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■宮城事件(8・15事件)と外務省の二人 阿南惟茂氏のお悔やみ記事を見て思う

2024年12月25日 12時44分44秒 | 戦争
■宮城事件(8・15事件)と外務省の二人 2002年05月22日

阿南惟茂氏(83歳)が、11月13日亡くなったことを、新聞のお悔やみ欄で知りました。以前この方や父親である阿南惟幾陸相について書いた事を思い出しました。記事を書いた2002年5月は、「瀋陽総領事館事件」が発生した時期です。

各紙のお悔やみ記事では、父親である阿南惟幾陸相について、ポツダム宣言受諾を拒否し、自決したという紹介が目に付きました。

ただ、特攻作戦に関しては否定的であったのかと思われます。昭和20年、陸軍航空総監であった阿南は、特攻を任務とする軍令上の正式部隊の編成を企図した大本営に対して、統帥の道に反し、皇軍編成の冒涜であるとして強く反対意見を述べたそうです(共に反対意見を述べた航空総監部次長であった河辺虎四郎の手記)。しかし、総監であった期間は短く、まもなく陸相となり、陸軍全体の立場を背負う事になります。


■宮城事件(8・15事件)と外務省の二人 2002年05月22日

昭和20年8月15日、徹底抗戦と国体の護持を主張する将校たちによって皇居が占拠されるという事件が起こりました。私がこの事件を知ったのは、テレビで映画化された『日本のいちばん長い日』を見たときでした。以後何回も見直しています。最近問題となっている亡命事件に接し、この映画のシーンの数々を思い出しました。

将校たちは、近衛師団や東部軍を動かそうとしましたが、決起に反対した森近衛師団長を殺害します。そして、偽の師団命令書を作成して近衛師団の一部兵力をもって皇居を占拠したのです。しかし、東部軍は動かず、田中静壱東部軍管区指令官(のち自決)が皇居に乗り込み首謀者の説得にあたったため事態は収束していきます。

その中、阿南惟幾陸軍大臣は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という遺書を残し陸相官邸で自決しました。クーデタは失敗に終わり、首謀者の将校たちの多くは自決しました。

皇居占拠中に終戦の玉音放送を録音した録音盤(玉音盤)を奪おうとしたため、録音盤(玉音盤)奪取事件と言われることがありますが、実質は陸軍将校によるクーデタ未遂事件なのです。血眼になって録音盤を探し求める兵士に銃剣を突きつけられながら必死になって録音盤の在処を隠し通した宮中の人々の姿も映画に描かれています。

この自決した陸軍大臣阿南惟幾こそ、阿南惟茂中国大使の父親であり、阿南陸相と終戦の時期や方法をめぐり対立してた外務大臣東郷茂徳は、先に免職となった東郷和彦元オランダ大使の祖父なのです。

父親が割腹自決を遂げたとき、阿南中国大使は4歳でした。兄は中国戦線で戦死しております。尊い肉親の命を奪った戦争に対して彼はどんな思いで戦後を生きてきたのでしょうか。父の割腹自決は彼にどのような影響を与えたでしょうか。

角田房子さんの『一死、大罪を謝す』の中に、「血潮で濡れた下着類を着替えさせる必要があり、林秘書官が箪笥の中を探したが、洗いざらしの古いものしか見つからなかった(中略)のち阿南夫人とともに官邸に来た令息たちの服装も、古ぼけた、きわめて質素なものであった」という、当時陸相官邸に駆けつけた人の話が載っています。阿南惟幾という人は清廉な人であったといいます。

終戦の時期や方法をめぐり阿南陸相と対立した東郷茂徳外務大臣の孫が、このたび処分された駐オランダ大使の東郷氏です。無理矢理こじつける必要はないですが、なんか思いついたので書いてみました。東郷茂徳は三国同盟に反対していたため、松岡外相によって更迭されました。その後、東條英機内閣の外務大臣として、対米交渉にあたることになりましたが、ついに開戦となり、翌年辞職しました。戦後A級戦犯として巣鴨プリズンに服役中に病死しています。敗軍の将として責任を負って死ななければならなかった軍人を父に持つ阿南大使と、三国同盟に反対し、対米戦回避の努力をしながらも、A級戦犯として獄中で病死した外交官を祖父に持つ東郷元大使ですが、日本の歴史上、重要な役割を背負いながらも時代に翻弄され、不運な最期を遂げた父や祖父のことをどのように思いながら、外交官となり、日本の外交の舵取りをしてきたのでしょうか。父や祖父が彼らに与えた影響は少なくないと思うのです。

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