宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

507 「賢治昭和三年の蟄居」のまとめ

2013年08月02日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 では、ここまで述べてきたこのシリーズをまとめ、現時点での結論を述べてそろそろその終わりにしたい。
「演習」と「陸軍特別大演習」
(1) 以前から私は、賢治の澤里武治宛昭和3年9月23日付書簡「243」の中の
   演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)259pからより>
が気になっていた。この「演習」とはなんぞやと。
(2) それがあるとき気付いた、これではなかろうかと。それは『啄木 賢治 光太郎』で述べられていた
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
に出てくる昭和3年に花巻でも大々的に行われた「陸軍(特別)大演習」のことではなかろうかと。
(3) なぜならば、この人物川村尚三とは、昭和2年の夏から秋にかけて賢治と「交換授業」をやった人物でもあったからである。そして、翌昭和3年10月の「陸軍特別大演習」を前にして「県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた」際にこの川村尚三が刑務所に放り込まれたことになる。
(4) そしてもう一人、八重樫賢師なる若者がいた。それは、
 八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
という人物であり、この若者が北海道の函館に奔ったのも昭和3年の8月頃だったと聞く。
(5) さらに、この「陸軍特別大演習」を前にしてもう一人の人物平井直衛は「社会主義の種をまく 赤の名で盛岡中学校を追われる」ということで、昭和3年8月に盛岡中学の教師の職を奪われていることも知った。
帰納的推理による帰結
 となれば、これらの(1)~(5)から帰納的に推理すれば、この「陸軍特別大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」の際に賢治も特高等からマークされない訳はない、ということは必然的な帰結であろう。
 まして、小舘長右ェ門によれば
 宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。
ということだし、そもそもこの小舘にして「労農協議会に属し、最も戦斗的な小舘長右ェ門が八月無産運動により逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む」(『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~)という。
 八重樫賢師が函館に追われ、小舘長右ェ門が小樽に逃げ、平井直衛がその職を追われたのはいずれも昭和3年8月頃であるし、その頃に刑務所に放り込まれた川村尚三とは「交換授業」等を通じて相当接触していたし、八重樫賢師に託して労農党稗和支部の運営費を出していた賢治が特高等から圧力を受けなかった訳はない。
現時点での結論
 そこで賢治はどうしたか。多くの「賢治年譜」には昭和3年8月のこととして
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、帰宅して父母のもとに病臥す。……☆
となっているが、はたしてそうだったのであろうか。
 ここまで考察してみての私の結論は、その当時の真相は
 昭和3年8月10日に実家に戻った賢治は実はたいした熱があった訳ではないが、主治医佐藤長松博士に頼んで「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにし、菊池武雄等の友人が見舞に来ても面会を謝絶していた。ただし賢治の療養の実態は、たいした発熱があった訳でもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしいた。
であり、なぜ賢治がそうしたのかといえば
 賢治がその時実家に戻った真の理由は、「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためにであり、賢治は病気であるということにして実家に戻って謹慎するための、蟄居であった。……◎
というものである。
 例えばそのことは、
 ・当時、「陸軍特別大演習」を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われた。
 ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
 ・賢治は川村尚三八重樫賢師と接触があった。
 ・当時の気象データに基づけば、「風雨の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」はなかった
 ・当初の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない
という「事実」からだけでも導かれるのではなかろうか。
 そしてなによりも、教え子澤里武治に宛てた昭和3年9月23日付書簡「243」の中で
   演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
と賢治自身が伝えている一言がそのことを示唆してくれている。
 この「演習」とは「陸軍特別大演習」のことであり、この一言の意味は
 陸軍大演習が終わるまでは羅須地人協会には戻れない。そしてそこに戻ったにしても今までのような活動は許されないことになったので、活動は創作を主とする。
であると解釈出来るからだ。
 なお残念なことに、このように教え子に伝えた賢治だったのだが、陸軍大演習が終わった頃にはそれこそ本物の病魔に犯されてしまって病臥、賢治が再び羅須地人協会に戻ることは出来なかった。どうやら、これが羅須地人協会の終焉、その真実であろう。
賢治も人の子
 そういえば、澤里武治宛書簡「243」の中で
休み中二度もお訪ね下すったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)259pからより>
と賢治は教え子の武治に悔いている訳だが、あの伊藤忠一の証言
 あの頃は私も年が若くて、どのくらい体が悪いんだか察しもつかないで、また良くなればもどってくるだろうぐらいに思って、そのまま別れてしまいあんしたが、それっきりあとは来ながんした。
               <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37pより>
に基づけば、そのようなことを賢治が黒板に書けないほどの病状だったとは思えない。
 それよりは、賢治はもともとそのようなことを書く訳にはいかなかったのだと考える方が自然なのかもしれない。賢治は天才だから思い付いたら果敢に実行に移すという性向が際立っていると思うが、これも天才の性向の一つだと思うが諦めもまた早い。ここは賢治も人の子、川村尚三や八重樫賢師が特高から厳しい取り調べや圧力を受けて捕まったり、函館へ奔ったりするのを目の当たりにして、賢治は自分も同じような状況に追い込まれるかも知れないという不安や焦燥を当然抱いたであろうこともあながち否定できない。自分もそのようなことから逃れたかったというのが賢治の本音であり、それ故にあの黒板には始めから「豊沢町に居る」等ということは書くつもりがなかったという可能性もない訳ではないと考えるのが自然なのかも知れない。
愛すべき賢治に
 一方で、私がここまで述べてきたようなことは従来の賢治像からはかなり逸脱しているから、私見に対する批判も数多あるであろうことは十分承知している。がしかし、私がここまで展開してきた拙論にも多少の真実はあるのではなかろうかという自信もない訳ではない。
 ちなみに私が八重樫賢師であったならば同じように行動したであろうし、関連して賢治のとった一連の言動も普通の人間ならば十分にあり得ることだろうと私には思える。だから逆に、そのことは賢治像にとっては相応しくないということであるという思いが従来の賢治年譜における〝☆〟を創らせてしまったということはないのだろうか。しかし、少なくとも残されている証言等から導き出される帰結は、〝☆〟であるというよりは〝◎〟であるということの方がはるかに合理的ではなかろうか。
 奇しくも今年は賢治没後80年であるから、そろそろ創られた賢治を本来の賢治に少しでも近づけるに相応しい時機なのではなかろうかという想いが私には強い。創られた賢治はあまりにも聖人君子過ぎて凡人には近づけない。しかし、「下根子桜時代」の賢治を調べた限りにおいては、賢治にも凡人と同じようなところが少なくない。
 そもそも、仮に賢治像としては「不都合な真実」がそこにあったとしても、そのことが明らかになることによって賢治がさらに評価されこそすれ賢治の評価が損なわれることはないと私は確信しているし、多くの人々もそう思っているではなかろうか。それどころか、それまで以上に賢治のことを私達は理解できて、賢治に近づけるようになると思う。そのような賢治は真実の賢治だからであり、その方がはるかに愛される賢治なのではなかろか。そして、そうなれば今まで以上に賢治から学ぶことが多くなるのではなかろうか。
 また一方で、宮澤賢治自身こそが一番、創られた己が姿などは望んでいないだろうということも私は確信している。ひたすら求道的な生き方を探ったはずの賢治にとって何が一番かけがいのないものかというと、それは「真実を求め続ける姿勢」だと私は思うからである。
 だからそろそろ、
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
移行するに相応しい時機がやってきているということなのではなかろうか。

 これで、このシリーズは取り敢えず終わりとしたい。

 『賢治昭和三年の実家蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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