宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

192 花巻祭りと屋形山車

2009年09月22日 | Weblog
 花巻祭りは鳥谷崎神社の祭礼であるというが、その鳥谷崎神社から円城寺門の前を通って道を西方向に進むと、左手に
《1 屋形山車収蔵庫》(平成21年9月14日撮影)

が現れる。そのそばに建っている
《2『花巻まつりと屋形山車』案内板》(平成21年9月14日撮影)

には次のように案内されている。
花巻まつりと屋形山車
 花巻まつりは、花巻開町の恩人北信愛(松斎)が、出陣に際し観音さまをまつり戦勝を祈願したことが始まりとされています。
 この観音まつりは、北松斎が死去した慶長十八年(一六一三)以降は松斎祭りとも呼ばれ、江戸時代を通して稗貫・和賀二郡の祭りとして催されていました。
 明治の廃仏毀釈によって、観音祭りは一時中止されましたが、その後、鳥谷崎神社の祭礼として復活した花巻まつりは、高さ十三メートルの屋形山車を擁する豪快なものになりました。
 この明治の屋形山車の製作は、当時の豪商たちが費用を出して、名工高橋勘次郎や宮沢菊松が設計し、祭り師の渡辺弥四郎・高橋伝次郎・高橋(名が消去されている)たちが人形や花・波を製作したものでした。
 こうした屋形山車は、岩手は言うに及ばず、東北屈指の山車として名声をはせ、その担ぎ手となることは、誇りと、名誉をともない遠くからも担ぎ手として参加したものでした。
 大正時代になり、街に電線が張り出されると、豪壮な屋形山車は丈の低い風流山車に姿を変えました。
 明治期、惜しまれながら姿を消していった屋形山車、その豪快な山車が、開町四〇〇年の平成四年、高さ十三メートル、総檜づくりの豪華な山車として蘇りました。

 そこで、その収蔵庫の中の山車を以前から見てみたいと思っていたのだが、花巻まつりの行われた9月13日収蔵庫前を通りかかると、嬉しいことに屋形山車が公開されていた。
《3 屋形山車》(平成21年9月13日撮影)

その大きさは五所川原の立佞武多には及ばないにしてもかなりの高さだ。
 因みに、『花巻の伝説』(及川惇著、図書刊行会)によればこの山車は花巻開町370年祭にあたって郷土史家及川雅義の考証に基づいて復元されたもので、花巻城夜戦の体をあしらっているという。そして、この屋形山車の上段の中央に控えているのが北信愛(松斎)で、下段左側の白馬にまたがっている武将は
《4 和賀忠親》(平成21年9月13日撮影)

で、一揆勢の首領だあったという。
 少年宮澤賢治はこのような屋形山車が運行された”み祭(花巻まつり)”を何度か見ていたのだろう。

 なお、次が今年運行された山車の中のいくつかである。
《5 風流山車》(平成21年9月13日撮影)

《6 〃 》(平成21年9月13日撮影)

《7 〃 》(平成21年9月13日撮影)

《8 〃 》(平成21年9月13日撮影)

《9 〃 》(平成21年9月13日撮影)



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