宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

193 『四っ角山』について

2009年09月22日 | Weblog
 いままでは”四っ角山”とは花巻城址全体のことかと私は安易に思っていた。
 ところが、宮澤賢治の
短歌 一八一
 しろあとの四つ角山につめ草のはなは枯れたりしろがねの月
<『校本 宮沢賢治全集 第一巻』(筑摩書房)より>
の中の”四つ角山”及び同じく賢治の童話『マリブロンと少女』
 城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になって、畑の粟は刈りとられ、畑のすみから一寸顔を出した野鼠はびっくりしたやうに又急いで穴の中へひっこむ。
 崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐる。
 その城あとのまん中の四っ角山の上に、めくらぶどうのやぶがあってその実がすっかり熟してゐる。
 ひとりの少女が楽譜をもってためいきしながら藪のそばの草にすはる。
 かすかなかすかな日照りの雨が降って、草はきらきら光り、向こふの山は暗くなる。(後略)

  <『校本 宮沢賢治全集 第九巻』(筑摩書房)より>
に”四っ角山”が出てくることを知って、宮澤賢治の言うこの場合の”四っ角山”は”城あとのまん中”にあるものだということを知った。
 そこで、花巻城のどの辺りに”四っ角山”があったのかが気になって何人かの年配の人に訊いたみてきたところ
 『いまはなくなったが、花巻小学校内、武徳殿の側にこんもりと土を盛った所があってそこのことだと思う。よくそこで遊んだものだ』
ということだったが、正確には場所を特定できないでいた。
 ところが、たまたま過日花巻市役所の前にある
《1 花巻城時鐘》(平成21年9月14日撮影)

に立ち寄ったところ
《2 その案内板》(平成21年9月14日撮影)

には
  花巻城時鐘
 生保三年(一六四六)南部二八代の城主重直公が、お城の時太鼓を鐘に改めた時、盛岡時鐘としてつくったのであるが、小さいので花巻城に移したものである。
 明治維新前までは、二の丸の俗称四角山(現花巻小学校敷地内)に在ったが、現在は追手御門の向いに当たる位置に移し、午後六時に打鐘して市民に時を知らせている。

とあった。
 また、同じくそばにあった
《3 花巻城概念図》(平成21年9月14日撮影)


《4 一部拡大》(平成21年9月14日撮影)

すると、武徳殿の左上に鐘楼らしき建物が見える。
 そこで、鳥谷崎公園西御門の前に行ってみたならば
《5 花巻城本丸跡案内板》(平成21年9月14日撮影)

があったので
《5 一部拡大》(平成21年9月14日撮影)

すると、”鐘楼堂下御堀”とあり、そこに鐘楼の建物が描かれている。したがって、この地図上では”四っ角山”の場所が特定できた。
 あとは、現在はどの辺りかということが残された疑問であるが、それが悩み。悩みながら花巻小学校前を通ったならば次のような
《4 花巻城めぐりの案内板》(平成21年9月14日撮影)

が建ててあり、同じく
《5 一部拡大》(平成21年9月14日撮影)

してみるとそこには”鐘堂(四角山)跡”と記されている。たしかに、花巻小学校の校庭内の北東隅、武徳殿側に”四角山”があったのだ、と得心した。
 したがって、前述した賢治の作品に出てくる”四っ角山”とは、かつて花巻城二の丸にあった鐘楼のあった場所、言い換えれば、明治維新前には時鐘があった場所で、賢治が生きていた頃にはそれが移転されてしまった鐘楼の跡地の四角状盛土であろうことがことがこれで解る。
 因みに
《6 現在の花巻小学校校庭》(平成21年9月19日撮影)

《7 校庭北東方向の隅》(平成21年9月19日撮影)

《8 そのそばの盛土》(平成21年9月19日撮影)

に上がってみた。
《9 盛土の上から見下ろしたその隅》(平成21年9月19日撮影)

そして、そのまま真っ直ぐ下りて
《10 逆方向から見た盛土》(平成21年9月19日撮影)

である。よく見ると、(上の写真の右端に)標識あり
《11 鐘搗堂前御堀》(平成21年9月19日撮影)

と記されている。これが前述の”鐘楼堂下御堀”のことだろう。ということは、この盛土が”四っ角山”の名残なのだろう。
 そこには
《12 しろつめくさがまだ咲いており》(平成21年9月19日撮影)

《13 おほばこは実を結んでいるものもある》(平成21年9月19日撮影)

し、城あとには
《14 めくらぶどうが沢山色づいていた》(平成21年9月19日撮影)



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