宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

385 賢治に肥料設計して貰った千葉恭

2011年07月11日 | 賢治と一緒に暮らした男
                  《1↑ 千葉家のお墓》(平成23年6月16日撮影)

 嬉しいことに千葉恭のご長男とその奥様にお会いできた。
 そして今はその田圃はなくなってしまったが、かつて千葉恭が宮澤賢治から肥料設計した貰ったと考えてよい田圃のあった辺りを教えていただき、千葉家の墓地を案内して貰いお墓参りをさせていただいた。
《2 千葉家の墓石に〝千葉恭之建〟と》(平成23年6月16日撮影)

《3 千葉家の田圃のあった辺り》(平成23年6月16日撮影)

《4 千葉恭の住んでいた家》(平成23年6月16日撮影)

いまはこのお家には誰も住んでいないということであったが、
《5 屋敷に聳えるエンジュの大木》(平成23年6月16日撮影)

が千葉恭のことを偲ばせてくれた。

 今回千葉恭のご長男ご夫妻からいろいろなお話もお聞きできた。
 基本的には千葉恭は子供達に対しては賢治に関して断片的なことしか喋らなかったということだが例えば、
・朝賢治は早く起きてお日様に向かってお経を上げていた。
・その間父(恭)は杉の葉でお湯を沸かしていた。
・父(恭)は賢治の実家によく使いに行った。
・賢治の母は父(恭)に対しても礼儀正しく、丁重であった。 
などということを喋っていたと。
 特に、印象的だったのが
・父(恭)はトマトがとても嫌いでした。
ということである。
 ご長男の奥様が美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういう訳かお義父さんは全然食べなかったという。その理由が後で分かった、お義父さんが賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがないときにトマトだけを食わされたことがあったからだったと。
 たしかに〝千葉恭から見た賢治〟で触れたように
 米のない時は”トマトでも食べましよう”と言つて、畑からとつて来たトマトを五つ六つ食べて腹のたしにしたこともあつた。
ということや〝「宮澤先生を追つて(三)」〟で触れたように
 開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。
と語っている千葉恭であれば気の毒であり、さもありなんと思ってしまった。

 とまれ、千葉恭が宮澤賢治から肥料設計の指導を受けていたことをほぼ確認できたことはとても収穫であった。

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