拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 浮世の美

2021年09月09日 | ヨーロッパの風

  タンデム(地元の日仏語交流会)で知り合った猪武Yvesさん(フランス人)の展覧会『心揺さぶる浮世の美』を観てきた。

  EPFL(ローザンヌ連邦工科大学)で研究者として働いている…と聞いていたが、こういった『微妙』な画とは知らなかった。

  彼の絵はシュールレアリスムが基調になっていて日本文化と西洋文化が混在している実に『奇妙』な作品だった。

  絵もどこか稚拙さを感じさせるが、それがかえって非現実味を増すように全作品的に統一され奇妙さを増殖している。

  ギャラリーはローザンヌのフロンという場所で、若者が集まる所として注目されている一角にある古い倉庫をギャラリーにした天井の

  高い空間に『浮世の美』が配され、私達が訪れた時、裏庭に続く戸口が開放されて、木もれ陽にキノコ群が異様な模様に光って見えたのも

  彼の作品のせいだろうか。

  日本へ行ったのは、その昔仕事の関係で2週間だけだったそうであるが、以来日本文化に魅せられ、彼の画に『和』の要素は必須となっている。

  『浮世』などというあやふやな言葉はあやふやな日本にしか存在できない ・・・モノなのだろう。

        

              7〜12 Septembre Espace démArt ( Flon, Lausanne )

  そんな怪しい雰囲気で彼の肖像を撮ってみようとこんな構図で撮ってみたが、

  彼自身はちっとも『奇妙』でなく、むしろ生真面目なのが・・・浮世の美を成立させているに違いない。

  『AI』とか『IT』とか、彼も日常普通の人以上に接している環境にあってその真逆の『曖昧』な世界に魅せられるのだろうか。

 

  


 ピアノ・コンクール

2021年09月03日 | ヨーロッパの風

  私自身は、だいたい隔週ぐらいで相方の両親宅を訪ねるが、今日行くと、義母が今ローザンヌの東隣りの街Veveyヴェヴェイ

  で行われている有名な国際ピアノ・コンクールでファイナルに残ったのが韓国人一人と日本人二人であることを教えてくれた。

  『クララ・ハスキル国際ピアノコンクール』といってピアニストにとって登竜門となる有名なピアノコンクールらしい。

  2年おきに行われるコンクールで、今年は133人の応募者の中から24人に絞られ、明日の最終コンクールにアジア人が

  3人残ったというのだ。

  クララ・ハスキルの名前だけは聞いたことがある…程度の知識なので、ちょっとウィキペディアで調べると

  1895年ルーマニア生まれ。パリでピアノの指導を受けていたが、フランスの政権がナチス化するとスイスに逃れて来たらしい。

  1950年頃だから、彼女が55歳ぐらいからヨーロッパで知られるようになり、カザルス、カラヤン、チャップリンなどとも交友が

  あった。ただ生まれつき虚弱体質で演奏活動はそれほど活発ではなかったようだ。

  その彼女の遺功を偲び1963年より長年滞在したVeveyの街で彼女の名を冠したピアノコンクールが2年おきに行われるようになった。

  優勝者は250万円相当の賞金とのこと。明日、9月3日。韓国人女性と日本人の男性、女性の計3人で競い合う。

  西洋の伝統音楽のコンクールで日本人や韓国人が頑張っている・・・のも面白い現象。(そういう考え方自体がもうすでに古いのかも…)

         

          Veveyというと、この私の作品『ドラゴンボール』を撮ったときのことを思い出す。

          初めてVeveyに来てこの像を見たとき、私の知っているドラゴンボールが、こんな処に『ある!』と感激したものだ。


 スイス・ナイトフィーバー!!

2021年06月29日 | ヨーロッパの風

  本来なら、去年2020年開催予定であったサッカー・ヨーロッパ杯第16回がコロナ禍のために、

  今年になり今現在ヨーロッパ各地に分散して行われている。

  コロナ、コロナと騒いでいる昨今だから、サッカーの国際試合が行われていることもしらなかったが、

  最近、時折そとでクラクションの音がして・・・あぁ〜っサッカーやっているのか…と気づいた程度のサッカーフアンで

  その日の夜、たまたまスイス対イタリアのゲームがあるというので観戦したが、3−0という惨めな負けに、相変わらずスイスは弱い・・・とガッカリ。

  何日か後にスイス対トルコがあって、スイスが3−1で勝ち、へーっ・・・と思い、昨夜のスイス対フランスを奇跡があるかも…という

  かすかな希望をいだき、相方ニコルと観戦することにした。

 

  サッカーのことを、フランス語ではフットボールといい、略して『フット』と一般に言っている。

  で、どこかの国が勝つとその愛国者達がクラクションを鳴らし、国旗を振りながら車を乗り回すことが、ヨーロッパの習慣となっていて

  結婚式の時とサッカーに勝った時のみ許されている行為だ。

  サッカーの国際試合は、4年おきのワールドカップと同様に4年おきのヨーロッパ杯が2年毎に行われるので、案外しょっちゅう夜にクラクションを

  鳴らしながら街中を徘徊することが、一種のヨーロッパ風物詩的事柄となっていて、私がスイスに移住した1991年の翌年1992年にヨーロッパ杯があって

  その時初めてローザンヌの街中をクラクションを鳴らしているのを見て、(いつもスイス以外の他の国ポルトガルやイタリアやスペイン、ドイツなど)

  この風習にとてもヨーロッパを感じたものだ。

 

  昨夜の『スイス対フランス』戦は・・・スイスにとってサッカー史に残る素晴らしい…というか、奇跡的な試合であった。

  前半スイス1点リードで終わったが、後半フランスが巻き返して60分代で 1−3と2点リード・・・この時点で『あぁ〜勝負ついたか…』と誰もが思ったが…

  80分代でスイスが2点入れて 3−3 になったのだ!!延長30分でもケリがつかず PK戦となったが、その時フランスの黒人アタッカー、ムバッペの顔が

  アップで放映され、その表情を見た私は『 こりゃー、フランスはだめだ…』と直感!

  案の定というか、PK戦でスイス、フランス各5人が蹴ったが、フランス側最期に蹴ったムバッペのボールだけが、スイスのキーパーに阻まれる結果となった。

  かくして、スイスは歴史上初めて準々決勝に勝って準決勝へ進んだ!! それはちょうど夜中の零時頃であったが、狂喜乱舞したスイスの若者たちは

  車にスイス国旗を旗めかせるべく路上へと繰り広げては、ローザンヌの中心街に向けて喜びを分かつためにクラクションを高らかに鳴り響かせるのであった。

  それはまるで、『コロナ禍』の終焉を告げるかのような・・・これまでの自粛ムードを吹き飛ばすかのような・・・(どうか錯覚ではありませんように!)

               

              我がアパートの眼下に伸びる道路。夜中とは思えない沢山の車がクラクションを鳴らして中心に向かう図

              こういった風景も引っ越すと見えなくなるので、ラスト・フット・クラクション・・・でもある。

  さて、次なる試合は スイス対スペイン… 第二の奇跡は起こるだろうか? 7月2日金曜日である。(これまで期待させては、失望させられていたが・・・)

  

  


 一本 ! 

2021年05月12日 | ヨーロッパの風

  先日20年ぶり?に、地元ローザンヌにあるオリンピック博物館へ行ってきた。

  観光ガイドだった20年前は年5,6回ほど、日本人グループを引き連れて入館したものだ。

  この20年間の、映像展示技術の進展で展示内容の精密さと視聴覚施設による圧倒的迫力は、昔の比ではなく、改めてオリンピックの歴史や、展示物の

  由来などに興味をいだいた。

  ローザンヌ市にIOC本部やオリンピック博物館がある理由は、かのクーベルタン男爵がローザンヌに住んでいた…からである。

  『オリンピック精神〜スポーッを通じて、友情、連帯、フェアープレイの精神を培い相互に理解し合うことにより世界の人々が手をつなぎ、世界平和を目指す。』

  この精神のもとに『より速く、より高く、より強く』を競う、4年に一度行われる世界の人々の祭典・・・であるはずであった。

      

       2021年の東京オリンピックに合わせた、特別企画『日本漫画とスポーッ』で、ボクなんかは泣いて喜びそうな、懐かしい漫画たち。

       現地のヨーロッパ人には新鮮でカッコいい主人公らが顔を揃え、日本精神の何かを読み取れる…楽しい展示となっていた。

 

  それが、コロナ禍で東京オリンピックが行われるのか?行われないのか? 5月も半ばになるというのに決められないでいる日本。

  私からみれば、安倍前首相がこのオリンピックを招致する際に『フクシマ原発については、完全にコントロール下にあります!』…と宣った瞬間、

  このオリンピックは呪われたものになってしまったのだと信じて疑わない・・・。『復興五輪』と銘打ってフクシマを担ぎ出す格好をパフォーマンス

  して見せながら、復興も徹底せず、どころか原発の再起動に躍起になっている現内閣、それに対して明確に反対できない立憲野党などを見ていると

  呪われても当然とも思える。

  コロナ禍が起きるだいぶ以前、オリンピックに反対した国会議員は山本太郎、たった一人であったことは決して忘れることは出来ない。

  オリンピック博物館に展示してある漫画の中でも、大変懐かしいものの一つに『柔ちゃん』がある。

左画面は、その柔ちゃんの『一本背負い』  右画面は明日69歳になる私が柔ちゃんの一本背負いで投げ飛ばされている最中の場面なのだ。

中学の時、私は柔道クラブに入っていて、最初の試合で背負投で見事に投げられ、それを見事な受け身で受けた時、我ながら『お見事!』と自分を褒めた思い出がある。

  

   


 わが庭にも春が来た

2021年05月04日 | ヨーロッパの風

  35年前に2度目にスイスに来た時、相方になる前のニコルに、禅の素晴らしさを伝えたいがため『レマン湖は誰のもの?』・・・みたいな臭い質問した。

  その口が今では、何でも『我が・・・もの』になっている。週に3回は行っている近所の我が公園、先日まで『赤ちゃん若葉』だったのが、久しぶりに行ってみると

  うわ〜という勢いのある青々した若葉に成長していたうえ、その横の芝生地帯に今年はチューリップを植えられたようで、その様の美しいこと・・・。

 

  コロナ禍2年目の春だというのに、情け容赦なく春は来たのだ…。

  そういえば、明日は対新型コロナワクチン、ファイザーの第二回目接種の日、二回目は熱が出たり、だるくなる人がいるそうだが、どうだろうか・・・

            

              赤、みどり 無常のこの世 色づける コロナ2度目の 春のなすわざ  一撮

        

  


 般若ちゃんは3歳になった〜その2

2021年04月29日 | ヨーロッパの風

  般若ちゃんの話は前回で完結…と思っていたが、いやいや、ちょっと書き忘れていた大事なことがあった、と思い出した。

  というのは、まぁ噂では聞いていたが、実際にこの眼で見た…という衝撃、というと大袈裟なようであるが、私の幼少の頃と

  比較すると、私が般若ちゃんの家で見た光景は『衝撃』に値するものであったのだ。

 

  私の子供の頃の家は、二部屋で母と6歳上の姉と私の3人で住んでいて、もちろん自分の部屋なんてなく、せめて・・・という感じで

  私の寝室は『押入れ』でプライベート感をだして満足していた。なんせ、母は私を産んでから体調を崩し、私をよそへ預け、姉は

  しばらく孤児院のようなところに入れられた。というのは父は一体何を考えていたのか?私達をおいて『蒸発』してしまったのだ。

  バラバラになっていた家族が父を除いて、一緒になったのが私は小学校へ行くために親権のある実母の元に戻って来た時であった。

  私はそれまで、預けられていた『菊池の母さん』と呼んでいた里親の家で暮らしていたのだ。

  まぁ、病弱の母は継続して働くことが出来なかったので、母子家庭の我が家は生活保護を受けていた。

  家には水道がなく、10mほど離れた外の水道場からバケツで運んで家の水瓶にいれるという状況で、当時でもそんな家は珍しかった。

  間違いなく貧乏であったけれど、里親の家と実の親の家を小学校へ行っている間、毎日のように行ったり来たりしていた為か

  私自身は私の家がそんなに『貧乏』であることが、分からなかったし、気にしたこともなかった。

 

  それで本題にもどると、般若ちゃんの誕生日に招かれて、彼女のお部屋を見せてもらったのだが、

  実は彼らの部屋の作りは、2つ階上の我々の部屋と全く同じであったから、よくわかるのだが、般若ちゃんの部屋は

  私の書斎にあたる部屋で、日本間で言うと8畳間ぐらいだろうか、そのスペースの部屋が3歳の般若ちゃんの部屋に

  割り当てられている…ことに、私は『衝撃』を受けたのだ。ヨーロッパでは子供が生まれると、即一室を割り当てられると

  聞いてはいたが、実際にその事実を眼にすると、改めて驚いたのだ。というのは、その若夫婦に残されている部屋は

  寝室と居間とキッチンで、大人達がプライベートで使う部屋というのは無い・・・。

  この部屋の一件で、私は西洋人の子供に対する『教育』への意気込み…を見せられた気がした。

  私は、今の日本の若夫婦の現状というのが全く知らないので、案外その点も西洋化して似たような状態になっているのか

  わからないが、そのことに私に強く印象に残ったのだ。

  コロナの為に、そこの若旦那は仕事は現在リモートワークで、一日中小さな子どもがいる家での仕事は

  大変で、早く会社で仕事をしたい…とこぼしていた。

        

  この写真は近くにある公園の18個ある、絵本ならぬ童話彫刻の一つで、眼で楽しむだけでなく、眼の不自由な人達も

  触って物語を楽しめる、大変ユニークで優れた作品となっている。大人も子供と一緒になって、大切な何かを学ぶ…公園


 般若ちゃんは3歳になった

2021年04月27日 | ヨーロッパの風

  先日、同じアパートの3階に住んでいる、ハナちゃんと言う女の子が3歳の誕生日を迎える・・・というので、相方が本屋さんで選んだ

  絵本とカードゲームをプレゼントしたところ、若いご両親が大変喜んで、その日の午後のティータイムに招待してくれた。

  我々のアパートには10世帯の住人がいて、まぁ、時々階段ですれ違いに挨拶する程度の関係であるので、招待を受けるというのは稀である。

  だいぶ前から、3階に若いカップルが住みだして、赤ちゃんが出来、エレベーターがないので、地上階にベビーカーが置いてあるのをよく見かけた。

  私も何回かすれ違っているはずであるが、ほとんど瞬間の間なので、あの赤ん坊がいつの間にか、3歳になっているとは・・・という感慨を持って

  彼らのアパートを訪ねた。

  この若夫婦は二人共オリジナルはポーランド国籍であるが、旦那の方はスイス生まれ、奥さんはポーランド生まれ育ちの美人である。

  馴れ初めは旦那が、サッカーのワールドカップ試合を見にポーランドへ行った時、出会ったそうだ。旦那の職業はコンピュータープログラマーで

  そのせいではあるまいがスノーデンに似ている気がして…ちょっと話している時気が散ってしまった。

  3歳になったハナちゃんの方は、奈良美智氏が描く少女像にそっくりで…それが気になって、自分の仮想現実に半ば入っていた気がする。

    奈良美智氏の作品より

  私からは『ハナちゃん』へ右側の『拈華微笑』のつもりのカードに

  『ハナちゃん、誕生日おめでとう。ハナは日本語で『花』を意味し、人生の目的もいつの日か、心に自分の花を咲かせる…ことだよ〜』

  みたいな感じの言葉を贈った。・・・そしたら、『ハナちゃん』というのは相方の聞き間違いの名前で本当は

  『ハンニャ』ちゃん…ということであった。私はそれを聞いてビックリ!

  『ハンニャ』ということは、『般若』かいな?・・・それは私にとって『摩訶般若波羅蜜多心経』の般若で『智慧』のことなのだ…

  3歳のハンニャちゃんは、自分の好きなパズルゲームを持ってきて、私の方をチラリ、チラリと目線を送ってくる。

  『ああ、パズル〜いいね〜』と言うと、照れたまま顔を後ろへ向けてしまう。

  テーブルについて一緒にケーキを食べるときも、『カワイイ〜ね』と声をかけると恥ずかしがって180度首を捻って反対向きになる。

  大人だと絶対しないであろう?雲隠れの術、いや首回しの術で鮮やかに消え去った『ハンニャ』ちゃんの智慧の深さに恐れ入ったのである。

  

  

 


 日輪刀、 コロナ春風を斬る!

2021年04月06日 | ヨーロッパの風

  スイスの『せっかち姉や』、ニコルの面目躍如、婆ば〜ネット力を発揮して、65歳以上に対して開かれた『コロナワクチン応募』

  に誰よりも早くネット手続きを済ませた結果、本日4月6日朝・・・無事、第一ワクチンを済ませた。

 

  私の日輪刀はPfizer(ファイザー)製であった。(悪さするコロナ(日輪)は日輪刀でしか斬ることができないのだ…)

  打たれ瞬間、『無感・・・』で、その斬れ味に恐れ入った。別なブースで打ったニコルも、何も感じなかった…そうだ。

  私は、海鮮類にアレルギー性であるので、注射後15分間の待機があって万一に備えたが、別状なく帰宅した。

  同日午後、だいぶ以前に申し込んでいた義父(90歳)が接種することになっている。

  驚くのは義母(91)歳で去年、骨折のため入院していた病院でコロナ感染した義母は、入退院を繰り返したにも関わらず

  元気を取り戻し、自宅で過ごし、免疫があるのでワクチンは必要がない状態である。

  まぁ、私も接種したのが4時間前であるから、その後どういった反応があるのか、ないのか分からないが

  次回5月上旬で2回目が済めば・・・水戸黄門の『印籠』如く、携帯に収めた『接種証明書』を天下に示しつつ、自在の生活に入る覚悟である。

       

         一度使用したマスクは即捨てる相方、貧乏性の私は最低3日は使用・・・

        写真は、沢山の人を流れるようなシステムで受け付ける州中央病院にて。

  


  花見散歩

2021年04月04日 | ヨーロッパの風

  哢人(ろうじん)・・・この際の『哢』とは(さえずる…の意味)

  自分等、老人=シニア世代を書き表して『老人』というのは、なんだか情けない、せめて口だけ達者な『哢人』でどうだろう!

  うちの相方はまさに『哢人』で一日中さえずっていることだし… 。

  私自身は内弁慶ならぬ、ブログ弁慶で、他ではほとんど無口…というかフランス語がよく話せないし、自然、黙っていることが多い。

  で、哢人にとって『散歩』は非常に重要な日課である。私は妻を連れ出し、妻は私を連れ出し、四季の移ろいを体一杯に体感し

  四季をしっかり受け止めることは『哢人』の大切な役割であろうと思う。でなければ、誰がそれを味わう?

  昨日は非の打ち所のない、花見散歩日よりで、我々の知っている花の咲く処を散策した。

  私はこれまで他の日本人の如く、春になると『桜』が恋しく、スイスにも所々に桜はあるものの、何か違和感があり、やはり桜は

  日本でなければ・・・と、心で嘆いていたのだが、退職してからよく行く公園の見事な『木蓮』を毎年観察するにつけ、その高貴な

  佇(たたず)まいに、いつの日か打たれ、今では、私の中では『木蓮』は『桜』と同格か、あるいは仏の華『蓮』の一文字を含んでいる分、

  格上の『華』として昇格さえしている。

        

          『 花びらの 少し大きな 桜かな スイスを照らす 春の木蓮 』 一撮 (ローザンヌ駅の湖側の散歩道)

 

  久々に、オリンピック博物館入り口に続く道が公園で、行ってみてビックリ。流石、予算に余裕があるのか

  所々に展示してある、スポーッに関する彫刻と植物の絶妙な配置というかデザインは素晴らしいの一言。

  ただ、やるのかやらないのか今年の『Tokyoオリンピック』のノボリなども随所に展示してあり痛々しい。

  湖沿いの散歩道にあるいかにもスイスらしい(と言ってもスイスドイツ圏の伝統建築)家の庭にある見事な木蓮が咲いていて

  相方と『キレイ!』と言ったのが、そばをジョギングしていたご婦人が『そうでしょう!』と相づち打ちながら走り去った…

  と思っていたら、急に戻ってきて、『貴方たち、木蓮の前で写真とりましょうか?』と親切な提案!

  ジョギング中にわざわざ戻ってきて写真を撮ってくれるなんて・・・『仏の華』のなせる技であろうか・・・。⬇︎これがその写真

      

  


 3.11の刻印

2021年03月11日 | ヨーロッパの風

  10年目の『3・11』を迎える。

  どうなんだろう?私のように海外在住者(スイス)の持つ『3・11』の感慨と日本に住んでいる人達の感慨・・・

  この実際の距離と距離感…の違いは、現実面でも情報量の圧倒的格差からくる印象の違いもあるだろうし、

  遠いからこそ簡潔なものの見方が可能になり…(ならざるを得ない)大局的見地になれる。

 

  当時59歳だった一日本人のオヤジの私は、大津波が福島県いわき市を飲み込む様子を引っ越し作業する現場、お客様のアパートの

  テレビでただただ驚きの気持ちで見ていた。その翌日、12日に福島原発の1号機、14日に3号機、15日に4号機が爆発した・・・。

  大地震と大津波以外にも何か大変な事が起こった…ということだけで、具体的に何が起こったのかその頃は正直良くわからなかった。

  2011年の6月頃、私はスマートフォンを買い、ツイッターを始めることで、個人規模で発信する情報から大手メディアの情報まで

  様々なテーマのニュースを目にするようになった。メディアもツイキャスやFacebook、Youtubeと徐々に広がり、それまで全く

  関心がなかった政治の重要性と現日本の政治の杜撰さを知り、翌年2012年の衆議院選挙に生まれて初めて、日本から在外投票証

  を取り寄せて、60歳で初投票となった。

  そしてあれから10年の歳月が流れたが、日本は衰退するばかりだ。

  1991年に私は渡欧し、私は日本人であることを誇りを持っていたし、当時ヨーロッパ人も日本人に対して一目おいていたようだ。

  それが『3・11』を境に『先進国日本』が実は幻想の上に成り立っていた事実を、情報技術の発達にともない知る事となった。

  

  私たち夫婦には子供がいないが、何も知らずに生まれてくる子供達には、少しでも良い日本、良い世界、良い地球・・・を、

  と願わずにはいられない。

  『3・11』は恐らく多くの成人日本人にとって、『生き方の原点』になっているはずで、私達は常にその原点に立ち返って

  日本の事を考えてみる必要があるのだと思う。

      

       私の住む近くにある職業専門学校の入口に『11.03.11』…と日本を激励する刻印がなされていた。(2011年4月撮影)

  

  

  


  秘密の庭

2021年02月20日 | ヨーロッパの風

  2月下旬が目安だった飲食店閉鎖期間が、昨日スイス政府によって3月上旬まで延長され、3月1日からは商店(飲食以外の)は開業されることになった。

  どこの誰よりも…というか、カフェなしでは生きていけないタイプの人間である相方ニコルにとって、2ヶ月以上のカフェやレストランの閉鎖はかなり辛い事である。

  昨日は朝から久々の快晴にめぐまれ、予報では10度まで気温が上がるとのことで、ニコルの好きな中世の教会のある村へ散歩に行くことにした。

  私には珍しく、気が進まない方角…がこの村で、ニコルが提案する都度に『えーっ・・・』と思うが、月一回ぐらいだし、電車で短時間で田舎の良さ… 木々や小川

  馬や牛が放牧してあり、農家が無人の売店を開いてチーズ、ジャム、ハチミツ、野菜…などを販売していて、別に反対する理由が特にないのであるが…。

  で、今日は村の奥ににあるパン屋さんがオープンしているのを電話して確かめていた相方、そこでコーヒーとパンを買って、外のどこかで食べよう…というささやかな計画。

  ロマンモチエという村に着き、『三途の川』…という私の付けたニックネームの小川に沿ってする散歩は、毎回『楽園』を私に思わせ、三途の川…という陰気とは正反対に

  楽しげで活発な小川の流れは私達の眼と耳をじつに清静としてくれる。

  30分ほどで、村につき、スイスで最古のロマネスク様式建築であり、最古の修道院…である教会すぐ横のパン屋兼カフェへ直行。(花より団子!)

  コーヒーと評判のスコーン(小丸のパン)2個を買いに行った相方は、売り子の女性から『他の人には内緒ですよ…』と、丸テーブルと椅子のある

  隠れテラスでお茶をすることを許してくれた。 それが ⬇︎ ここ。

            

                  新春の陽光を浴びてカフェ…する図   仁子と一撮 まさに『秘密の庭』であった…

  

  

  


  黄雨の砂

2021年02月12日 | ヨーロッパの風

  先週土曜2月6日、朝起きると空が異様に黄褐色・・・

          

  何事…と思って、携帯で調べるも何も出てこない。日本のツイッターとは違う。

  相方に聞いても『分からん…』とのこと。 ・・・昔、私が子供の頃こんな空を経験したのを思い出した…たしか火山の噴火だった。

  調べてみると1962年6月(私は10歳)、北海道の十勝岳が噴火、噴煙が高度12000mに達し、100kmしか離れていない北見地方の空は異様に暗く

  空を見上げると、目に砂入って痛かったのをよく覚えている。だから、今回もイタリアあたりの山が噴火したのでは?と思ったのだが。

  土曜の朝だったので、黄色っぽい街の市場へ相方と買い物にでかけた。小ぶりの雨で私は傘を持たず、ジャンパーのフードをしていた。

  歩いてしばらくすると、相方が私の黒っぽいジャンパーを指さして『あなた、砂がついているわよ』… 周りの人々も砂のついた傘を見たりして

  互いを見合ったりしている。すると、誰かが『サハラ砂漠から飛んできた砂だよ』、と言うのが聞こえてきた。

  後で帰宅しTVニュースで、この異様な色の空の原因が『サハラ砂漠の砂嵐による砂』であることが確認できた。

  私はこの夏でスイスに来て30年になるが、こんな経験は初めてで、コロナに次いで何か不吉な事が起こったのか?と危ぶんだが、違っていて良かった。

  しかし、考えてみるにこんなに凄い砂嵐だと、砂漠から間近のアフリカの人々の被害は大変なものであろう…と、アフリカのコロナ状況も合わせて考えると

  気の毒であった。 

  その夜、私はサハラ砂漠というのがどの辺であるのか知りたくなってグーグルマップで調べている内に、いつのまにかGoogle Earthになっていて

      

  私の住んでいるローザンヌのアパートから観えるレマン湖の方向の延長線上に地中海、そしてアフリカの砂漠がすぐ近くにあるのを確認して仰天。

  で、地球を上下反対にしてみると、あまりにもこれまでのイメージと違って観えることに本当に驚いた。

  なにより、自分がいま本当にヨーロッパに住んでいて、すぐ近くに私の前頭部のような禿た大陸が迫っている事をこのマップは示していた。

  これまで私の意識にアフリカの存在がなかった・・・。 それを『黄雨の砂』が私の肩を叩いて、思い知らせてくれたのだと思う。

  これからレマン湖を見る時、その先の地中海、さらにその先のアフリカの存在を忘れないようにしたい。


 只今、建設中…

2021年01月29日 | ヨーロッパの風

  私の辞書、というより我々夫婦の辞書には『建設中』…という言葉はありえない・・・、はずであった。

  それが何がどうなったのか?『只今、(我が家)建設中… 』なのである。

  貧乏道一筋に生きてきた私にとって、ありえないことが変異的に起ころうとしている2021年である。

  というのも昨年の末、我がアパートの家主より『今年の夏にアパート改修工事します。詳細は後ほど…』と連絡があった。

  以前より我が相方はその日が来るのを予言していたが、本当にその日が来ることになった。そうなると単に改修工事でその間

  不便になる…というレベルではなく、どこかへ一時的に引っ越ししなければならないような工事になることは周りにいる友人、知人らの

  体験談を聞いていたので、そういった事態が我々に起きれば、その際は、6階エレベーター無し…の現状から抜け出す動機として、別なアパートを探そう…

  という事で意見が一致していたのだ。もうすぐ古希を目前にして6階住まいは先々問題が出てくるであろうと、思っていたのだ。

  ( しかし、この改修の件がなければ、私は現在のアパートが非常に気に入っているので、あと10年ぐらいは住みたかった…のだが。)

  我々はよく隣町のモルジュという電車で10分の町へ散歩やら市場への買い物へでかけるが、その駅前が大変化して大きな住宅ビルディングが

  3っも建設中、内2っはほぼ出来上がって、入居も始まっている。その最後の現在建設中の大きな建物は入居者を募集していた。

  この前を通るとき、こんなところに住めたらいいね〜…と二人でよく話ていたが、現実に引っ越しを考える事態が起こったときに

  入居条件を調べると、全住居の1/3が低所得者向き・・・! 部屋は現在より狭くなるものの、街の真ん中で新居でエレベーター付き4階。

  針の穴に糸を通す…ような条件であったが、なんと我々の書類審査が通ったのだ! 

         

           右の高いほうが16階、左は11階で我々は左の塔の湖側 (一見、大聖堂…的)

           カメラが設置されていて、毎日進捗状況をチエックできる…のも不思議(な時代)

  昨日のTVニュースで、同様な住居の建設予定であった同州、他の駅前の計画が、コロナ禍で予算が危ぶまれ中止になってしまった。

  そういった事を考えると、我々の引っ越しも実現するまではどうなるのか・・・わかったものではない。


 ホテル平和

2021年01月19日 | ヨーロッパの風

  良いのか悪いのか? 結婚しなければ、こんな馬鹿げた『事』はしなかったであろう…ということが

  自分とは違うパートナーが存在すると時々ある。

  今回は、我がアパートから約800mのところにある、『ホテル平和』に一泊する『旅』を相方ニコルがオーガナイズしたのだ。

  本日18日、月曜日からスーパーや食品店以外の商店は2月下旬まで閉鎖になるのをひかえ、昨年春、彼女自身の膝の手術に続く

  第一回コロナ・ロックダウンで旅行が中止になり、秋には義母が入院したり色々なストレスがあるのだろう…

  貧乏性が決して抜けない私などは絶対に発想しない事を相方はケロッと決めてしまう…才能というか?

  昔だったら、そんな提案には頭から反対していたであろうが、最近は『諦めの境地』にいたり『まぁ、いいか』とホテル平和に一泊することにした。

          

            『 名の如く 極楽みせて 平和ホテル 一度は泊まれ 距離をいとわず 』  一撮 

  フランス語で ホテル・ド・ラ・ペ …とは『ホテル平和』ということになる。

  去年につづき、2021年の2度目のロックダウンに突入し、無意識にも平和を祈りたい気持ちになるに、ましてやホテル平和…

  自分のアパートからも湖がみえるが、また違ったアングルの景色も素晴らしかった。この景色を見れただけでも春から縁起がいい…としょう。     


 生還した義母

2021年01月11日 | ヨーロッパの風

  スイスは九州ほどの大きさ。人口854万人・・・うち外国人が25%。公用語が仏、独、伊の3ヶ国語圏に分かれる。

  28年前観光ガイドで働いていたときはスイスの人口は700万人だったのに・・・。

  そのスイスの最近のコロナ感染者は毎日、平均4000〜5000人の間だったが、ここのところ3900人代…

  こんな小さな国で毎日4900人代が続いていた先週あたりは、やばい・・・の一言。

  つい先日レストラン、カフェなどが1月下旬まで閉鎖を決めたが、それが2月下旬まで延長になり、さらに昨年なみのロックダウンを検討中とのこと。

  その先週、骨折で入院、リハビリ施設でコロナ感染した義母は病院と施設を行ったり来たり、2ヶ月のうち4往復していた義母が帰宅した。

  娘の相方も私も今回はいよいよだめだろう・・・と、覚悟をしていたが…、コロナ感染も乗り越えて義父の待つ自宅に帰ってきた。

  日本で介護の仕事をしている友人にその話をすると、驚いていた。高齢者が入院すると一気に老化が進み認知症になる人が多いというのだ。

  その点、義母は例外中の例外なのか、認知症になるどころか、2ヶ月間誰にも会うことができず、携帯電話で家族と毎日連絡をとっていたのだが

  頭は相変わらずじつにしっかりしていた。固有名詞がなかなか出にくくなっているのはむしろ義父、続いて私も…。

  めでたく、退院したといっても問題はこれからで、義父母がいつまで自宅で生活できるか・・・

            

                        義母が5歳ときの図