今朝のニュース記事に「地方私大、淘汰の時代に 進む少子化 学生確保難しく」という西日本新聞の記事が掲載されていた。
この記事にあるよう全国の大学数は1990年の507校から、2017年には780校に増加した。約54%の増加だ。4年生大学の学生数も1990年213万3362人だったのが2017年には289万0880人にまで増えている。4年制大学だから世代人口あたりは53万3341人から72万2720人に増えている。
1990年に大学進学する年齢となる1972年生まれの世代人口は203万8682人と第2次ベビーブームのピークである。それに対して2017年に大学進学年齢となる1999年生まれの世代人口は117万7669人と1972年の約58%の出生数しかない。どちらともその前後はそう大きな人口変化はない。
ということは大学進学する世代人口の割合が1990年の世代人口に対する4年制大学生比率が26.2%だったのが61.4%にまで上昇している。つまり世の中における大卒経歴者が2倍以上に増えたのである。
それに比べて日本の大学の世界に対する位置づけはどうなったであろうか。
この記事にあるよう日本の大学の評価は低下の一方だ。ネイチャー紙に危惧されているくらい日本の科学技術レベルは低下している。ではなぜ大学生も大学数も大学進学率も増えているのに国際的な科学研究能力の低下が指摘されているのだろうか?
大学のランキングの評価に用いられるのは主に科学論文の掲載数だ。論文には掲載される雑誌のランキングのようなものがありインパクトファクターと呼ばれていた。論文掲載された雑誌のインパクトファクターが教授選考の場などで審査対象になっている。
インパクトファクターの高い雑誌の日本人研究者の論文掲載が減少していることが日本の科学研究の危機として表れてきている。つまり世界的に影響するような新しい研究業績が日本の大学から出てこなくなっているのだ。
一方研究論文の主たる担い手は大学だ。それも調べて頂ければわかるだろうが圧倒的に国立大学だ。旧帝大だけでなく地方の国公立大学も上位を占めている。そう、国公立大学の研究が危機に瀕しているのである。
上の日本のアカデミズムの危機の記事でも書かれているよう現在国立大学は独立法人化されている。これは今まで助手という有給の任期のない研究者の立場が有期の更新性を導入されたことが大きいと思う。任期の間に結果を出さなければならない、ということは基礎研究やトライアンドエラーで得られるような新規の研究は成立しにくくなるということである。
では何故国立大学は独立法人化されなければならなかったのであろうか。それが冒頭の記事に関係していくる話なのだ。国立大学の学生数は1990年の51.9万人から2017年に60.9万人と10万人増えたのに対して私立大学は155万人から213万人と58万人増えている。
国立は授業料が1990年に34万入学金が20.6万だったのが2017年には53.5万と28.2万に増加している。一方私立大学は1990年に授業料61.5万入学金27.7万だったのが86.8万と25.6万だ。国立が授業料57%アップ入学料40%アップに対して私立では授業料41%アップ入学料はマイナスだ。
国立大学は大学数が96から86と統合減少しているのに対して私立は372校から604校と大幅に増えている。そこで思い起こされるのが加計学園の獣医学部創設の問題だ。つまり私学の新設には大幅な私学助成金や地域活性化名目の税金が投入されるのだ。
文部科学省の予算はここ10年ほど微減し5.3兆円程度なのだがそのうち3000億ほどが私学助成金だ。単純に私立大学の一人当たりの私学助成額が年間16万程度なのでこの平成の間に(58万人増加で)900億ほどの私学助成金が学生の増加で教育予算から割かれている。
一方国立は大幅な学生負担増を強いながらなお予算の減少が止まらない。最近新幹線の駅に国立大学の看板を見かけるのもそうやって学生を誘致しなければならない時代に来ているからだ。そして任期制の研究者などはコストカットの一端だ。
アメリカのように産学連携という手段は研究手段としてあると思う。実際私もそういうケースを見たことがある。だが日本の企業自体が研究部門を縮小している時代にどれほどの期待が出来るだろうか?さらに企業との連携も早期に結果が求められる研究がどうしても主となる。コストを考えずにやらねば出来ない研究も多々あるはずだ。
今はまだ日本のノーベル賞受賞者が表れており、研究の業績低下を実感していない方が多いと思う。だが国立大学の独法化は15年近く前のことである。それが近年になって弊害を示してきている。ということはこれから先がもっと深刻になっていくということだ。
日本は少子高齢化が深刻な問題だ。日本の国力を維持するためには一人当たりのGDPを上げていかない限り生活の質を落とすことは避けられない。労働力の減少とAIなどによる省力化で人間に求められるのはサービスや医療介護といった人間同士のコミュニケーションで成り立つ仕事と農林水産業それに研究開発といった部門に労働を集約しなければならない。そうでなければルクセンブルグの巨大国家版のような金融国家を形成することだろうがアメリカに唾を吐けない今の日本ではそれは無理だろう。
研究能力の低下はおそらくそのまま国力の低下につながる。それを推進しているのが現在の大学行政なのだ。自民党の政治家や文科省役人は大学が増えれば客員教授だの天下りなどで自分の収益になる。だから加計学園のような案件がまかり通る。だが現実には廃校になるような大学や東京福祉大学のように留学生でその大半を満たして補助金を詐取している大学が多々ある。後者は不法就労の温床にもなっている。
そして問いたいのが大学生が増加してこの世はきちんとその学歴が生かされているのであろうか?日本地図で都道府県の位置さえわからない学生が増え、大学で因数分解を補修のごとき勉強するところがある。彼らにも年16万卒業までに64万の税金が投入される。そして彼らは選挙にもいかない。自分が学んだ知識で世の中を判断することをしないしその必要性さえ認識できない。ネットで知識を得てもその真贋を分析するだけの判断能力も知識もない。
その一方国立大学の授業料高騰に進学をあきらめる優秀な人材があり、研究予算不足に思い通り研究できない研究者がいる。私が大学院で研究していたのは1990年代後半だったが私は国立大学だったので研究試薬などは必要を認められれば供給を許された。だが私の友人は私立大学の大学院に行きそういった研究面でのバックアップのなさに苦労させられていた。私の周囲の多くの研究者が自分の研究テーマというものを持ち長くその研究をしていた。それが出来たのも研究を支える体制が国立には整備されていたからだと私は考える。
今大学の無償化が検討されている。大学として機能するだけの人材を確保するためならある意味賛成できる。だが実際は異なると私は考える。おそらくそれはほとんど大学という名を冠するに値しない大学で少子化で募集定員を維持できない大学を救済するための案だと思う。
もし無償化にするならある程度の質の確保を維持すべきだというのが私の考えだ。大学入試でも構わないし専門課程に上がるときでも構わない。国が管理するある一定の試験を課し、平均以下を一定割合を超える学生が占める大学には私学助成をしないあるいは大幅に減少させるべきだと思う。
そうでない限り日本の研究はますます凋落していくであろう。それは令和の時代をより厳しくすることになる。今の日本の教育行政でいいのか考える必要があると私は思う。そして一人が声を上げても何もならないがその危機感を持ち一人でも多くの人とそれを共有し、そういう視点で選挙投票することでしか変えることはできないのだとだろう。この問題は決して小さな問題ではない。自身の未来あるいは次世代の未来に大きく影響するだろう。
マスコミはこれを報道することはない。そうすればそれを自身のことと考え嫌悪感を示す人が少なからず存在するからだ。だが現実に教育予算は大学義務教育化とでも言いたげに施策を推進している。そして論文業績は低下の一途をたどる。それを見過ごすかは私たち次第だ。現状を認識しない限り変わらない。そして多くの人が認識しない限り日本丸は混沌の海でさまよい疲弊するであろう。一人一人が認識しない限り。
私は常に自分が正しいと言っているつもりはない。ただ問題を提起しているだけだ。必要なのはこれを読んだ皆様方が自分でそれが本当かどうか調べ感じることが必要だと思う。上の数字はネットで検索して公的機関の発表を主に書いている。でも読んだ方々自身で調べるべきだと思う。そして自分の考えを持って行動して欲しい。
せめて選挙ぐらいには行くべきだろう。有権者の半分が選挙に行かない。政権交代時から1700万人の有権者が選挙を放棄している。京阪神の人口に相当する。そんな現実を放置するかぎり、その末路で苦しむことになっても文句は言えない。ちなみに政治家の多くはそんな時代が来ても苦しむことはない。そういうために必要なさそうな大学が存在し客員教授という利益還流をしているのだから。