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紫式部とその時代(制度)

2024-05-17 13:25:35 | 話の種

「紫式部とその時代(制度)」


[朝廷の官職と位階]

「二官八省」
これは中国の官僚制度を模したものだが、制度をうまく回すために、日本では序列を厳しく定めていた。

「二官」
神祇官(祭祀を担当)
太政官(行政を担当)

「八省」
中務省 … 詔勅や上奏など天皇の側近として政務を担当
式部省 … 文官の人事、教育などを担当
治部省 … 外交、雅楽、葬儀などを担当
民部省 … 地方行政、財政を担当
兵部省 … 武官の人事、軍事を担当
刑部省 … 裁判、処罰を担当
大蔵省 … 租税や貢献物の管理・出納を担当
宮内省 … 宮中の庶務を担当

「官名と位階」

太政大臣 (正一位、従一位)
左大臣  (正二位、従二位)
右大臣  (ー”ー)
内大臣  (ー”ー)
大納言  (正三位)
中納言  (従三位)
参議   (正四位下)
~     ~
小納言  (従五位下)
~     ~
     (従六位下)     

*序列による差
平安時代中期からは、天皇が住む清涼殿に入ることができるのは基本的に五位以上の官人から選ばれた人たちで、この人たちのことを殿上人と呼ぶ。(但し蔵人は六位からも任じられた)
律令では五位と六位との差は収入にも如実に表れていて、奈良時代の記録を見ると、五位の収入が現在の金額に換算しておよそ3千万円なのに対し、六位はおよそ7百万円と大きな差があったようである。
三位以上と四位の参議のことを公卿と呼び、彼らが中心となって天皇を補佐して政治を行っており、朝廷の待遇もさらに厚かった。
収入は生活に直結するので、平安時代の貴族たちが高い位を求めた理由を、この待遇の違いからも見ることができる。
一方、この時代には七位以下の位階はほとんど授けられなくなり、下級官人のほとんどは六位という位階を持つことになったが、位階にともなう収入はほとんどなくなったので、特に官職に就いていない下級官人の生活は非常に苦しかったと思われる。
彼らはさまざまな儀式に参列する際に下賜されたり、有力者に仕えることでもらえる禄が主な収入源だったと思われ、そういう役も全員に行きわたるわけではないので、生活はなかなか大変だったであろうと思われる。
(ドラマでも紫式部の父為時は当初官位は最下位の従六位下でまた役職がなかったので、苦しい家族生活が描かれている。)
(為時はその後花山天皇即位の際に式部丞・六位蔵人の官位を受け、その後藤原道長の執政になった時は越前守に任じられ従五位下、そして最終的には正五位下で越後守となる。)

*蔵人は日本の律令制下の令外官(律令の令制に規定のない新設の官職)の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。


「左大臣」「右大臣」
太政大臣と同じく律令制度の下に定められた役職。太政大臣に次ぐ位だが、太政大臣は実務を行わないため事実上の最高位ともいえる。

左大臣と右大臣は同列ではなく左大臣の方が上位。
右大臣には左大臣を補佐したり、左大臣が不在のときに代わりに政務を行ったりする役割がある。現在の日本で例えるなら、左大臣が内閣総理大臣で右大臣が副総理といえる。

「太政大臣」
太政大臣は太政官の筆頭長官。職掌はなくふさわしい人物のみが就任できる名誉職で通常表に出ることはない。適任者がなければ設置する必要はなく欠員とする。

日本初の太政大臣は天智天皇の息子の「大友皇子」で、天智天皇が任命した。
平安時代には藤原氏が太政大臣になることが多かったが、太政大臣になっても摂政・関白にならないうちは政治の実権をにぎれなかったので、太政大臣は貴族の家柄の格を表すというただの肩書になってしまった。
基本的に太政大臣に就任するのは貴族だが、平安時代末期に武家政権を樹立した「平清盛」が朝廷から武士として初めて「太政大臣」に任命された。 

(参考)

「関白」(成人している天皇を補佐する役職)

実際に政治を行うのは天皇で、関白は助言者のような立場。
関白という役職は律令で規定されたものではなくどこにも属さない自由な立場で、権限も強く実質的に政治を動かす力を持っていた。
関白はもともとは「関(あずか)り白(もう)す」の意味で、天皇に差し出される文書を天皇より先に見てから天皇に差し出すこと。884年に光孝天皇が天皇になったとき、その役目に任命された藤原基経が最初の関白にあたる。
やがて天皇が幼いときは摂政、成長後は関白をおいて政治を行わせることが習わしになり、藤原道長の子孫が摂政と関白の役職をひとりじめにすることになった。
藤原氏以外で関白になったのは、戦国時代の武将「豊臣秀吉」と息子の「秀頼」のみ。

「摂政」(天皇に代わって政務を行う役職)

幼くして即位した天皇や、女性天皇、病弱で政務ができない天皇の代行者として政治を取り仕切る。
日本で最初の摂政は、6世紀後半の「厩戸皇子(後の聖徳太子)」といわれてる。
叔母の推古天皇に能力を認められ政治を任されたもの。
皇族以外では藤原良房が、清和天皇が幼かったために任命されたのが最初。


「宮中に於ける女性の身分」

「宮中での序列」

(天皇の后と妃)
中宮(ちゅうぐう)
  皇后の別称。皇后が複数いる場合は2番目以降の者を指すことが多い。
女御(にょうご)
  皇后・中宮に次ぐ地位で、皇族や大臣の娘がなる。皇后や中宮になる予定でも、まずは女御になるのが基本。
更衣(こうい)
  女御に次ぐ地位で、大納言(だいなごん)以下の娘がなる。定員は12名。

(女官)
尚侍(ないしのかみ)
  内侍司 (ないしのつかさ:後宮十二司のひとつ) の長官。天皇の秘書のような役割で定員は2名。摂関家の娘が選ばれることが多い。
典侍(ないしのすけ)
  尚侍に次いで仕事を取り仕切る役割で、定員は4名。公卿の娘が選ばれることが多い。
掌侍(ないしのじょう)
  典侍に次いで実務を行う。定員は4名。

女孺(にょじゅ)
  下級女官で定員は100名。雑務を担当する後宮十二司の末端職員。
命婦(みょうぶ)
  天皇の儀式や神事を担当する。官位相当や定員はない。
東豎子(あずまわらわ)
  内侍司に所属する下級女官。行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)の際は男装してお供した。定員は3名または4名という説がある。

「女房」

女房は朝廷や身分の高い人々に仕えた女性の使用人のこと。「房」とは部屋のことで、屋敷に部屋を与えられていた。天皇に仕える女房を「上の女房」と言い、中宮に仕える女房は「宮の女房」と言う。

*女房は、仕えた主人が周りの貴族達に尊敬されたり、天皇の寵愛を受けたりするように務めることが求められので、教養や知性に優れた中流貴族の娘が女房に選ばれることが多かった。
彼女たちは、主人の身の回りの世話や読み聞かせ、話し相手などの幅広い業務をこなしていた。

*宮の女房は、多くが妃に付けられて後宮に入った妃の実家の人々。平安時代中期以降は中級貴族の娘が出仕するケースも多く、教養に優れた人材が多かった。

*女房によってひらがなで書かれた日記や随筆、物語などは「女房文学」とも呼ばれ「清少納言」「紫式部」「和泉式部」などが代表的な作者。
紫式部による「紫式部日記」や清少納言の「枕草子」、「菅原孝標女」による「更級日記」には女房として初出仕したときの様子が書かれている。

「女房の序列」

女房の階層は3つで、出身の階級によって分けられていた。

・上臈(じょうろう)
 官位:大臣や大納言の娘など、三位以上。
 職務:中宮の食事の給仕を務める役目の者、髪をすいたり化粧をしたりする役目の者、中宮を楽しませる役目の者などがおり、禁色を許されていた。
・中臈(ちゅうろう)
 官位:四~五位
 職務:女童(中宮や姫君の身の回りの世話をする未成年の少女)や下臈の女房たちの仕事を監視し、雑用もこなした。清少納言や紫式部はこの階層に属する。
・下臈(げろう)
 官位:摂関家の家司や神社の家の娘たち。
 職務:下級の女官で後宮十二司に勤務。中宮、上臈とも会話をする機会はほとんどない。

「後宮の仕事」

後宮に存在する以下12の役所が「後宮十二司」と呼ばれ、神事や食事、行事などの与えられた仕事を行う。内裏には1,000人を超える女官が仕えていたと言われてる。

内侍司(ないしのつかさ)
蔵司(くらのつかさ)
書司(ふみのつかさ)
薬司(くすりのつかさ)
兵司(つわもののつかさ)
闡司(みかどのつかさ)
殿司(とのもりのつかさ)
掃司(かにもりのつかさ)
水司(もひとりのつかさ)
膳司(かしわでのつかさ)
酒司(さけのつかさ)
縫司(ぬひとのつかさ)

*内侍司(ないしのつかさ)
人数が多かったのは内侍司で、ここは今でいう秘書室のような役割を果たしていた。
つねに天皇のそばに控えていて、お言葉の伝達などが仕事だった。

内侍司の人員構成

・尚侍(ないしのかみ)…2名
・典侍(ないしのすけ)…4名
・掌侍(ないしのじょう)…4名
・女孺(にょじゅ)…100名

尚侍には有力貴族の娘が選ばれることになっていて、平安時代には尚侍が天皇の后となるのが一般化した。実質的な内侍司の長官は典侍だったようでである。

内侍司はあこがれの職場だったらしく、清少納言は「枕草子」でたびたび話題にし、「なほ内侍に奏してなさん(ぜひとも内侍司に推薦しよう)」とほめられて喜ぶ場面もあるほど。

内裏(だいり):天皇が住む宮殿
後宮(こうきゅう):天皇の妃や女官達が住む場所

*後宮
天皇が政務を行った「紫宸殿」や、天皇の居住区・清涼殿が並ぶ「内裏」の後方(北側)にあったことからこのように呼ばれるようになった。 天皇に入内した女性達はいずれも七殿五舎の内どれかひとつを割り当てられる。
当時の後宮は仁寿殿北側にある七殿五舎の建物で構成され渡り廊下で連結されていた。
天皇の住居である内裏の北半分を占めている。
後宮というと江戸時代の大奥のように男子禁制の印象が強いが、それとは異なり男性官人や貴族が自由に出入りすることができた。


(参照)

「平安時代の貴族システム 官職と位階」(NHK)
「平安時代朝廷における女性の仕事」(ホームメイト)
「七殿五舎で暮らす平安時代の女性の身分」(ホームメイト)

 


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