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《1↑千葉恭の写真》
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
1.千葉恭の2葉目の写真
千葉恭の2葉目の写真を見ることが出来た。それがこのブログの先頭の写真である。
右側の鳥打ち帽?に白いシャツ姿の人の方が千葉恭である。水沢農学校在学中の10代の千葉恭だとのことである。
2.穀物検査所の場所
また、大正時代の町並を記入した花巻地図を見ることが出来た。その中に穀物検査所(岩手県穀物検査所花巻出張所)が記載してあった。
《2 穀物検査所》
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<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より抜粋>
は花巻駅のほぼ東にあった。大正末、千葉が勤めていた役所がここにあったわけだ。
3.賢治にまつわるエピソード
この度千葉恭のご子息にお会いしてお話をお聞き出来た。その方が言うには
『父は賢治のことに関しては多くを語らなかった』
ということであった。
ただし次のような賢治にまつわる2つのエピソードを、父(恭)は私(ご子息)に語っていたということを教えてもらった。
<エピソードその1>
父(恭)が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作されたと。
<註1> 調べてみると「月夜のでんしんばしら」がそれに当たりそうだ。実際その主人公の名前も”恭一”になっていることからもほぼこれが千葉恭をモデルにした童話に違いないであろうと推定できる。
月夜のでんしんばしら
ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいておりました。
たしかにこれは罰金です。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。
ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。
九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。…(以下略)
<『注文の多い料理店』(宮澤賢治、角川文庫)より>
<エピソードその2>
賢治が亡くなった際に電報をもらったが、弔問に行けなかったと。
<註2> ということは、昭和8年当時の宮澤家では、千葉恭は賢治と親しかった存在であったと認識していたということになろう。なのに、何一つ千葉恭以外に千葉恭のことを語っている人物がいないのは何故なのだろうか。
4.人それぞれ
共に賢治に師事し、年令もほぼ近い千葉恭(明治39年生まれ)と澤里武治(同43年生まれ)に関してである。
聞くところによると澤里は勤務校で生徒に向かって賢治のことを喋ることはなかったということだが、家族の前では興がのると身ぶり手ぶりよろしく賢治をまねて詩を朗読していたと澤里武治のご子息は私に教えてくれた。
一方の千葉恭の方は、家族の前でもほとんど賢治のことを喋らなかったし、放送局の取材の際などもほとんど語らなかったと千葉恭のご子息は私に教えてくれた。
二人の性格の違いがそうさせているのだろうか、それともそれぞれの賢治との関係の違いがそうさせているのだろうか。二人の置かれた状況は似ているようだが賢治のことを家族に喋る喋らないの違いがある。ひとそれぞれなのだと思った。
5.賢治には判らないことが少なくない
なお、多くの研究者によって宮澤賢治については悉く調べ尽くされているものとばかり思っていたが、今回千葉恭を多少調べてみて感じたことは、下根子桜での生活などについてもまだまだ不明なことが少なからずあるのだということである。
例えば、千葉恭がいつ頃からいつ頃まで賢治と一緒に生活していたのかということさえも明らかにされていないことには驚きを隠せなかった。この事実一つが明らかになるだけでも、賢治の下根子桜での活動の評価はかなり異なるものになってしまうと思われるものでさえも…
。
悔やまれることは、もうこの時点になってしまうとそのような事実を明らかにすることはほぼ不可能に近いということである。そして、その事実が明らかにされないままに羅須地人協会の評価がほぼ定まっている(?)ということである。
続き
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<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
1.千葉恭の2葉目の写真
千葉恭の2葉目の写真を見ることが出来た。それがこのブログの先頭の写真である。
右側の鳥打ち帽?に白いシャツ姿の人の方が千葉恭である。水沢農学校在学中の10代の千葉恭だとのことである。
2.穀物検査所の場所
また、大正時代の町並を記入した花巻地図を見ることが出来た。その中に穀物検査所(岩手県穀物検査所花巻出張所)が記載してあった。
《2 穀物検査所》
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<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より抜粋>
は花巻駅のほぼ東にあった。大正末、千葉が勤めていた役所がここにあったわけだ。
3.賢治にまつわるエピソード
この度千葉恭のご子息にお会いしてお話をお聞き出来た。その方が言うには
『父は賢治のことに関しては多くを語らなかった』
ということであった。
ただし次のような賢治にまつわる2つのエピソードを、父(恭)は私(ご子息)に語っていたということを教えてもらった。
<エピソードその1>
父(恭)が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作されたと。
<註1> 調べてみると「月夜のでんしんばしら」がそれに当たりそうだ。実際その主人公の名前も”恭一”になっていることからもほぼこれが千葉恭をモデルにした童話に違いないであろうと推定できる。
月夜のでんしんばしら
ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいておりました。
たしかにこれは罰金です。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。
ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。
九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。…(以下略)
<『注文の多い料理店』(宮澤賢治、角川文庫)より>
<エピソードその2>
賢治が亡くなった際に電報をもらったが、弔問に行けなかったと。
<註2> ということは、昭和8年当時の宮澤家では、千葉恭は賢治と親しかった存在であったと認識していたということになろう。なのに、何一つ千葉恭以外に千葉恭のことを語っている人物がいないのは何故なのだろうか。
4.人それぞれ
共に賢治に師事し、年令もほぼ近い千葉恭(明治39年生まれ)と澤里武治(同43年生まれ)に関してである。
聞くところによると澤里は勤務校で生徒に向かって賢治のことを喋ることはなかったということだが、家族の前では興がのると身ぶり手ぶりよろしく賢治をまねて詩を朗読していたと澤里武治のご子息は私に教えてくれた。
一方の千葉恭の方は、家族の前でもほとんど賢治のことを喋らなかったし、放送局の取材の際などもほとんど語らなかったと千葉恭のご子息は私に教えてくれた。
二人の性格の違いがそうさせているのだろうか、それともそれぞれの賢治との関係の違いがそうさせているのだろうか。二人の置かれた状況は似ているようだが賢治のことを家族に喋る喋らないの違いがある。ひとそれぞれなのだと思った。
5.賢治には判らないことが少なくない
なお、多くの研究者によって宮澤賢治については悉く調べ尽くされているものとばかり思っていたが、今回千葉恭を多少調べてみて感じたことは、下根子桜での生活などについてもまだまだ不明なことが少なからずあるのだということである。
例えば、千葉恭がいつ頃からいつ頃まで賢治と一緒に生活していたのかということさえも明らかにされていないことには驚きを隠せなかった。この事実一つが明らかになるだけでも、賢治の下根子桜での活動の評価はかなり異なるものになってしまうと思われるものでさえも…
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悔やまれることは、もうこの時点になってしまうとそのような事実を明らかにすることはほぼ不可能に近いということである。そして、その事実が明らかにされないままに羅須地人協会の評価がほぼ定まっている(?)ということである。
続き
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