実にあらわれる。とくに、背負っているものが大きければ大きいほど(ポジション)、判断を誤れば、人的被害は大きくなる(人が多く死ぬ)。


大人は、○○よりも命が軽視された時代や出来事をしっかりと次の世代に伝えて、正面から向き合って、考えてもらうようにして行かなければならない。


命よりも重いものが当然のように現れたら、また悲劇は繰り返される。


不拡大方針を主張していたのは、「参謀本部」でした

2024年05月28日 20時38分08秒 | 歴史
以前書きましたが、日中戦争の初期の段階で、日本軍は多大な損害をだしていました。当初、日中戦争というか、事変の不拡大方針を主張していたのは、「参謀本部」でした。事実上のトップ参謀次長の多田駿が、不拡大を主張して、拡大派の政府首脳(外相・陸軍省・海軍省)と対立します。


しかし、権力が強い側が勝利していくことになります。具体的には、人事で不拡大側の口が封じられていくことになり、多田は一度は陸軍大臣に推挙されますが、つぶされてしまうのです。人事権をどこが握るかで、大勢が決まってしまうのは、世の常ですが、戦争となるとあまりにも問題が大きすぎます。


後から考えなくても、その時点で行き先が見えず、勝算なき戦争に突入していった人たちは、勢いがあり、勇ましいことを言っていたのですが、自分に都合の良いことを中心において考えていたので、誤ってしまったのです。


今の日本はどうなのでしょうか?
政治でも経済でも先頭で、行け行けドンドン、勇ましく旗を振っている人たちは、どれほど先を見据えているのか。


貧しい国であることを知っている人達はどれほどいるのか?
(将来を見据えて対策をして行く必要があるのです)

※陸軍や参謀本部悪玉説を見直す必要がることは以前から言われております。本質が見えなくなるからです。

呼称としての「大東亜戦争」と日本史教育

2024年04月12日 17時37分08秒 | 歴史
呼称としての「大東亜戦争」と日本史教育

タイトル通りなのですが、日本史を学ぶ時に大事なのは、
「その時」であり、「その前」であり、「その後」なのです。

なぜ、「大東亜戦争」と呼ばれたのか?
なぜ、「大東亜戦争」から、「太平洋戦争」になったのか?
なぜ、「十五年戦争」「アジア・太平洋戦争」と呼ばれるのか?

戦争の呼称の変化を調べるだけでも、歴史の勉強になりますね。

「なぜ」という疑問と追究、そして事実の積み重ねが大事だと、わたしは学んできました。

そういえば、「日中戦争」も、「北支事変」「支那事変」「日支事変」「日華事変」とか、日本側の呼称だけでもいろいろありますね。


三淵嘉子⇒萱野権兵衛⇒小野友五郎

2024年03月25日 13時25分14秒 | 歴史
伊藤沙莉主演のNHK連続テレビ小説『虎に翼』の女性主人公のモデルは、日本初の女性弁護士であり、初の女性裁判官となる三淵嘉子である。

夫が戦病死した後に再婚した相手、三淵乾太郎の父親は、初代最高裁判所長官の三淵忠彦であり、忠彦の父は、会津藩家老・萱野権兵衛(長修)の弟で、三淵家の養子となった三淵隆衡である。つまり、隆衡は、萱野権兵衛の甥にあたる。

萱野権兵衛は、戊辰戦争で、藩主松平容保と会津藩の責任を一身に背負って自刃している。権兵衛は、一刀流溝口派の相伝者であり、その死の直前に、井深宅右衛門に火箸で奥義を伝授したエピソードはよく知られている。

鳥羽・伏見の戦い後、紀州に落ちた傷病者の江戸引き揚げを担当した小野友五郎や西周助は、会津藩家老萱野権兵衛、内藤介右衛門とともに江戸へ帰っている。紀州引き揚げに際して、小野友五郎は会津藩に便宜を図っているように思う。

常に最前線で戦い、最後まで徹底抗戦を主張して旧幕府徳川家に忠節を尽くした会津藩士たち。

その主家である徳川慶喜に見捨てられ、藩主まで連れ去られてしまったことに同情の念を禁じ得なかったのかも知れない。

小野友五郎には、四角四面、理性的に淡々と職務を遂行するというイメージがある。しかし、意気に感じたり、情にほだされるような一面を垣間見たようで、うれしく思えたことを思い出しました。


無理矢理につなげてしまった!


ハードはデジタル、ソフトはアナログで

2024年02月03日 11時10分28秒 | 雑記
ハードはデジタル、ソフトはアナログで

私の学生時代は、ポケベルは存在していましたが、学生が持つようなことはありませんでした。(業務上)

したがって、コミュニケーション手段は、直接会う、電話、手紙でした。電話も遠距離は料金がかかりますので、市外・県外な、手紙がほとんどでした。仕事も見てやって覚えろでした。そういう時代だったということでしょうが、アナログには意味があったと思います。

LINEでの若者のやりとりは、「。」を使わないケースが多い、相手の気持ちが読めなくて誤解を生ずるからという話を聞きました。

短文から、相手の気持ちの裏側まで感じ取ることが難しいのは当たり前です。研究者・専門家であっても、短歌や俳句の解釈が違うと言うことはよくあることです。
「。」を付けようが付けまいが、相手の気持ちを読む力や洞察力は、体験・経験・努力によって身につけるのであって、若いうちから避ける方法を覚えていたら、身につかないと思うのです。
だからこそ、アナログな方法・伝え方を知っておいた方が良いのです。

例えば自分の「誠意」を相手に伝えるにはどうしたらよいのかを、時間をかけて苦心して考えることが必要なのです。
先輩たちが、どのようにしてきたかを、直接伺ったり、調べるのもいいでしょう。
但、伺うにも礼儀が必要ですけど。

いっぽう、自分が培ってきたことを後輩に伝えるには、コミュニケーション力が必要です。そこを怠れば、衰退し、消えていくことも、アナログ世代は肝に銘じておく必要があります。ただ、背中を見せているだけでは、衰退していくと思います。

面倒に思える、やりとりも、人類の歴史のなかで、良好な状態を保つため、作り出すために必要な場面があったから、そのようになったのだと思います。この伝承というか、継承が薄らいで、消えていくと、人類にとって非常に危ういことだと思っています。

そういう私も、アナログな内容を、デジタル技術を使って発信しています。

山本五十六長官の国葬とブギウギ

2023年12月12日 19時20分37秒 | 雑記
山本五十六長官の国葬とブギウギ

先週のブギウギ、山本長官の国葬からスタートしました。
むのたけじ氏は、朝日新聞記者として国葬の記事を書いていたそうです。

以前このブログで、「一つの歴史の体験のしめくくりをきちんとしなければ、同じような過失が、同じ手順で繰り返される」という、むのたけじ氏の言葉を取り上げました。

「昨日まで米英撃滅を書きまくった同じペンで、今日はその支配者に追随することはペンの良心が許さない」として、朝日新聞社を退社したそうです。

戦時中に限らず、信じる道を強制的に他人に歩ませようとする人は、現在でもいるかと思います。

戦後、価値観が一変したとき、その責めを負わずに手のひらを返して、主導的・指導的ポジションに返り咲いた人達もいたように、実は精神的に脆い人も中にはいるのかなと。(井上成美大将のような生き方は普通ではできない)

(手のひらを返すと言えば、芸能報道のあり方も同様)

人間が考える価値。何が良くて、悪いのか、そういうものは、その時々で変わってしまう。

今日は12月8日です。日中戦争5年目の開戦と歩兵第18連隊にみる上海事変

2023年12月08日 20時00分18秒 | 歴史
日中戦争(昭和12年)も5年目に入った昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まる。

「そもそも、始めてはならない戦争だった」と書いたが、
それは、日中戦争の戦死者をみてもよくわる。

豊橋にあった歩兵第十八連隊も動員下令され、宇品を出港した。
9月の上陸以来、1ヶ月あまり間の戦闘で、大隊長が戦死(本部全滅)したり、4人いた中隊長の内3名が戦死した大隊があった。2ヵ月で編成当初の200名ほどから150名に近い戦死者を出した第11中隊もあった(補充により戦闘力は回復したが)。

※8月29日、歩兵第六連隊(名古屋)の連隊長は戦死している。

昭和16年9月から10月にかけておこなわれた第一次長沙作戦での損害も大きく、中隊長6名が戦死、大中隊長5人が負傷している。

これは南方の島での戦いではない。

中国軍の頑強な抵抗、日本軍の戦い方、指揮官先頭、増派を控えていた事などにも原因はあると思うが、派遣軍の数に対して、死傷者数、死傷率が高い。

一個連隊の一部分の例だけであるが、
このようななかで、太平洋戦争へ突入するのである。

『ブギウギ』「大空の弟」六郎の戦死と情報統制

2023年12月08日 11時32分37秒 | 歴史
『ブギウギ』「大空の弟」六郎の戦死と情報統制

幻の歌といわれた「大空の弟」をスズ子が唄い、多くの方が涙したのは昨日のこと。

「○○部隊」「○○方面」、日本軍の情報がもれてはいけないという情報統制なのでしょうが、肝心要である軍の失体で暗号が解読され、情報がもれる。

これでは戦争に勝てるわけがない。

せめて、いつどこで死んだかくらいは教えてあげたらと思う。

そんなことで負ける戦争であれば、しなければ良かったのだ。
そもそも、始めてはならない戦争だった。