宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

45 (22) 黒森山

2008年10月31日 | Weblog
 「経埋ムベキ山」の黒森山であろうと私は思っている『黒森山(414.6m)』について報告する。

 花巻から県道13号(盛岡和賀)線を盛岡方面に向かうと、左手に”石鳥谷町長谷堂”の赤い鳥居が見つかる。そこを過ぎて約1㎞ぐらい進むと東北自動車道の高架下を道路は通る。
 しかし、そこまで行かずにこの高架手前の十字路を左折して黒森集落に向かう。ほぼ道なりに西方向に約2㎞行くと
《1 黒森山》(平成20年5月6日撮影)

が正面に見え、この写真の右側の道路をそのまま行けば直ぐに林道に出会える。
 国土地理院の2万5千分の一の地図にはこの林道がはっきり書いてあるし、神社の記号もあるからということで安心して登り始めた。
 林道沿いには
《2 アズマギク》(平成20年5月6日撮影)

《3 スミレ》(平成20年5月6日撮影)

《4 ウマノアシガタ》(平成20年5月6日撮影)

《5 ムラサキケマン》(平成20年5月6日撮影)

《6 ナツトウダイ》(平成20年5月6日撮影)

《7 ツボスミレ?》(平成20年5月6日撮影)

かなと思うが草丈がかなり高いものもある。
《8 〃 》(平成20年5月6日撮影)

《9 〃の花》(平成20年5月6日撮影)

これなどは花の色が結構薄紅色がかっていた。
《10 ナガハシスミレ》(平成20年5月6日撮影)

距は真っ直ぐもあれば、次の様にカールしているのもある。
《11 〃 》(平成20年5月6日撮影)


 次は
《12 タチツボスミレ?》(平成20年5月6日撮影)

それとも、花がかなり大きいからオオタチツボスミレだろうか。しかし、それならば距が白いはずだから適さない
《13 〃 》(平成20年5月6日撮影)

《14 〃 》(平成20年5月6日撮影)

《15 〃 》(平成20年5月6日撮影)

《16 〃の托葉》(平成20年5月6日撮影)

から判断してやはりタチツボスミレだろうか。さりとて、何かタチツボスミレと雰囲気が違うんだよな…。

《17 ニオイタチツボスミレ》(平成20年5月6日撮影)

《18 〃 》(平成20年5月6日撮影)

《19 〃の根生葉》(平成20年5月6日撮影)


《20 チゴユリ》(平成20年5月6日撮影)

《21 マムシグサ》(平成20年5月6日撮影)

《22 ニリンソウ》(平成20年5月6日撮影)

《23 ホウチャクソウ》(平成20年5月6日撮影)

 林道は途中で切れて細い踏み跡が続く。そこには
《24 フタリシズカ》(平成20年5月6日撮影)

《25 葉陰にイチモンジチョウ?》(平成20年5月6日撮影)

《26 コンロンソウ》(平成20年5月6日撮影)

《27 ラショウモンカズラ》(平成20年5月6日撮影)

《28 クサノオウ》(平成20年5月6日撮影)

などが咲いている。
 ところが、頂上は近くなったのだが道は荒れ出してはっきりしなくなった。ルートを探すも見つからず、見つかったのは
《29 エゾタンポポ》(平成20年5月6日撮影)

萼片が殆ど反り返っていないのでエゾタンポポだろう。
 結局、ルートファインディングを3度ほど繰り返したが頂上への道は見つけられなかったので諦め、林道へ戻って引き返すとこの
《30 キバナイカリソウの花》(平成20年5月6日撮影)

《31 その蘂》(平成20年5月6日撮影)

の咲いているところに、明らかに山道であると思われる道発見。その道を辿ってみると
《32 ユキザサ》(平成20年5月6日撮影)

《33 マキノスミレ》(平成20年5月6日撮影)

《34 〃 》(平成20年5月6日撮影)

《35 ツクバネソウ》(平成20年5月6日撮影)

《36 その花》(平成20年5月6日撮影)


 しかし、なんだこれが本来の登山路かとほくそ笑んだのは糠喜びであった。鉄塔にぶつかって道は途絶えてしまった。つまり、この道は送電線の保全用の道だったのだ。しょぼくれて往路を引き返した。

 さて、「黒森山」は賢治の作品に登場しているのだろうか。調べてみたのだが、私の調べた限りでは一つも見つからない。残念ながらこれでは作品から同定することも不可能である。

 それでは、「黒森山」の同定は一般にはどのようになっているのだろうか。
 小倉 豊文氏は『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉 豊文著、東京創元社)で次のように述べている。
 「黒森山」、(a)前述の「堂ヶ沢山」の北方約五キロ、稗貫郡石鳥谷町の西方山地、字黒森の背後の四一四.六メートルの山。(b)又は、その北方約六キロ、紫波郡紫波町の西部山地の山王海ダム北方の六四七.一メートルの山であろう。「黒森」という所と「黒森山」という山も県下に多い。・・・(中略)・・・確かな所は賢治にきかねばわからぬ。
と記している。
 その後、同氏は『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉 豊文著、筑摩書房、昭和58年10月1日初版)においてはこのことに関しては次のように述べている。
 「黒森山」、「大森山」同様に「黒森」・「黒森山」という山も県下に多いが、前述の「堂ヶ沢山」の北方約五キロ、稗貫郡石鳥谷町の西方山地、字黒森の背後の四一四.六メートルの山(a)か、その北方約六キロ、紫波郡紫波町の西部山地の山王ダム北方の六四七.一メートルの山(b)かの何れかであろう。
 一方、奥田氏は『宮澤賢治の山旅』(奥田 博著、東京新聞出版局)で「黒森山」について
 黒森山の名を冠する山は、岩手に関わらず数多くある。賢治は黒森山を「経埋ムベキ山」としたが紫波郡周辺には三つの黒森山がある。ひとつ目は、都南と紫波町の境界にある八三七㍍峰、二番目は紫波町紫波稲荷神社の奥六四七㍍峰、三番目は石鳥谷町の葛丸川右岸の四一五㍍峰である。どの山かを同定するために三山に登った。・・・(中略)・・・(四一五㍍峰の黒森山の)この人臭さを見て、賢治のいう「経埋ムベキ山」は、この黒森山だと思ったのだった。
と結論している。

 この結論については私も妥当だと思う。多くの「経埋ムベキ山」は花巻から望むことができて、なおかつ地図には頂きに「神社の記号」及び「三角点記号」がある山である場合が多い。これらの条件を『黒森山(414.6m)』は満たしているからである。

 というわけで、「経埋ムベキ山」としての黒森山は『黒森山(414.6m)』であろうから、頂上には辿り着けなかったこの山に近々機会を見つけて再度を挑戦し、その報告をしてみたい

 続きの
 ”(23) 上ン平”のTOPへ移る。
 前の
 ”(21) 松倉山”のTOPに戻る。
 「経埋ムベキ山」32座のリストのある
 ”「経埋ムベキ山」のまとめ”のTOPに移る。
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次”へ移動する。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿