戊辰戦争拾遺 佐久間近江守の戦死について
歩兵奉行並、佐久間近江守(佐久間信久、佐久間小左衞門)の戦死した日についても、窪田備前守同様、諸説ある。しかし、釣洋一氏の「三人の幕軍戦没者」(『歴史研究』312号」)によれば、東京の全勝寺にある墓碑銘には、下鳥羽で負傷し慶応4年1月26日、紀三井寺で没したとあるらしい。
「西家譜略」や小野友五郎の日記にも佐久間が紀州にあったことを示す箇所がある。
銃火を浴びて倒れるのを見た者が戦死したもののと誤って受け取り、その情報が伝わったと思う。しかし、明らかに生存しており、連隊を率いる歩兵奉行並の生死に関わる誤った情報が伝わるのは怖いものだ。窪田備前守も同様に。
歩兵奉行並、佐久間近江守(佐久間信久、佐久間小左衞門)の戦死した日についても、窪田備前守同様、諸説ある。しかし、釣洋一氏の「三人の幕軍戦没者」(『歴史研究』312号」)によれば、東京の全勝寺にある墓碑銘には、下鳥羽で負傷し慶応4年1月26日、紀三井寺で没したとあるらしい。
「西家譜略」や小野友五郎の日記にも佐久間が紀州にあったことを示す箇所がある。
銃火を浴びて倒れるのを見た者が戦死したもののと誤って受け取り、その情報が伝わったと思う。しかし、明らかに生存しており、連隊を率いる歩兵奉行並の生死に関わる誤った情報が伝わるのは怖いものだ。窪田備前守も同様に。