拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  等身大の『?』

2024年10月02日 | 東洋自分なり研究所

  私にとって、『禅』とは・・・何だったのか?  何が私を禅の道に導いたのか・・・?

  普段、禅々と呼びつけているが、私自身にとって『禅』とは何だったのか…、そこを明らかにしなければにっちもさっちも・・・とは思いながら

  いまさら・・・でもあり、同時に今だからこそ観える話なのだ、とも言えそうだ。

 

  『 無上甚深微妙の法は 百千万劫にも遭いおうこと難し 我今見聞し 受持することを得たり 願わくば如来の 真実義を解し奉らんことを 』

  最初に円覚寺・居士林を訪ねた時、頂いた手折の修養聖典の『開経偈』の言葉だが、『佛法というのはめったに出逢う事が出来るものではない…』

  と言っているわけで、実に北海道の片田舎で生まれ育った山猿の私が、齢(よわい)三十にならんとする時、円覚寺の居士林に通うことになるとは

  どう考えても、不思議で不思議で・・・。

  まぁ、例えてみれば死ぬまで金に困らないほど大金の『宝くじ』に当たった確率・・・或いはそれ以上(百千万劫というぐらいだから)の確率のところを

  パスしました・・・というぐらい『微妙の法』を我今見聞しているわけだ(レベルは不問)。 その意味では色界のビル・ゲイツ・・・みたいなものか? 

 

  一方、生を受けた衆生は全員皆、『微妙の法=佛法』と共に生まれ、いつの日か『意』を向ければ『覚醒』すること百%の確率なのが佛法。

  だからこそ、山猿・・・というか馬骨である私でも『佛道』に至る事ができた・・・とも言えるわけで。

 

  私の体験から言うと、この『微妙の法』・・・というのが、名は『微妙』であっても、そのじつバカでかい『?』そのものとして、自己内に存在し

  自分ではなかなか認識できないゆえに、馬鹿なことをしたりして、もがき苦しみ、そこからなんとか逃れようとした結果が『道』であったような・・・

 

                     

  優れた佛縁を持った人々は、『死とは何か?』とか、『何のために生きるのか?』・・・とか何だかの疑問を持っていたりするものだが

  私の場合は、何の不満もない・・・ただボーッとしていた人生であったように思うが、実際は『?』が大きすぎて観えていなかっただけで

  それに対する、かすかな違和感というのが、『坐禅』したときに、何だか解からんが『これだ!』という直感が起こったのであろう。

 

  その後の、禅修行で少しずつ少しずつ、等身大の『?』になり、ようやく自分の本当の『問』に直面することが出来たのだと思う。


  日本よ、洗心国たれ・・・

2024年09月29日 | 東洋自分なり研究所

  ビル・ゲイツ氏の動画にはいろいろインスパイアされ、今後も何かとブログテーマとなる予感がする。

 

  今日の馬骨新語『洗心国』・・・というのも、動画を観て、ビル・ゲイツ氏の活動から触発され生まれた言葉。

 

  2008年マイクロソフト社から引退する以前から妻のメリンダと起こした民間慈善財団では様々な活動をしていた。

  彼らの活動の基本理念には『世界中の子供の平等性』があり、当初は学習とか教育を主に力を入れていたある日

  『発展途上国の子ども達が下痢で幼い命をなくしている』・・・という新聞記事を読むことが動機となり、

  ビル・ゲイツ氏はその原因を調べ、多くの発展途上国ではいまだに自分たちの排泄物を川に投棄するために、川が汚染されそこで遊ぶ

  子ども達が感染して下痢を起こしたくさんの子ども達が死亡している事に非常にショックをうけ、まずこの問題をなんとかしなければ・・・

  との思いで、途上国の公衆衛生事業に力を入れることになった。

  『 予防できる病気で、亡くなる子ども達がいる 』・・・これがキーワードとなる。

 

  以来、ビル・ゲイツ氏は ①トイレ ②下水道・・・の両面から解決策を模索し、賞金を出したコンクールを主催したりして

  低費用で、省エネの施設の開発研究に没頭し、試作から6年後アフリカ・ダカールに排泄物を処理する施設を設置、

  2018年には世界屈指の製造業社・リクシルがビルのトイレの量産を発表・・・・とのこと。

  まぁ、それ以上のことはこの動画からは詳細はわからないが、少なくともビル・ゲイツ氏の活動によって途上国、先進国、

  両方の人々の関心を呼び起こし、自力でこの問題解決に取り組む糸口をしめした事は大変重要なことであった。

 

  まだまだ多方面にわたって、ビル・ゲイツ氏の慈善事業は計画され、実行されている事は・・・ほんとうに素晴らしく感謝しかない。

 

  ただ、私のような根っから貧乏な者でも『予防できる病気で、亡くなる人たちがいる』というキーワードにたいして

  生まれながらに持って生まれた『仏性』に、意を向け覚醒することで、生涯、自他を幸福に導く『慈悲と智慧』を得る・・・

  という佛の教えを力説することはできる・・・であろう。

  

  ビル・ゲイツ氏が『トイレ』に専心しているとは知らなかつたが、それにしても何故に『トイレ先進国』の日本が関わっていないのか???

  その点、私は非常にガッカリしたが、『先進国』としての日本は確かに落ちぶれた・・・とはいえ、『洗尻便座』を発明+普及するほど

  日本人は『浄化心』の高い民族、『身心を浄化』する衛生面では世界一のノウハウを持つ国、『清浄』を宗とする『洗心国』なのだ。

  この発展・普及こそ、世界が日本に期待し、それに応える事ができる唯一の国なのではないだろうか。

 

               

                 『 秋という いぶし銀的 季節きて 人が釣り糸 垂らす湖 』 一撮

 

  日本はいまだ残暑がきびしいようであるが、こちらスイスは秋を通り越して初冬を思わせる日が続いている・・・寒い!


  長者の微笑み

2024年09月26日 | 東洋自分なり研究所

  2017年に定年退職して以来、一日の大半を、PCスクリーン前で過ごしている・・・私の現状を、『佛』以外に誰が想定できたであろうか??

  その恩恵をわたしにもたらす事になった張本人、ビル・ゲイツ氏の声を私は初めて聞き、そしてその素敵な微笑みを初めて観た・・・のだ。

 

              

 

  Netflix『 What's net ビル・ゲイツと考える未来の展望』今年9月18日より配信、その内容は・・・

  【 次は何だ?ビル・ゲイツが語る未来」はビル・ゲイツの先見的な目を通して、世界的な主要課題のいくつかを探る。

    5つのエピソードからなるこのシリーズでは、人工知能の将来性とリスク、ソーシャルネットワーク時代の誤情報との戦い、

    気候危機とその影響を緩和するための新技術の可能性などを取り上げている。

    ゲイツはまた、所得格差と 貧困との闘いを取り上げ、生命を脅かす病気の治療における科学の進歩についても探求している。

    専門家、科学者、政治家、アーティストの証言に彩られたこのシリーズは、

    未来と、より公平で持続可能な世界を確保する方法について深い考察を提供している。 】ドキュメントを紹介記事、SortirParisより

 

  彼、ビル・ゲイツは相方と同じ1955年生まれ、今年69歳になり、72歳の私とはほぼ同世代と言っていいと思うが

  その生き様という点では、まさに『正反対』・・・というか、まず比較する余地がないほど彼は金持ちで、私は貧乏人だ。

  彼くらいの金持ちレベルになると、『金』からは完全に解脱・・・している分、金持ちに妬ましい思いを抱く私は真から貧乏人だ。

 

  その妬ましい気持ちでこのドキュメントを観、この度外れな大富豪の男を検証すべく仔細にドキュメントを観察するにつれ、

  彼の憂いを含んだ美しい『微笑み』・・・だけが印象に残った。

  一体この男は何者なんだろうか?・・・と、検索すると、2019年に制作されたNetflix『天才の頭の中:ビル・ゲイツを解読する』という

  3話シリーズドキュメントも観て、彼について語る2人の姉妹の証言などから彼の人となりというものが浮き彫りにされ

  彼のその『美しい微笑み』を育む要因の一つに『母親』の存在の大きい事がわかる。

 

  ビル・ゲイツについては、なんとなく悪い評判ばかり耳にしていた私としては、なんでもって早くこうした動画を配信しなかったのか?と

  思うばかりだが、彼自身も彼に関する様々な『陰謀論』には悩まされていた事が、『What's next』シリーズの第二話で、同じく

  誤情報で悩むレディ・ガガとの対話で明らかになり、こんな会話があった。

 

  ガガ:私たちが向かう先の時代では、物事に人間性を取り戻せると思う?

  ビル:思うけど、具体的な計画(案)はない。僕の世代は多くのことを成し遂げた・・・といって逃げるわけではないけど

     でも、次の世代に問題を残してしまった。今は情報収集が容易になった一方で、社会の分極化が進んでしまった。

     若者たちは、新しいルールを作って、狂気ではなく、優秀さを競ってほしい。解決策がないことは申し訳なく思っている・・・

 

  この対話は、非常に重要な事を語っている・・・と私は感じた。 

  先日私は『数式対漢式』で考察した世界観を思い浮かべ、ビル・ゲイツは数式で『色界』を飛躍的に展開させたが、

  禅(瞑想)による『空界』は、完全に忘れ去られてしまっていた事実について、この会話は語っている・・・のだと。

 

  この第2話の最後にこの問題の解決糸口として、ポッドキャストホストのジョウダン・クレッパー氏が提案した三つの事

  ①読書 ②旅行 ③譲ること(寛容性)・・・などが語られたが、

  『分断問題』を根本的解決に導く『禅』という瞑想の存在に対する視点の欠如があり、その意味で『道の文化』を持つ日本の存在は重要だ。

 

             

   私の2畳半の書斎の上部に、昨日『悟りの母』である『母』の字の書を掲げる事ができた図

  

  


  人生は『命懸け』・・・

2024年09月20日 | 東洋自分なり研究所

  格闘家として、若くして一世を風靡した朝倉未来氏は、『Breaking Down』というケージ内で一分間で決着をつける、新格闘競技をあみだし

  日本中の血の気の多い若者たちの間に一風を巻き起こし、それに参加するべくオーディション(審査)に出てくる、チンピラ風なあんちゃんから

  元ヤクザ、喧嘩自慢、空手家、元ボクサー等、ぞくぞくと登場するオーディション風景を動画にして流すものだから、スイスに住んでいる

  血の気の多いジジイまでも熱い眼差しで動画を観たりしている中、『こっちら命懸けで、来てんのャ〜』というセリフは、

  まぁ、やんちゃなガキ共の格闘技オーディションだけに、常套句・・・と受け止めて、別になんとも思わなかったのだが、

 

  今日見かけた、おなじ朝倉未来が主催する不良が登場する映画のオーディション風景で、役者志望の若者が『命懸け』という言葉を口にした時

  私は、自分がやってきた禅の修行には、一度として『命懸け』・・・という深刻な状態になったことがなかった事に思いが到ったのだ。

  それって、一重に私の意志薄弱・・・が原因とも思うが、よほど剛毅な人でなければ『命懸けの坐禅』・・・というのは実際にはなかなか難しいものだと思う。

 

  かりに、不惜身命の坐禅をするぞ!・・・と意気込んでも、数分後には頭の中は、蚊の大群に押し寄せられる如く、妄想が沸き上がり、

  そのまた数十分後には足が痛くなったりする。 そもそも『坐禅』には『命懸け』などという『お前さんの妄想』など邪魔なだけなのだ・・・。

  というようなことが、解ってくるから、私の場合は『命懸け』というようなことは一度も考えたことはなかった。

 

  馬骨論的には『命』には、それが宿る人間に『命の有機的働き…』に目覚めるべく働きかける『意伝子』による『命懸け』であり

  本人が『命懸け』と意気込むまではいいが、結局はその『命の働き』に耳を傾けるしか、我々にはなすすべが無いのだと思う・・・。

  その意味では『命懸け』は、我々がその使『命』を果たすかどうかの『賭け』でもあるわけで、確かに『命懸け』ではある。

  

  しかし、3年間をメドに修行に来ている、実家が寺で将来プロの坊さんになる若い雲水達は、12月に行われる臘八接心という期間は

  それこそ『死物狂い』の坐禅を要求され、実際にそれで一皮むけたような雲水も見かけたのも事実だ。

 

  道元禅師の言葉を待つまでもなく、肝心な事は『佛の方より行われる・・・』と、最初から思っていた私は『命懸け』とは思わなかったが

  私の禅修行中、一人の若き雲水が私に観せてくれた『働き』・・・というか、彼が直日(僧堂のリーダー格の者)のときの、威風堂々の風貌が

  ある日、侍者(世話係)となって、我々にお茶を注ぐときの別人の如き仕事ぶり・・・は、私に『随所に主となる』というものが

  どういうものであるのか、身を以て示してくれた風景は、私にとって一生忘れられないモノとなっている。

 

              

        『(両)手に聞け!・・・それがお前に幸せを与えるだろう』 最近アチラコチラに見かける Do it yourselfの店の広告

         一瞬、いよいよ『隻手の声』の公案がスイスにまで来たか!・・・と、電車の中から慌てて一撮した風景

 

  

  

  


  『侍』スピリットは、いま・・・

2024年09月19日 | 東洋自分なり研究所

  目下のところ、私のYoutubeホームページは『将軍の真田広之』等を紹介する動画で、埋められている。

  相方は今、大評判の『Shougun将軍』を観るべく、何の躊躇もなくディズニー・プラスを契約し、私にも『観ろ!』とコードNoを渡された。

 

  さすが、妥協なき時代劇をめざした、というだけあって、サムライ言葉がわかりにくく、私は音声はもちろん、字幕も日本語にして観ることにした。

  10話を2日間で観終えたが・・・、なんだかよくわからない感が残り、最後の2話をもう一度じっくり観て、主人公・虎永のあまりの『深謀遠慮』の様子に

  若干なりとも気付いたとき、こんなに難しいストーリーでありながら、『エミー賞』18部門で受賞・・・というのが、信じられない気がした。

 

  まぁ、原作者のジェームズ・クラベルの本が1975年に出版されて大ベストセラーになり、1980年にアメリカのNBCによってテレビシリーズとして

  ドラマ化され、リチャード・チェンバレン、三船敏郎、島田陽子等が出演したドラマがあるくらいだから、もともと内容は素晴らしいものなのであろう。

  それにしても、家康の『鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス…』と、風を誰よりも深く読んだ家康を、ここまで小説で描き出す、アメリカ人作家にも驚く。

 

  武士道・・・というか『侍』を描いた米国制作アニメは昨年末に、将軍に先駆けてNetflixで発表され、私もインスパイアされてブログに書いた。

  2023年11月15日のブログ記事〜般若心経を唱えられるか?

  『碧眼、ブルーアイ・サムライ』・・・というタイトル、しかも主人公は女性である事が、次第しだいにわかる・・・というストーリーで

  こちらも、アメリカ人の夫(グリーン氏)と日米ハーフの妻(アンバー・ノイズ)との共同出筆のアメリカ人による原作であるが

  描かれたものが、日本人以上に東洋精神に満ちている気がするのは、西洋にない『スピリット』を『侍(サムライ)』のストーリーを借りて

  自国の人々に紹介したい・・・という思いがあったのではないだろうか。

 

  私自身も映画『ジョーカー』の、先行きのない行き止まり感満載のストーリーに、それに相対するものとして『武士は食わねど高楊枝』という

  比喩をふと思い出したわけだが、『武士』とか『侍』とかいう言葉の響きの中に、人種によらない現代人をして『直指人心』する何かがある・・・のだろう。

 

  それは馬骨の佛語漢字解釈でいえば、『侍』が『寺=禅寺』で『坐禅(瞑想)して土(ド)・寸(スン)と不二の法門に腑に落ちる』・・・人の姿が『侍』

  という字になったわけで、ブルーアイ・サムライではないが、それは女性であろうが男性であろうが、別にそこは『去サ・無ム・来ライ』なのだ。

 

  そして、おどろくことに、『将軍』でも『ブルーアイ・サムライ』でも、『遊女』が案外にドラマにおいて重要な役割を果たしているように観えたが

  馬骨的ギャグ解釈をすれば、『侍が「空」』を象徴するとき、『遊女が「色」』を象徴し、『色即是空、空即是色』の世界がじつに円満に描かれているわけだ。

 

             

                昔撮った写真と短歌であるが、同様の風景を最近眼にしたので・・・

 


   真田の ラスト・サムライ

2024年09月17日 | 東洋自分なり研究所

  今となっては、後出し・ジャンケン・・・と、間違いなく思われるネタであるが、

  昨日の各種メディア報道は、『エミー賞・ドラマシリーズ部門で「将軍」が作品賞など18冠』となり、主演でプロデューサーの

  『真田広之』の話題で一色になった感があったが、 なんとその前日、私は偶然?にも

  『真田広之』 Hiroyuki Sanada - KING LEAR 1999 Documentary NHK・・・というドキュメント動画に出会い、『へえ〜!』と感心していた

  矢先であったので、彼の積年の『思い・・・』の実現に、心から喜ぶ彼の姿に他人事とは思えないモノを感じたのだ。

 

  真田広之氏については、例の映画『ラスト・サムライ』で他の役者とは一線を画す・・・と言えるほど気合の入った印象があった他は

  彼についてはほとんど何も知らず、たまたまこのドキュメント動画を観ることで、彼の俳優としてのバックボーンを観せられた思いがあった。

 

                

         真田がこれまで培ってきた日本舞踊や、アクション俳優としての才能を集大成して新天地を見出す事になった『リヤ王』での道化役の姿(1999年)

  

  このドキュメントは、著名な演出家・蜷川幸雄をロンドンに訪ねて、直談判する形で意気投合した結果、『ハムレット』をやることになり

  その公演をイギリスでやることで、シェークスピアの『リヤ王』の道化役を要請され、古いクイーンズイングリッシュを駆使しての公演を目指し苦闘する

  真田氏のドキュメント動画であった。 それまでのアクションスターから大きく脱皮する瞬間のドキュメントであったわけで、映画俳優としての

  『真田広之』を知っている人でも、このような過去を持った役者であることをしっている人は少ないのではないだろうか・・・。

 

  そういった経緯を経て、2003年の『ラスト・サムライ』出演により、これまでのような西洋人による誤った日本文化解釈を改めさせ、

  真の日本の姿を伝えられる俳優を目指すために、拠点をロスアンゼルスに移し、今日に到ったというのだ。

 

  先日、ほんの3週間程前にこんなブログ記事 2024年8月23日のブログ記事〜武士は食わねど高楊枝

  を書いたが、それは映画『ジョーカー』と対象的な精神の象徴として、『武士道』について書いたわけであるが

  役者として西洋世界に飛び出した真田氏が、伝えたかった『真の日本』・・・の姿とは、つまるところ『武士道』の『道』にあることを

  『将軍』という時代劇を通して、世界に向かって発信したかった・・・事ではなかったか!?  などと私には観えたわけである。

 

  そういった意味では、つい先日書いたブログ記事、映画『日日是好日』なども、字幕付きで外国に公開すれば、(すでにしているか!)

  もっと宣伝に力を入れて、再公開すれば、アカデミー賞も夢ではないのでは?

 


  4回目の『日々是好日』・・・

2024年09月14日 | 東洋自分なり研究所

  先日どういったものか、ふと映画『日々是好日』を観たくなってAmazon・Praimeを検索してみると、あるじゃないですか〜!。

  今度で、4回目ぐらいか・・・と思うけど、もしかしたら5回目?かもしれない・・・。

 

  さすがの私も今回は、この映画の内容がスイスイと頭に入ってくるようで、進路に迷う主人公の女の子に、神様にでもなった気分で

  『心配することないよ… それでいいよ…』的な、すべてを見通せる全能感は、彼女らと共にすすった何杯もの抹茶ですっかり酔いしれてしまった感あり。

 

  そもそも、映画の冒頭・・・主人公が小学生の頃、家族でイタリア映画でフェリーニの『道』を観て帰宅するところから最初のシーンが

  始まって、映画の最後辺りに再び映画『道』について回想するシーンがあり、昔は幼かったためか、理解することが出来なかった映画が後に再び観て

  よく理解することが出来た・・・と、『時間を経ることで、解ること・・・そいうモノが茶の湯にもある』と、言わんがためのシーンであったと思うが

  その映画がたまたま『道』であった・・・というのが、『茶の湯』がつまりは、『茶道』であることを遠回しに比喩しているのが偶然か必然か?!

 

  いとこのミチコと共に始めた『茶道』・・・ミチコは希望の方面に就職、結婚、子育て・・・とどんどん自分の人生を踏み込んでいるようで

  主人公の典子は、いつまでも進路が決まらない自分に焦りながらも・・・ついには『茶道』を生涯の『道』とし、

 

  『 世の中には、「すぐ解るもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。

   けれど、すぐにはわからないものは、フェリーニの「道」のように、後になってわかりだし、「別もの」に変わっていく。

   そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体のほんの断片にすぎなかったことに気づく。・・・「お茶」って、そういうものなのだ。』

                                        ・・・(彼女の本『日日是好日』のまえがきより抜粋) 

   と言える人間に成長していた。 つまり彼女は茶道を永い時間をかけて『ライフワーク』に昇華していった。

 

  この映画全体を観て、凄い『禅』だなぁ・・・と思ったのは、やはり掛け軸の言葉が、茶の湯を修行する茶人に、いつのまにか

  『公案』となって心を刺激する『覚醒剤』の役割になっていることだ。そもそも映画タイトル『日々是好日』が、禅問答(公案)で、

  そういった『問いかけ』との出会い自体が、その人間にとってどれほど幸運であることか。

  また、『掛け軸は、読むものではなく、感じるものだ・・・』と、『考えるな、感じろ!』に気づく瞬間も描きだされていた・・・のも素敵だ。

 

  まぁ、日本を離れて三十数年・・・。 この映画で観るような見事な『道』の文化が、日本のいたる所に息づいている様をみるのはうれしい。

 

              

 

  


  『 仕(ライフ)・事(ワーク)』

2024年09月12日 | 東洋自分なり研究所

  何の動画であったか?『ライフワーク』という言葉を発している人がいて、私はちょっとハッとさせられた気がした・・・。

 

  この『ライフワーク』という言葉を発する人というのは、なんだかの事業なんかで成功した人が使う言葉…というニュアンスを前提とするとき

  私の場合は、じつにたくさんの仕事につきながら、どれも中途半端でフラフラとした人生を送ってきた・・・わけであるのに、

  そのじつ、なんとなく『ライフワークのど真ん中を歩いてきました・・・』と、ドヤ顔で言っている自分がいるのだ。

 

  むしろ、その『ライフワーク』こそを守るために、様々な仕事をしてきた・・・という気がしている。

  二十歳の頃、写真に出会ってこれで行くぞー・・・と意気込んでいたが、それに満足しない自分がいて、

  三十の頃には鍼灸師を目指したが、それにも満足できなく、結局何の役にも立たない『禅』みたいな処に落着した感があった。

  もちろん、写真で大成しながら、『禅』を深める・・・みたいなことも出来たのであろうが、私は一重に不器用であったのだと思う。

 

  だからこそであろうか、『考えるな、漢字ろ!』に到ったわけで、

  『仕事』の『仕』が『人をして➕・➖=0(浄化)』して生きていく『事』であると『観』じた時、

  私は『仕(ライフ)事(ワーク)』に生きている自分を感じている・・・のだろう。

 

         

          実際の仕事からは『ヌメッ』として自分の手では掴み取れない何か?・・・を思い浮かべたとき、

          この『瓢鮎図』を思い出したが、この公案の私の出した答えというのは案外このへんにあったのだろうか・・・。

 

  『瓢鮎図』について、はこれまで何度か書いていた・・・ 2023年8月28日のブログ記事〜『問』の国、日本

 


  『 数式 』 対『 漢式 』

2024年09月09日 | 東洋自分なり研究所

  もしかして、私はえらい発見をしてしまったかもしれず・・・そしてそれはノーベル賞に匹敵はしないかもしれないが、それに限りなく近い気がしている。

  

  まぁ、そもそもが『東洋自分なり研究所』で『自分なり』・・・というところが『ミソ』であるが。

  私のヨーロッパ・仏語圏スイスに天命のような渡欧の理由(一見無意味にみえる)の深意の一端がこの発見の為ではなかったか・・・?!

  とか、いう前置きはそのくらいにして、私の発見というか、思い込み…というか? それは何かというと

  『科学の解明には「数字・方程式」が、東洋思想の解明には「漢字・方程式」が必要である』・・・というものである。

 

  これまで、私は漢字は意思疎通のための方法手段であり、それ以上でも以下でもない・・・と思っていたし、それが一般的であると信じていた。

  『考えるな、漢字ろ!』に開眼してからも、まさかそこまで『漢式』が洋の東西を超えた『心性の解明』に深く関わっていたとはまさに

  『お釈迦様でもご存知あるめい…』の心境で、びっくらこいた心境であり、誰も想定することのない想像を絶する創造的発見である。

 

  いま思い返せば、修行時代のある日、老師が『お前は漢文が読めるか?』と問われ、非常に情けない気持ちで『読めません』と

  答えた自分をよく覚えているが、その問はただ単に『漢文が読めるかどうか?』を問われただけである、と解っていながらも

  『漢文は単なる漢文ではないんだぞ!』・・・と、示唆していたように思えるのが不思議だ・・・。

 

  三十数年に渡って仏語(フランス語)の国に住みながら、ろくに仏語が話せないだけでなく、仏教の『仏語』が『佛語』に昇華しただけの成果に

  一見、何のなめにわざわざ遠路はるばる言葉の通じない異国に来たのか? その理由の答えが『漢字・方程式』、略して『漢式』の発見であったのだ。

              

                   

                今朝、日本に一ヶ月の旅に旅立った友人の碧い目の禅僧『道海』さんに、『Bon Voyage』のメッセージを送ると

                彼からの返信にこの絵を返信してきた・・・誰の作画かしらないが『雲水』の旅姿であろう。

  『佛』の字を『漢式』で解くと、いろいろ面白いものが観えてくる。

  新漢語林によると、『佛』の『弗』は、『からまるヒモを二本の棒で、振りはらうさま』とあり・・・馬骨解釈すると、それは『色空』の二棒で一切皆苦からの解放で

  それはまた『自他不二』の『不二の法門』を象徴している。

  もう一つ面白い観方は、『弗』が、『DNA〜Dignity(尊厳)・Nature(性)・Absolute(絶対)』の意伝子の形(二重らせん)を表してみえる。

  つまり『佛』という字は、たった一字で、人間の『不二の法門』と『尊厳という絶対の性=仏性』の意伝・・・を表しているのだ。


  『意識』と知識

2024年09月06日 | 東洋自分なり研究所

  『AはAではない、ゆえにAである』・・・と言ったのは、『即非の論理』といって我が 鈴木大拙 師があみだした論理・・・。

 

  このわけのわからない論理? 何のこっちゃヤロ・・・とずーっと思っているうちに、『仏教は仏教ではない、ゆえに仏教である』と

  いつの間にか思っている自分がいた今日此の頃。 『仏教は仏教ではない、ゆえに禅である』・・・と私は思い込んでいるようだ。

 

  そう、禅は『全・善・然』・・・なんかが、ほどよくミックスされた何かなのだが(語呂的に日本語は上手いこと出来てるナ〜)

  とにかく禅はまず、『意識』を立ち上げるだろう。

  そして、『意識』の『意』は『心に音が伴っている』識で、それを活用することが『観音』で、『般若智』には『観音』という『意』が働く。

 

  例えば『自由時間』という日常用語・・・この『自由』を『佛語』と意識したとき、その意味合いは次元を異にしてしまう…ということ。

  そういった『意』をもって世の中を『観』る・・・のが、『意識』で『知識』とはだいぶ違うようだ。

  その意味では『自由は自由ではない、ゆえに自由である』・・・というスズキ大拙の即非の論理が成り立つわけか?

  そうしてみると、漢字を使った日本語というのはじつに『不立文字』で深い言葉・・・ゆえに『考えるな、漢字ろ!』なのだと思う。

 

           

  この図は、その昔 おっちょこちょいの私は禅寺からスイスに直行してスイス人に教えようとした『練功道』と名付けた中国気功体操のポスター。

  この体操は『イー・アー・サン・スー・・・』と中国語数字を一から八まで数えながら行う体操であるからそこに私の『意』を添えてみて

  『 数息観の意の在るところに参ずれば、龍の智慧を発するを得る 』・・・というような意味を込めてみたが、まったく看板倒れであった。

  


  『坐』という結界(2)〜 究極の姿

2024年09月02日 | 東洋自分なり研究所

  結界が『開』いた・・・ことで、私の『考えるな、漢字ろ!』が始まった・・・と私は思っている。

 

  2017年、定年退職記念というわけでもなかったが、数年ぶりで相方と日本旅行をした時、私達は初めて伏見稲荷大社の鳥居をくぐった。

  その尋常ではない数の鳥居群を通り抜けながら、パワースポットに入り込んでしまったのか、退職後に『禅』を人に伝える方法を模索していた私に

  『⛩』と『門』で『開』・・・であるという『漢字』の答えが開かれたのだ。

  何かというと、『⛩』は神道、『門』は『山門』のことで『禅寺』を意味するとき、日本という国は『神仏習合』でその『結界』が開かれている…

  という、子供のような発想で私は腑に落ちていた。

  それがキッカケとなって、それまでなんとも思っていなかった様々な『佛語・漢字』が、『漢字方程式』を使うことで『漢字在(観自在)』に

  それまで『曰く言い難い』事柄であったものが、『漢字』でもって、『佛語』を簡明に解説することを得たのだ・・・。

 

  最新の私の『漢字方程式』で『坐』を観るに、『結界』という次元を『無』と『空』という二段階で昇華している事が観える。

  まず『土』台部分で、『➕・➖=無』。 

  次に『人』が二人、対称的に対峙する様が描かれて『観る者が観られる者』となる双方向の『観』が生じそれは、『空』にまで昇華する。

 

  ・・・と、御託はそれくらいにして、動物の一種である人が、『坐』を実行して不動の『無』になることは、ある意味『拷問』に等しいことである。

  心身をかたときも『静止』したことのない人にとって、身も心もじっと『静止』することは実際、足が痛いし、気持ちは気が狂わんばかりに苦痛だ。

  『鳥居』の結界は通り抜けるだけでいいが、『坐』の結界は『覚悟』がいることは間違いない。

  しかし、釈尊は『坐』が動物である人が、『人間』に目覚める究極の姿であることを初めて示してくださった・・・。

  

  私達は『AI時代』を迎え、生命を圧倒的な『スピード社会』の中に落とし込み、益々『人間性喪失』を経験して疲弊している。

  これに対抗する唯一の手段は『坐』で、徹底的に不動の自己に目覚め、『涅槃寂静』の境涯に遊ぶことではないだろうか・・・。

  少なくとも、意識をそこにもって生きることが大事なのだと思う・・・今日此の頃

         

         『坐』は動物としての人が、『人間』に目覚める究極の姿

  


  『坐』という結界

2024年09月01日 | 東洋自分なり研究所

  結界というと、今では『鳥居』を一番に思い浮かべるが、辞書でしらべると、そもそもは佛語ということらしい。

 

  禅をやっていた10年というのは、『無』にしか向き合っていなく、(というか実際は、『無』なんてことも思っていなかった正直… )

  その後の20年も娑婆のよしなし事に忙殺され結局ボーッと過ごしていたが、ボチボチ仏教を勉強すると、なんでかな?

  それこそ『自分なり』なんだけど頭にスーッと入るような・・・。

  まぁ、『無』やら『空』から仏教が膨らみ、経典ができたのだから、経典が書いてあることが解ることは・・・当たり前なのかな?(言うほど読んでないが)

 

  たくさんの外人さんが日本に来て、いたる所に眼にする『赤い鳥居』に感動し、おそらくそれが『結界』であるということを聞いて感心し

  『私は仏教より、神道が好き・・・』という外国人にも実際に出会ったが、その外人さん達も日本で坐禅している仏像をたくさん観ているはずで、

  それこそ『鳥居』よりよほど人に寄り添った『結界』なのであるが、そのようにはなかなか観ることが出来ないのが一般のようだ。

  かくいう私も、今頃になってそういう風に観ることができたわけなのだから・・・

 

  だからなのだろうか、私が、小さな寺から居士林に通うことに決心するとき、まるで『清水寺の舞台から飛び降りる…』ほどの覚悟がいたのは

  坐禅の『坐』が結界であることに気付いていたからなのだろう・・・。

 

  派手なデザインで人目を引く『鳥居』というのは、『結界』に至る門ここに在り・・・を一人知らしめんが為であることは、一目瞭然であるが

  まさか、仏陀の坐像が『結界の門』だなんて・・・。 そしてこちらの門は一旦入ってしまえば、『結界』も『門』も雲散霧消。

 

            

        先日、我が街から2回電車を乗り継いで3時間のストラスブールに一泊旅行・・・来週の相方の誕生日を名目に…  


   『坐』〜 天地『無』用

2024年08月30日 | 東洋自分なり研究所

  7年前までやっていた引越屋という職業がら、日本から来た荷物に『天地無用』と書かれた荷物をよく運んだものだが…

  『天地無用』の荷がなんで、天地を傾けることが厳禁なのか?? まるで公案(禅問答)だよな〜と思いながらも、深く考える暇もなかった。

 

  『東洋自分なり研究所』開設以来、『坐禅』の『坐』の字について、あれこれ考察してきたつもりでいたが、最も肝心な『坐』の土台となる

  『土』についての考察が欠落していた事に・・・突然気付き、そのあまりの重要度に勝手に腑に落ちてる今日此の頃。

 

  馬骨流『佛語解字』解説・・・ということで、滅茶苦茶というかバカみたいな解説を、『佛にちなみ』許してもらいたいのだが・・・

  『土』は『大地』や『天地』という『大自然』を前提としたニュアンスで使う時、

  『土』は『➕&➖=ゼロ』の天然『浄化力』、つまり『無』を表していると解するべきで、

  だとすれば、『坐』こそ、天然『浄化』作用が人間に働きかけている事象であることがわかる。

  禅が『坐』を中心に据えて修行した事実は、同時に東洋思想としての『無の思想』の確立を意味したが、

  そのとき禅者はまさに『天地無用!』と、二重に『重ね合わせ』られた意味を承知の上で高らかに宣言をしたに違いない。

 

  仏教の『三法印〜諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』の『諸行無常』という、人をして『一切皆苦』に落とし入れる、まさに無情の現象現実にあって、

  『諸法無我』という境涯に至らしめる唯一の救済方法『坐』が人間に残され、それを釈尊が2500年前に見事に使って『無』を『空』へと昇華させた。

 

  仏教はそれを『悟り』と称して今日まで延々と伝え続け、特に日本において『禅仏教』として後進の人類を導くべく

  ほそぼそとではあるが確固たる修行を続けている・・・のだ。

 

               

               『 「無」は無視で 悟り悟りと じゃかましい その口閉じて 坐殺あるのみ 」 馬骨    

 

  サンドイッチマンの富沢の如き『何言ってるか、わかんない…』というべからず、

  『最初はグー、ジャンケンぽん!』のように、最初は『無〜』こそが、禅の実践において大事ということなんだけど・・・

  


   武士は食わねど高楊枝・・・

2024年08月23日 | 東洋自分なり研究所

  前々回のブログで絶望ストーリー、映画『ジョーカー』について考察して、

  8月21日のブログ記事〜映画『ジョーカー』を再度観て・・・を書いた後、『なんでこうなるかなぁ〜』なんてボーっとしてると

  『武士は食わねど高楊枝・・・』なんていう、私の愚脳のどこから出てきたのか? かって一度も使ったことのない諺(ことわざ)が浮いてきた。

 

  『ジョーカー』とこの諺の『武士』と何の関係があるの?・・・と、自問してみると、確かに私は

  この映画の主人公の、上半身ハダカの痩せこけて背骨が丸く曲がった背中のシーンに衝撃を受けたが・・・どうもそれが関係しているようなのだ。

 

  私はこれまで、この諺『武士は食わねど高楊枝』について考えたこともなかったし、とくに『高楊枝』というのがピンとこなくて

  この諺に、なんとなくなじめないでいたが、今回この『ジョーカー』のおかげで腑に落ちる気がしてきた。

 

  禅をはじめ、東洋思想の基本は『身心一如』であるが、『武士が高楊枝』とは、すくなくとも『背筋を伸ばした、堂々とした様』であると解したとき

  言下に、武士というものが、幼少期より『姿勢を正す』という基本教育の徹底を思い浮かべたのだ。

 

  日本文化の根底に『武士道』というものがあり、『武士道』の根底に『禅』があった事実を考えると

  こんにち、国際的な場で、我が国の『武士道精神』を称える意味で『サムライ』という呼称が使われる場面では、

  『ジョーカー』のような人間の出現はありえそうもなく、そういった対比からふと、『武士は食わねど高楊枝』が出てきたのであろう・・・。

 

  そして私のような素性のわからない馬の骨でも、一旦海外へ出てみると何故か『サムライ』という自意識が芽生える気がするのが不思議だ。

 

             

          『 我こそは ラスト・サムライ 丸腰の 息で鬼滅の 大和魂 』 馬骨

 

  伝統文化のない北海道の片田舎で育ったガキでも、チャンバラ映画の影響のもと、『武士道』の何たるかを直感した私は、

  自分こそが本当に最後の『ラスト・サムライ』か・・・と思ってみたが、いやいや『鬼滅の刃』やらなんやかんやで、その『武士道精神』は

  動詞の『last』(継続する)という意味で、後続の日本人若者達にあらゆる在り方で『ラスト・サムライ』は、以心伝心するものなのかもしれない。

 

 

  

  

 


 『観』という悟感をめぐって・・・

2024年08月22日 | 東洋自分なり研究所

  今年の1月、80歳の誕生日を迎えた松岡正剛氏が動画に登場し、それに触発されて、こんな記事を書いた1月26日のブログ記事〜 人"間"工学〜『瞑想』編集

  その松岡正剛氏が8月12日に逝去した・・・事をコメントで知らせていただき、その後『X』で関係者が出した訃報メッセージを読んで実感。

  1月にはあれほど、元気そうであったのに・・・残念。 娑婆はこれから益々面白くなるであろうに、松岡正剛氏のいない娑婆は非常に残念だ。

 

                

                   1971年・雑誌『遊』の創刊号表紙

 

  1971年、松岡正剛(27歳)、友人2人と工作舎を設立し、雑誌『遊』(1971年 - 1982年)を創刊する。「オブジェマガジン」と称し、

  あらゆるジャンルを融合し超越した独自のスタイルは日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な衝撃を与えた。(ウィキペディアより)

 

  彼のその後の八面六臂の活躍は、あまりに多岐にわたり、私は知る由もなく、ただただ『凄ゲ〜(発想が)+かっこイイ・おっさん』の著書の

  何冊かを繰り返し読むたびにインスパイアされていたが、私自身が『考えるな、漢字ろ!』で『漢字方程式』に開眼したあたりより、

  彼の言う『編集工学』の一端を理解した気になり、それまで難解と思っていた彼の著書が、一段と面白さを増した・・・といういきさつがあった。

 

  今、彼が27歳のとき創刊した知る人ぞ知る、雑誌『遊』の表紙を観るに(上の写真)↑

  彼自身どれほど意識していたのか、空中に浮かぶ『目ん玉』がつまるところ、『観』であることを・・・。

 

  一度も会ったことのない彼を、『先生!』と親しみを込めて呼びかけようとする、私と彼の見つめる先には、やはり『観』があるのだろう。

 

  そして、この表紙は紛れもなく 『古池や 蛙飛び込む 水の音(ジャポン!)』と、日本文化の観えない謎を解くピクトグラムであろうか、先生?