三河武士がゆく

日本史や地域のお話し。
特に幕末や戦史をメインにしています。

戊辰戦争拾遺 佐久間近江守の戦死について

2023年10月20日 08時51分26秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 佐久間近江守の戦死について

歩兵奉行並、佐久間近江守(佐久間信久、佐久間小左衞門)の戦死した日についても、窪田備前守同様、諸説ある。しかし、釣洋一氏の「三人の幕軍戦没者」(『歴史研究』312号」)によれば、東京の全勝寺にある墓碑銘には、下鳥羽で負傷し慶応4年1月26日、紀三井寺で没したとあるらしい。

「西家譜略」や小野友五郎の日記にも佐久間が紀州にあったことを示す箇所がある。

銃火を浴びて倒れるのを見た者が戦死したもののと誤って受け取り、その情報が伝わったと思う。しかし、明らかに生存しており、連隊を率いる歩兵奉行並の生死に関わる誤った情報が伝わるのは怖いものだ。窪田備前守も同様に。


戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の長鯨丸

2023年10月14日 00時08分57秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の長鯨丸

中根淑(中根香亭)は、慶応3年12月29日、長鯨丸で兵庫に着き、翌日大坂へ入ったとある。
しかし、『慶応3年、小野友五郎の上坂と薩摩藩邸焼き討ちの報』でも書いたが、小野友五郎は、12月23日長鯨丸で出帆して、26日に兵庫着、翌27日に大坂に入ったことになっている。

中根淑と小野友五郎のどちらかが間違っていることになる。

小野の兵庫着は、日記によるので間違いないと思うが、乗船名は履歴書を根拠とした。小野の履歴書と中根の『香亭遺文』は、後年のものである。

どちらかが、長鯨丸に乗船して、片方が別の船だったのか、あるいは、両人共、長鯨丸に乗り組んだが、中根が日付を間違えたものなのか。

戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の、大澤顕一郎

2023年10月13日 23時43分57秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 『香亭遺文』の、大澤顕一郎

「窪田備前守の戦死について」の追記で、大澤顕一郎は歩兵第12連隊の一個大隊を率いていたと書いたが、歩兵第7連隊に所属して鳥羽・伏見の戦いに参加した中根淑(中根香亭)によれば、隊長を大澤顕一郎としている。大澤は歩兵頭並であったので、率いたのは大隊であったと思われる。『徳川慶喜公伝』にも、大澤は、伏見で歩兵一大隊を率いたことになっている。

大澤顕一郎は、側衆であった大澤秉哲の子で或。禁門の変では、一橋慶喜に属して戦っている。

戊辰戦争拾遺 窪田備前守の戦死について

2023年10月04日 23時45分31秒 | 歴史
戊辰戦争拾遺 窪田備前守の戦死について

歩兵頭窪田備前守(窪田泉太郎・窪田鎮章)は、歩兵第12連隊の一大隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いに臨んで討死にした。戦死した日については諸説ある。会津藩儒者小笠原勝修の『續國史略後編』(明治8年)は、1月4日討死とし、勘定方として兵粮を担当した坂本柳佐は、『史談速記録』で、1月5日に被弾としているが、死亡については触れていない。

しかし、窪田鎮章の父、窪田鎮勝と従兄弟同士だった、川路聖謨の「東洋金鴻」によれば、討死は1月3日であるらしい。典拠不明だが、西村兼文編『文明史略』(明治9年)や「戊辰正月伏見鳥羽其他ニ於ケル東軍戦死者」(『渋沢栄一伝記資料』)も1月3日としている。

※追記
窪田鎮章が率いた大隊の所属連隊を「歩兵第11連隊」と間違って書いてしまったので、「歩兵第12連隊」にあらためました。
なかには、「第12大隊」としている文献もあるようですが、歩兵奉行並奉行?城和泉守が連隊長で、歩兵頭窪田備前守と歩兵頭並?大澤顕一郎が大隊長であったと思われます。