三河武士がゆく

日本史や地域のお話し。
特に幕末や戦史をメインにしています。

少しでも歴史に疑問があれば、調べてみましょう

2024年08月30日 11時26分31秒 | 歴史
この2-3年のことだが、内山彦次郎暗殺に興味をもって調べてきた。
小野友五郎の時も同じであるが、歴史の定説には間違いがあるもので、それは、意図せずそうなったのか、わざとそのようにしたのか、理由は様々だが、著名な人の言動や著作によって、信用され、さらに一人歩きすることもある。
だから、歴史は少しでも変だと感じたら、疑って調べる必要があり、面白い。

文久3年、大坂町奉行所与力内山彦次郎が何者かによって惨殺された。維新のどさくさでお蔵入りとなるが、西村兼文「新撰組始末記」によって、新選組犯人説が流れた。
更に、元新選組永倉新八の証言によって、西村の説はいっそう信憑性を帯びた。

しかし、犯人新選組説にはいくつかの疑問があることは、以前から指摘されていた。
極めつけは、真犯人は別にいるという史料の存在がわかっていながら、なぜか重視されなかった。

平成頃から、新選組説は姿を消し、令和になった今では、新規の出版物に見ることはない(たぶん)。

不拡大方針を主張していたのは、「参謀本部」でした

2024年05月28日 20時38分08秒 | 歴史
以前書きましたが、日中戦争の初期の段階で、日本軍は多大な損害をだしていました。当初、日中戦争というか、事変の不拡大方針を主張していたのは、「参謀本部」でした。事実上のトップ参謀次長の多田駿が、不拡大を主張して、拡大派の政府首脳(外相・陸軍省・海軍省)と対立します。


しかし、権力が強い側が勝利していくことになります。具体的には、人事で不拡大側の口が封じられていくことになり、多田は一度は陸軍大臣に推挙されますが、つぶされてしまうのです。人事権をどこが握るかで、大勢が決まってしまうのは、世の常ですが、戦争となるとあまりにも問題が大きすぎます。


後から考えなくても、その時点で行き先が見えず、勝算なき戦争に突入していった人たちは、勢いがあり、勇ましいことを言っていたのですが、自分に都合の良いことを中心において考えていたので、誤ってしまったのです。


今の日本はどうなのでしょうか?
政治でも経済でも先頭で、行け行けドンドン、勇ましく旗を振っている人たちは、どれほど先を見据えているのか。


貧しい国であることを知っている人達はどれほどいるのか?
(将来を見据えて対策をして行く必要があるのです)

※陸軍や参謀本部悪玉説を見直す必要がることは以前から言われております。本質が見えなくなるからです。

呼称としての「大東亜戦争」と日本史教育

2024年04月12日 17時37分08秒 | 歴史
呼称としての「大東亜戦争」と日本史教育

タイトル通りなのですが、日本史を学ぶ時に大事なのは、
「その時」であり、「その前」であり、「その後」なのです。

なぜ、「大東亜戦争」と呼ばれたのか?
なぜ、「大東亜戦争」から、「太平洋戦争」になったのか?
なぜ、「十五年戦争」「アジア・太平洋戦争」と呼ばれるのか?

戦争の呼称の変化を調べるだけでも、歴史の勉強になりますね。

「なぜ」という疑問と追究、そして事実の積み重ねが大事だと、わたしは学んできました。

そういえば、「日中戦争」も、「北支事変」「支那事変」「日支事変」「日華事変」とか、日本側の呼称だけでもいろいろありますね。


三淵嘉子⇒萱野権兵衛⇒小野友五郎

2024年03月25日 13時25分14秒 | 歴史
伊藤沙莉主演のNHK連続テレビ小説『虎に翼』の女性主人公のモデルは、日本初の女性弁護士であり、初の女性裁判官となる三淵嘉子である。

夫が戦病死した後に再婚した相手、三淵乾太郎の父親は、初代最高裁判所長官の三淵忠彦であり、忠彦の父は、会津藩家老・萱野権兵衛(長修)の弟で、三淵家の養子となった三淵隆衡である。つまり、隆衡は、萱野権兵衛の甥にあたる。

萱野権兵衛は、戊辰戦争で、藩主松平容保と会津藩の責任を一身に背負って自刃している。権兵衛は、一刀流溝口派の相伝者であり、その死の直前に、井深宅右衛門に火箸で奥義を伝授したエピソードはよく知られている。

鳥羽・伏見の戦い後、紀州に落ちた傷病者の江戸引き揚げを担当した小野友五郎や西周助は、会津藩家老萱野権兵衛、内藤介右衛門とともに江戸へ帰っている。紀州引き揚げに際して、小野友五郎は会津藩に便宜を図っているように思う。

常に最前線で戦い、最後まで徹底抗戦を主張して旧幕府徳川家に忠節を尽くした会津藩士たち。

その主家である徳川慶喜に見捨てられ、藩主まで連れ去られてしまったことに同情の念を禁じ得なかったのかも知れない。

小野友五郎には、四角四面、理性的に淡々と職務を遂行するというイメージがある。しかし、意気に感じたり、情にほだされるような一面を垣間見たようで、うれしく思えたことを思い出しました。


無理矢理につなげてしまった!


今日は12月8日です。日中戦争5年目の開戦と歩兵第18連隊にみる上海事変

2023年12月08日 20時00分18秒 | 歴史
日中戦争(昭和12年)も5年目に入った昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まる。

「そもそも、始めてはならない戦争だった」と書いたが、
それは、日中戦争の戦死者をみてもよくわる。

豊橋にあった歩兵第十八連隊も動員下令され、宇品を出港した。
9月の上陸以来、1ヶ月あまり間の戦闘で、大隊長が戦死(本部全滅)したり、4人いた中隊長の内3名が戦死した大隊があった。2ヵ月で編成当初の200名ほどから150名に近い戦死者を出した第11中隊もあった(補充により戦闘力は回復したが)。

※8月29日、歩兵第六連隊(名古屋)の連隊長は戦死している。

昭和16年9月から10月にかけておこなわれた第一次長沙作戦での損害も大きく、中隊長6名が戦死、大中隊長5人が負傷している。

これは南方の島での戦いではない。

中国軍の頑強な抵抗、日本軍の戦い方、指揮官先頭、増派を控えていた事などにも原因はあると思うが、派遣軍の数に対して、死傷者数、死傷率が高い。

一個連隊の一部分の例だけであるが、
このようななかで、太平洋戦争へ突入するのである。

『ブギウギ』「大空の弟」六郎の戦死と情報統制

2023年12月08日 11時32分37秒 | 歴史
『ブギウギ』「大空の弟」六郎の戦死と情報統制

幻の歌といわれた「大空の弟」をスズ子が唄い、多くの方が涙したのは昨日のこと。

「○○部隊」「○○方面」、日本軍の情報がもれてはいけないという情報統制なのでしょうが、肝心要である軍の失体で暗号が解読され、情報がもれる。

これでは戦争に勝てるわけがない。

せめて、いつどこで死んだかくらいは教えてあげたらと思う。

そんなことで負ける戦争であれば、しなければ良かったのだ。
そもそも、始めてはならない戦争だった。

神保修理と徳川慶喜の大坂城脱出

2023年11月20日 23時40分06秒 | 歴史
神保修理と徳川慶喜の大坂城脱出

『昔夢会筆記』によれば、1月5日夜、神保修理は徳川慶喜に謁見し、「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の計を運らさるべし」と具申し、慶喜は、「神保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心」したという。

『徳川慶喜公伝』にも、東帰決心意の経緯は、「神保修理の言上ありしかば、此に愈東帰の決心を固め、板倉伊賀守、永井玄蕃頭へ謀議したり」とあるが、修理の意見具申以前に、松平信敏を大坂町奉行に任命して東帰の準備に動き出していたことは既に述べた。修理に会う以前に、密かに東帰を決め、板倉勝静や永井尚志に伝えていたのである。

神保修理は、徳川慶喜に対して東帰言上したが、将兵を置き去りにして自らが黙って逃げるようなことを勧めたのではない。慶喜の大坂城脱出を知った修理は、「今度の御東帰其機にあらねば、却て後害深からんを恐る、急に馳せて諫止し参らするにしかず」(『七年史』)と、慶喜の後を追うのである。しかし、これも修理にとって身を危うくする行動となった。

神保修理の勧めにより、徳川慶喜が東帰を決めたという情報は、会津藩側に流れたのだろうか、それとも、それまでの修理の言動から推測されたものなのかわからないが、会津藩では、慶喜の東帰に対して、修理の責任を追及する声が大きくなり、修理はついに切腹するのであるが、徳川慶喜の無責任な行動によって、修理が責めを負ったとしたら、あまりにも気の毒に思える。

戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

2023年11月14日 22時44分32秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 松平大隅守、桜門で神保修理と出逢う

神保長輝(神保修理)は、戦況を伝えるために大坂に帰り会津藩の本営であった本願寺に戻っていたようである、徳川慶喜に呼ばれたことにより急ぎ登城したとおりに、桜門あたりで、松平信敏(松平大隅守)と出逢ったのだろう。

信敏の談話では、これを乗船の準備の命を受けた1月6日としているが、修理が大坂に戻ったのは1月5日であるので、日にちが合わない。

いずれにしても、1月5日、信敏が町奉行への転任の命を受けた時点で、徳川慶喜の東帰の準備段階に入っていたことがわかる。慶喜はそれ以前に東帰を側にいた閣老へ打ち明けていることになる。

それでは、修理は何のために呼ばれたのであろうか。

松平大隅守、徳川慶喜の大坂城脱出の準備を命じられる

2023年11月13日 23時49分04秒 | 歴史
京都にあった大目付松平信敏(松平大隅守)と江戸の同役滝川具挙(滝川播磨守)に、交替の命令が発せられたのは、慶応3年11月頃だが、滝川が上坂したのは12月下旬のことだった。

その頃、徳川慶喜は、王政復古クーデタによる、復古政府と旧幕府勢力との一触即発の事態を避け大坂に下っていたが、予断を許さない情況であった。

信敏は、江戸に下らず、そのまま大坂に留まり、翌年1月3日の鳥羽・伏見の戦いを迎えることになった。

旧幕軍敗報が伝わる中、1月5日信敏は突然、大坂東町奉行に任じられた。翌6日には、徳川慶喜の大坂城脱出を告げられ、八軒家に出向き、乗船の準備を整え復命したところ、さらに乗替の船の準備のため、天保山行きを命じられた。

その後、信敏は、開陽艦へ出向いて副長の澤太郎左衛門に面会して東帰の内命を伝え、慶喜一行を待ち、随従して江戸へ帰っている。

東帰後、勘定奉行に任じられたが、徳川慶喜の恭順・謹慎にともない、2月御役御免となった。

信敏が内命を受け、乗船の準備に向かうときに、大坂城桜門辺りで出逢ったのが、会津藩士神保長輝(神保修理)である

戊辰戦争拾遺 佐久間近江守の戦死について

2023年10月20日 08時51分26秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 佐久間近江守の戦死について

歩兵奉行並、佐久間近江守(佐久間信久、佐久間小左衞門)の戦死した日についても、窪田備前守同様、諸説ある。しかし、釣洋一氏の「三人の幕軍戦没者」(『歴史研究』312号」)によれば、東京の全勝寺にある墓碑銘には、下鳥羽で負傷し慶応4年1月26日、紀三井寺で没したとあるらしい。

「西家譜略」や小野友五郎の日記にも佐久間が紀州にあったことを示す箇所がある。

銃火を浴びて倒れるのを見た者が戦死したもののと誤って受け取り、その情報が伝わったと思う。しかし、明らかに生存しており、連隊を率いる歩兵奉行並の生死に関わる誤った情報が伝わるのは怖いものだ。窪田備前守も同様に。