三河武士がゆく

日本史や地域のお話し。
特に幕末や戦史をメインにしています。

戊辰戦争拾遺 順動丸の活躍(2)慶応3年12月21日

2023年06月30日 21時54分26秒 | 歴史
『小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』でも書いたが、滝川播磨守や小野内膳正の上坂は、何度か出帆予定が変更となり、滝川は12月22日、小野は12月23日に出帆したと思われる。 小野の乗船は長鯨丸で間違いないと思うが、確認出来るのは小野の履歴書であり、日記には記述がない。滝川の乗船は不明であるが、順動丸の可能性も少しある。

12月21日に、陸軍奉行、大目付、勘定奉行などが出帆予定であったようだ。陸軍奉行が石川若狭守、大目付が滝川播磨守、勘定奉行が小野内膳正であった可能性は高いのだが、彼らの上坂は上記のように延期されている。石川若狭守についても上坂はしているが、この日ではない。

ただし、兵隊を乗せて出版した可能性はゼロでは無い。小野友五郎の日記にそれらしき内容の記事があるのだが、しっかりと読めないでいる。順動丸の運航に関する記事が「慶喜公御実紀」の12月25日条にみえる。歩兵200人を乗せて早々上坂するようにというものだ。

即日出帆はないと思うので、命令が実行されたとしたら、26日以降となるだろう。しかし、21日に順動が出帆していれば、それを承知の上で帰府を待っての出帆命令であったといえる。外に運送船はなかったのかと思ってしまうが、21日の出帆はなく、順動丸は江戸湾にとどまっていたと考えれば納得もいく。現時点でこれに関する史料を見つけられないでいる。

幕府は多くの艦船を保有していたが、故障によりまともに動くことができなかった船もあるようだ。薩摩藩邸焼き討ちの時に起った江戸湾での海戦でも、咸臨丸は汽罐の故障により、まともに航行ができなかったという話しもある。その他の故障船があってもすぐ修理ができたわけではない。

戊辰戦争拾遺 幕府軍艦、順動丸の活躍(1)慶応3年10月から12月15日

2023年06月29日 23時40分21秒 | 歴史
幕府軍艦「順動丸」は外輪船で、イギリス商船であったときの名は「ジンギー」である。軍艦と書いたが、当時の蒸気船はこのように呼ばれていたようである。「順動艦」と記している史料もあるが、「順動丸」で統一する。

順動丸は江戸と兵庫を往復する飛脚船であったようだが、実際どのように運用されていたのか。

慶応3年10月の大政奉還にあたり、上京命令を受けた老中・若年寄歩兵・撒兵200名ほどを乗せている。歩兵はフランス伝習兵らしいがよくわからない。このなかに滝川具挙の息子、歩兵差図役勤方・滝川充太郎(滝川具綏)が含まれている。外にも歩兵が乗り組んでいたかは不明。10月24日品川出帆、28日に大坂へ着したらしい。

このあと順動丸は11月24日に、若年寄並兼外国総奉行・平山敬忠を乗せて出帆したという史料もあるようだが、これは「蟠竜丸」の間違いと思われ、11月26日に、外国奉行糟屋筑後守を乗せて出帆、29日に兵庫着している。

その後、江戸へ帰ったかはわからないが、12月15日、大坂湾の開陽艦にあった榎本釜次郎が、勝海舟(勝安房守)に宛てた書簡を順動丸で江戸へ送ったと思われるので(「海舟日記」)、支障がなければ18日には江戸に着いていたであろう。

戊辰戦争拾遺 遅れた長崎丸と河津三郎太郎ら伝習砲兵

2023年06月28日 21時48分03秒 | 歴史
王政復古のクーデタの知らせが江戸に入り、幕閣は在京老中の要請に応えて、12月14日、兵の急速上京を命じた。この時、乗船として長鯨丸と長崎丸があがっている。長鯨丸は何度か出帆予定を変更しながら、23日に勘定奉行並、小野友五郎らを乗せて出帆していると思われる。しかし、長崎丸はさらに遅れて、砲兵頭並、河津三郎太郎(祐賢)、大砲差図役頭取、永持五郎次(明徳)ら伝習砲兵を乗せて、翌慶応4年1月2日に着坂したと思われる。河津ら伝習砲兵は14日、上京命令を受けているのだが、遅延の理由は何であったのか。

この伝習砲兵隊が、鳥羽・伏見の戦いの緒戦に間に合っていたとしたら、戦局に大きく影響したかわからないが、簡単に戦線が崩れることはなかったかもしれない。

この他にも旧幕府支援の兵が大坂を目指しており、大津方面から入京を図る旧幕府歩兵などもいた。さらに長崎丸が着坂した1月2日には歩兵一個大隊を乗せた順動丸が品川を出帆しているのである。

河津と永持は共に明治政府の陸軍に仕え、砲兵の大隊長を経て要職を歴任している。

近藤勇狙撃、戸塚文海、小野友五郎、戸塚環海

2023年06月20日 15時05分46秒 | 雑記
慶応3年12月18日、二条城から伏見への帰り道、新選組の近藤勇が狙撃され負傷しています。
新選組によって殺された伊東甲子太郎一派による待ち伏せでした。

負傷した近藤勇は大坂城で治療を受ける事になり、翌年1月3日始まった鳥羽・伏見の戦いは参加せず、帰府の後、医学所で松本良順の治療を受けています。

『新選組史料集』の解説には松本良順の治療を受けるため下坂したような記述がありますが、良順はこの時大坂にはいないと思います。

当時の若年寄の記録に拠れば、会津藩より申し出があり、平塚久海という医師が遣わされたという。徳川慶喜が療養のために夜具と黄金を与えたという。

日付は異なるが「島田魁日記」にも「大樹君ヨリ御使者」が遣わされ、近藤勇は大坂城二の丸で養生したとある。

近藤勇の治療にあたった医師「平塚久海」とは奥医師であった「戸塚文海」のことでしょうか?文海は当時大坂におりました。

小野友五郎と文海は関係があり、友五郎が天文台勤務の頃、文海から西洋語を、友五郎から文海へは算術を教えあったそうです。

またこの文海の養子「戸塚環海」は八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)出身でもあります。