三河武士がゆく

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ムツゴロウの喧嘩と大きな動物との向き合い方

2023年04月08日 10時14分15秒 | 雑記
ムツゴロウの喧嘩と大きな動物への接し方

意外かも知れないが著書によれば、畑正憲さんは、喧嘩が強かった。

大原則を述べている。
ひるまない。
遅れない。
遠慮しない。

小学5年生の時、上級生と喧嘩になり、何発殴られようが、一矢報いてやるという気持ちで先制攻撃をして勝ったのが転機となったそうだ。

この非情なばかりの攻撃性と動物たちと親しむ姿はマッチしないかも知れない。

テレビなどでは、猛獣と親しむムツゴロウの接近方法が、動物へのフレンドリー感に拠るというような、優しさが全面的に取り入れられるような表現が見られるが、そうではないように思う。

命のやり取りをする緊張感のなかで、相手と向きあうことを愉しんでいたのかも知れないと思うのである。

初めましてのライオンとなどの猛獣は、この気魄に圧倒されて従わざるを得ない情況に追い込まれたのかも。犬猫などは言うに及ばない。これを、動物への心を開いたフレンドリー精神だと思って、同じようなことをしたら、たちまち命の危険にさらされることになるのではないか。

秩序の安定の上に、あるいは安定のために信頼感が生まれることは、人間の社会でもある。

「あ~こうだった」

私は、おそらく1977年頃からムツゴロウの文庫本を読んでいた。
亡くなられたことで、何十年ぶりかに一冊だけパラパラとめくって、飛び込んできた記述に目が留まった。

テレビは本を読むことよりも私のなかでは大きな印象を与えるようだ。
すっかり忘れていた。

ムツゴロウは、本能的な生物であり、理知的でもある。そうであるが故に、読者や視聴者には魅力的であり、錯覚をおこしたりもする。誤解も生ずるのだろう。

そういうことを忘れていた。
最近、YouTubeの柴犬の動画を毎日のように見て、心がほっこり、平和ボケしている筆者にとっては、
良い意味で、自然の厳しさも思い出させていただいた。

「情況や動機がまったく違うけれど、大きくて危険な動物の前にひょいと立った時が、喧嘩の前のあの空白状態に似ていなくもない。心の中の屈折した部分がなくなり、何がどうなってもいいやという気になっている。くよくよ思い煩って以内、一種の捨身の状態は同じだと言ってもよい。片方は喧嘩で、片方は相手の心の中に入るためであり、目的はまったく違うけれど、心の真空状態は一つしかないのだろう」(『ムツゴロウの少年期』)