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《↑昭和14年当時の千葉恭の写真(同僚千葉Kさん提供)》
何と、この度千葉恭と同じ職場に勤務したとことがあるという方とお会いできた
。その同僚はたまたま同じ姓の千葉Kさんという、大正7年生まれの方であった。千葉恭は明治39年生まれだから、大凡12歳年下の人である。
1.千葉恭の同僚の語る人となり
その千葉Kさんは、千葉恭とは
1回目は、昭和11年~少なくとも14年に穀物検査所黒沢尻出張所で一緒だったという(なお、このとき千葉恭は副出張所長であった)。
2回目は、昭和29~31年に食糧管理事務所和賀支所で一緒だったという(なお、このとき千葉恭は和賀支所長であった)。
そして、千葉Kさんは千葉恭の人となりについて
・いい人だった
・偉ぶらなかった
・酒なども深酒などしなかった(あまり飲まなかった)
・研究などが好きな人であった
ということなどを教えてくれた。
この人となりにつては、過日千葉恭のご子息にお会いした際にご子息が
『優しい親父だった。殴られたこともない』
と語っていたことと符合すると思う。
同じくその際にご子息が
『父は息子から見ても若い頃は今で言うイケメンだった』
と語っておられたが、こうやってご子息のお話と千葉Kさんのお話そして今まで千葉恭の写真から
『千葉恭という人物は外見だけでなくその中身も素敵だったに違いない』
と私は思ってしまった。
2.千葉恭の職場での様子
また、同僚千葉Kさんからは
『宮澤賢治と一緒に居たというようなことを聞いたことがある』
とか
『宮澤賢治に関してはよく喋っていた』
ということもお聞きできた。
この頃、つまり千葉恭の和賀支所長時代(昭和29~31年)といえば『イーハトーヴォ』の復刊No.2、同No.5にそれぞれ「羅須地人協会時代の賢治」、「羅須地人協会時代の賢治(二)」を載せている頃である。
もっと正確に言うと、千葉恭と同じ役所に勤めていた飯森という人物から請われて(断り切れずにかも知れないが)、昭和29年12月21日『宮澤賢治の會』が主催した例会で千葉恭は「羅須地人協会時代の賢治」という講演した頃である。
以前ご子息にお会いした際にご子息は
『父の恭は賢治に関して語ることは少なかった』
と言っておられたが、千葉恭が和賀支所長時代(千葉Kさんが2回目に同じ職場に勤めていた頃、つまり千葉恭の部下であった頃)であれば、この講演の関係もあったのであろうか、千葉恭は職場ではある程度賢治に関することを喋っていたと言えそうだ。
3.下根子桜寄寓の切っ掛け
ところでまだ報告していなかったことがあった。それは以前〝下根子桜の自炊独居?生活〟では
(宮澤賢治は)次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに(賢治から)『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。
と千葉恭は語っていたのだったが、このことに対して千葉恭のご子息は
父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と私に語ってくれたことである。
はたして恭が賢治から誘われたのか、それとも自ら転げ込んだのか、どちらがより本当のことだったのだろうか。それともどちらも本当のことだったのだろうか。
おそらく、お互いに渡りに舟だったのかも知れない。
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何と、この度千葉恭と同じ職場に勤務したとことがあるという方とお会いできた
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1.千葉恭の同僚の語る人となり
その千葉Kさんは、千葉恭とは
1回目は、昭和11年~少なくとも14年に穀物検査所黒沢尻出張所で一緒だったという(なお、このとき千葉恭は副出張所長であった)。
2回目は、昭和29~31年に食糧管理事務所和賀支所で一緒だったという(なお、このとき千葉恭は和賀支所長であった)。
そして、千葉Kさんは千葉恭の人となりについて
・いい人だった
・偉ぶらなかった
・酒なども深酒などしなかった(あまり飲まなかった)
・研究などが好きな人であった
ということなどを教えてくれた。
この人となりにつては、過日千葉恭のご子息にお会いした際にご子息が
『優しい親父だった。殴られたこともない』
と語っていたことと符合すると思う。
同じくその際にご子息が
『父は息子から見ても若い頃は今で言うイケメンだった』
と語っておられたが、こうやってご子息のお話と千葉Kさんのお話そして今まで千葉恭の写真から
『千葉恭という人物は外見だけでなくその中身も素敵だったに違いない』
と私は思ってしまった。
2.千葉恭の職場での様子
また、同僚千葉Kさんからは
『宮澤賢治と一緒に居たというようなことを聞いたことがある』
とか
『宮澤賢治に関してはよく喋っていた』
ということもお聞きできた。
この頃、つまり千葉恭の和賀支所長時代(昭和29~31年)といえば『イーハトーヴォ』の復刊No.2、同No.5にそれぞれ「羅須地人協会時代の賢治」、「羅須地人協会時代の賢治(二)」を載せている頃である。
もっと正確に言うと、千葉恭と同じ役所に勤めていた飯森という人物から請われて(断り切れずにかも知れないが)、昭和29年12月21日『宮澤賢治の會』が主催した例会で千葉恭は「羅須地人協会時代の賢治」という講演した頃である。
以前ご子息にお会いした際にご子息は
『父の恭は賢治に関して語ることは少なかった』
と言っておられたが、千葉恭が和賀支所長時代(千葉Kさんが2回目に同じ職場に勤めていた頃、つまり千葉恭の部下であった頃)であれば、この講演の関係もあったのであろうか、千葉恭は職場ではある程度賢治に関することを喋っていたと言えそうだ。
3.下根子桜寄寓の切っ掛け
ところでまだ報告していなかったことがあった。それは以前〝下根子桜の自炊独居?生活〟では
(宮澤賢治は)次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに(賢治から)『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。
と千葉恭は語っていたのだったが、このことに対して千葉恭のご子息は
父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と私に語ってくれたことである。
はたして恭が賢治から誘われたのか、それとも自ら転げ込んだのか、どちらがより本当のことだったのだろうか。それともどちらも本当のことだったのだろうか。
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続き
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