《創られた賢治から愛される賢治に》
川村尚三『啄木 賢治 光太郎』では昭和3年のこととしてこんな事も記されていた。
この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~より>つまり、川村尚三はこの大演習を前にして「アカ狩り」で無理矢理「狐森」に放り込まれたということになろう。そして、この川村尚三とは、名須川溢男によれば
昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長は泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>というから、この川村は労農党稗貫(ママ、正しくはおそらく「稗和」)支部の実質的なリーダだったといえそうだ。
交換授業
同じく名須川によれば、川村尚三は同年、昭和2年の夏から秋にかけて次のような「交換授業」を賢治とやっていた人物であるともいう。
夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、昼食時だったので中に入ったら私にゴマせんべいをだした。賢治は米飯を食べている。『これ、あめたので酢をかけてるんだ』といったのが印象に残っている。口ぐせのように、『俺には実力がないが、お前たちは思った通り進め、何とかタスけてやるから』と言うのだった。その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば『今度は俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>もしこれが事実であるとすれば、賢治は結構長期間川村尚三と熱心に付き合っていたこととなる。そういえば、賢治はこの時期それまでは旺盛だった詩の創作活動が急激に衰えてしまった時期でもあったが、もしかするとそれに代わるものの一つがこの交換授業だったのことなのかも知れない(下表参照)。
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】
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<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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