《創られた賢治から愛すべき賢治に》
何時詠んだのか「澱った光の澱の底」以前〝帰花直後の賢治〟におい一度触れたことだが、賢治は「澱った光の澱の底」というタイトルの詩を昭和3年6月下旬に詠んだ、と「新校本年譜」は推定しているようだ。
一般には6月24日に賢治は帰花したと言われているようだから、帰花した途端に「伊豆大島行」を含めた3週間程<*1>の不在を悔いて、即
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と賢治は意気込んでいたであろう、とばかり私は今まで思っていた。
なぜならば、田植えの終わったこの時期こそ以前ならば賢治があちこちを飛び回って稲作指導をしていた時期であり、一方で肥料設計をしてもらった農民達は特にその巡回指導を首を長くして待っていた時期であるはずだからである。
ところが、伊藤七雄に宛てたという書簡下書に次のようなもの
〔240〕〔七月初め〕 伊藤七雄あて書簡下書(一)
…こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。…
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)577pより>…こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。…
があるということをこの度知った。いままでの私は、当時眼を患っていたと賢治が言っていたことは知っていたが、実は「しばらくぼんやりして居」たなどということは全く知らずにいたので、極めて意外なことだった。
そしてもしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」という表現や「やっと」というそれからは、賢治が帰花直後の24日や25日にこの「澱った光の澱の底」というタイトルの詩を詠んだということはなかったであろう。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できるからである。少なくとも、この表現からは帰花後の数日(5~6日)は何も出来ぬままに賢治は下根子桜で茫然としていた可能性の方が高いことになろう。
したがって、このことを踏まえての私の推測は
・賢治が「澱った光の澱の底」というタイトルの詩を詠んだのは6月下旬をさらに下るであろう。
である。そしてもっと具体的に言えば、・賢治が「澱った光の澱の底」というタイトルの詩を詠んだのは7月上旬、それも7月5日であろう。
である。***************************************************
<*1註> 〔239〕 7月3日付菊地信一宛書簡より約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)257pより>
書簡〔240〕を書いた日は7月6日
さて、書簡〔240〕に関しては
〔240〕 伊藤七雄あて書簡下書
…こちらは一昨日までは雨でした。昨日今日は実に河谷いっぱいの和風、…
とあり、 …こちらは一昨日までは雨でした。昨日今日は実に河谷いっぱいの和風、…
〔240〕 伊藤七雄あて書簡下書(二)
…一昨日まではひどい雨でしたが昨日からすっかり天気になりました。河谷いっぱいの和風です。…
<ともに『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)578pより>…一昨日まではひどい雨でしたが昨日からすっかり天気になりました。河谷いっぱいの和風です。…
とある。
一方、『阿部晁日記』には当時の花巻地方の天気と判断できる記載があるからそれを表にすると、
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<『阿部晁日記 大正15年、昭和2年、同3年』より>
となる。この表のうちの、昭和3年6月24日(賢治が帰花したといわれている日)以降の花巻の毎日の天気を見てみれば、この書簡〔240〕の書かれた日が以下のようにして推定できそうである。
まずは、先の2つの下書から「昨日今日」の連続2日間はすっかりいい天気だったということが言えるが、そのような帰花後の日として最も相応しい2日間
7月5日~6日
が上掲表の中にあることにまず気付く。しかし、同書簡下書の中の「一昨日まではひどい雨でした」ということに注意すれば、本来ならばこの連続2日間の前、すなわち〝~7月4日〟までの複数日は雨が続いていなければならないことになるのだが、残念ながらその条件はこの連続2日間〝7月5日~6日〟は満たしていない。
さりとて、これらの書簡から要請される条件
一昨日までの複数日は雨で、昨日今日の連続2日間が晴れている。
を満たしているものは上掲表の中でその他にはないこともまたわかる。となればやはり、この連続2日間とは〝7月5日~6日〟のことでしかありえないことになろう。さいわいその直前の7月1日~3日は雨降りが続いているし、7月4日については曇だがこの日にも雨が残っていたと考え(そしてこの考えはそれほど無茶なものでもないはずでもある)れば、一昨日まではひどい雨であったということになり、
7月1日 雨
7月2日 小雨
7月3日 雨
7月4日 曇 ← 一昨日(まだ雨が残っていた)
7月5日 晴 ← 作日(=「澱った光の澱の底」を詠んだ日)
7月6日 晴 ← 今日(=書簡〔240〕を書いた日)
7月7日 曇
と対応できる。
つまり、消去法によって
書簡〔240〕を賢治が書いた日は7月6日である。
とするしかないのではなかろうか。「澱った光の澱の底」は7月5日に詠んだ
そうすると、自ずから一昨日(7/4)までは「ひどい雨でした」ということになり、それまで賢治は「しばらくぼんやりして居」たのだが、明けて5日になったならばやっと晴れたので、書簡下書(一) にあるように「やっと勢いもつきあちこちはねあるいて居」たということで、賢治は伊藤七雄宛の書簡にかくの如くしたためたという図式になるのではなかろうか。
となれば、「澱った光の澱の底」の中の連
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
の中の「さああしたからわたくしは」の「あした」もまた7月6日となろう。そして、それは自ずから、賢治が「澱った光の澱の底」というタイトルの詩を詠んだのは7月5日であろう、ということを導き出す。
以上のような推論によって、『阿部晁日記』に基づけば
賢治が「澱った光の澱の底」というタイトルの詩を詠んだのは7月5日である。
となるのではなかろうか。これが先に
賢治が「澱った光の澱の底」というタイトルの詩を詠んだのは7月上旬、それも7月5日であろう。
と主張した私の根拠である。また、よしんばこれが違っていたとしてもその日にちのずれは1日程度であろうと考えられる。それは、賢治にも多少の虚構があり得るし、私の場合はあくまでも推定だからである。さりとて、それ以上の日にちのずれは殆どあり得ないであろう。農繁期の空白の1ヶ月
これまでのことからは、
賢治は昭和3年6月の「大島行」を含む3週間弱の滞京から帰花した後も10間ほど、つまり7月4日頃までは「少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました」。
ということになろう。そしてまた、 7月5日から賢治は「やっと勢いもつきあちこちはねあるいて居」た。
ということになるのではなかろうか。それにしても、私のこの見立てが仮に正しいとしたならば、
昭和3年の賢治は農繁期に3週間弱の上京による空白を作っただけでなく、農繁期にもかかわらず稲作指導をしない約1ヶ月間の空白を作ってしまった。
ということになる。おそらく、後々賢治はこのことを振り返って忸怩たるものがあったに違いない。というのは、後に賢治が伊藤忠一に宛てた書簡の中で
殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
と悔恨していることの一つの典型的な事例だと私には見えるからである。一方で、「勢いもつきあちこちはねあるいて居ります」と伊藤七雄に伝えた賢治にとっては、下根子桜での生活はもはや1ヶ月ちょっとしか残されていなかったことにもなろう。昭和3年8月10日に実家に戻った賢治は二度と下根子桜に戻ることはなかったようだからである。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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