拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  還暦ギャラリー『森』〜 背中の肖像

2024年06月10日 | 必撮無眼流

  今日、当ギャラリーにて展示する作品も初公開で、『背中の肖像』という基本顔が見えない写真で構成されている。

 

  私の『撮人家』としてのキャリアは21歳で写真学校に入学した時より始まりますが、『モノクロ』&『人間』を主題とする・・・

  を原則に35、6歳までなんだかんだ撮影していましたが、2度目の禅修行以降、スイスに在住し、安定した会社(引越屋)に就職するまでの

  約25年間ほど写真活動を休止していました。

  この期間は、写真のアナログ銀塩写真からデジタル化への移行の真っ最中の時期で、25年の歳月を経て写真界に戻ってきた時、

  私は浦島太郎の心境でした。

  2003年にMacを買い、2006年に最初のデジイチ・キャノンを買った時からPhotoshopで現像するようになり、曲りなりに写真活動再開となりましたが

  スマートフォンやコンピューターの発達に比例して、昔のように街なかの人々を勝手気ままに撮影することが憚れる世の中になっていました。

  何が驚いたかと言って『自由に人を撮影出来ない状態』・・・になった世の中の変化ほど『撮人家』としての私を驚かせ、嘆かせた事はありませんでした。

  しばらくショック状態で・・・猫などを撮ってましたが・・・。

 

                       

                   友人のスイスの禅僧、道海さんのこの写真を撮った時、私は『背中の肖像』を撮ろうと閃きました。

                   最初は肖像権に対する抵抗運動としての気分が大きかったのですが、だんだん『後ろ姿』も主張している事に気づき始めました。

  

  4年に一度、Veveyの街ぐるみの写真展がり、広場で見かけた『老人の背』の写真     

                   

                    違う年の、同じVevey街の女性写真とそれを見上げる男の後ろ姿

                                      

                                     この写真は今住んでいる街、モルジュの駅での一幕

                                     年配の女性の背中には『イエスの再来』のメッセージを掲げて駅周辺をうろついている人の姿。

 

             

              なんと、川の中にベンチを設置して川の流れ音を鑑賞する・・・という知人アートディレクターの企画

 

       

        数年前まで住んでいたローザンヌでの街の風景・・・日本で言う『ネズミ捕り』ではなかったよう・・・。

   

                              

                        スイスアルプス地方では年一回『デザルプ祭り』といって、夏の間アルプの草を食べていた牛たちが

                        秋になって、群れになって降りてくる行事の際のワンシーン。民族衣装の牛飼い。

 

     

      こちらもスイス・ウルネッシュ村での祭りのワンシーン

 

                                

                                パリで毎年行われる写真フェス『パリ・フォト』での会場でみかけた風情

 

         

           夏の間、2〜3ヶ月スペインの島で過ごす義父の後ろ姿

 

                                

                           スイスの田舎で見かけたシーン・・・『今どきの若いもんヮ…』と言っている老婆の声が聞こえるようだ。

 

  まぁ、こうして観ると『人の後ろ姿』も色々物語って面白い・・・ものだなぁ〜と思う。

  私の若き日には考えもしなかった『背中の肖像』、場合によっては顔の見える写真よりも心情が読み取れる『背中』の表情は案外『表現』豊かであった。

 

  

  

  


  還暦ギャラリー『森』〜 骸骨人

2024年04月21日 | 必撮無眼流

  前回のブログ記事、久保田早紀さんのヒット曲『異邦人』は、私の22歳の頃、制作した手作り写真集『骸骨人』を思い起こさせた・・・。

  

  若い時には誰もが、『求むべき誰か』を思い浮かべるものだなぁ・・・とは思ったが、

  彼女は『異邦人』と自己の外に、私は『骸骨人』と自己の内にそれを求め、結果的に彼女はキリストに、私は仏にたどり着いたのだろう。

  いま考えると、私が『禅』に向かう道はこのあたりから始まっていたのだろうか。

 

  写真集を企画するずーっと以前に故郷、北海道で撮った自撮、17、8の頃

 

  写真学校時代、あれこれ写真のテーマを模索する中、『そういう時、自分ってどんな表情しているのだろうか…?』というような好奇心から始まり

  また、好きな時に、好きなだけ撮れる自在なモデル・・・としての自己の存在、これは『撮人家』としては撮らない選択はないだろう、という発想があった。

                    

             タイトルを決め、一応写真を見せる順番なんかも考慮して作ったボロボロになった50年前のアルバム『骸骨人』

 

  写真学校時代当時、私は神戸の牛乳屋さんに住み込みの配達+集金人であったから、そこでの生活をベースに撮った写真が多い。

  バイクでの牛乳配達時   3畳ほどの空き部屋を暗室兼書斎に使わせてもらう。

 

    その部屋でこんな感じで『己事究明』  集金で〜す!

 

中華レストランで皿洗い   学校のスタジオで仲間に撮ってもらう…

 

      視覚的に作品ぽく  もしかして孤独を癒やしていたか?

 

近所のオーディオ施設でポール・モーリアと 学校の屋上の骸骨人

 

      当時みた映画『パピオン』にちなんだ写真 

 

        得意のフイルム増感現像、ハイコントラスト 富士フイルム、ネオパンの威力

 

                『骸骨人』・・・ぽい、微笑みも忘れずに

 

  この写真集『骸骨人』は、後に『貰った背広』という、ちょっと洗練された風のタイトルに変え、ここに展示した16枚中、13枚は未使用であるから

  今回初の展示となった。 写真も時と共にセピア色になる『諸行無常』のなか、骸骨人はそれなりに『諸法無我』を目指していたのか?

  


  還暦ギャラリー『森』〜 Susan in Japan

2024年04月05日 | 必撮無眼流

  私、一撮の写歴の中で非常に重要な意義というか、写義を自分に教えてくれた作品・・・であったなぁ、と思う作品です。

  スーザンとの出会いは、私に西洋への開眼と同時に、自分の国の伝統文化への開眼でもありました。

 

       

  27歳の時、勤めていた写真学校を辞め、『英語』に取り組む一大決心をして大阪と京都の間にある、枚方市の住み込み型、英会話スクールに入学

  そこで英語を教えていたオーストラリア人のスーザンと知り合い、恋愛関係になりました。

 

       

  スーザンは枚方から京都の街のど真ん中、むかし郭(くるわ)であったという古い家を借りて住み始め、私はよく遊びにいったのです。

 

       

        スーザンの友人の裁縫師が来てくれ、スカートの仮縫いの様子、畳に板の間の部屋・・・

 

                       

                   スーザンが飼ってた猫の名が『Basyo 』、その当時『芭蕉』と聞いてもなんとも思わなかった。

                   それでもこんな一句を詠んだっけ 『 そばだてる 猫の耳にも 届かじや 梅の香乗せた 新春の風 』

 

                     

      スーザンの向こうに俵屋宗達の『風神』があり、私は和洋がとりなす光の『美』を感じていた・・・

 

           

        京都の郊外、大原へ行った時、スーザンは『開け護摩・・・』と言ったのか?         壬生寺で初めてみた壬生狂言 『大原女』

 

                     

                古着屋で買ってきた着物にご満悦なスーザン        私は初めて観る『薪能』に『幽玄』という言葉の重みを知らされた・・・ 

 

       

          青春の光と影・・・というが、写真もまた光と影なのだ

 

       

        1981年、ギャラリー銀座Niko Salonで『Susan in Japan』写真展をした。

 

       


私にとって写真・・・とは?(2)

2024年03月05日 | 必撮無眼流

  我が写真家『一撮』君の生前葬はこれで、つつがなく何の後悔もなくすんだかな〜・・・と、軽く自分の書いた記事を読み直すと

  なんか肝心なことを書き忘れているような気がしてきた。

 

  以前ブログに書いたが、写楽賞というので、『坂本龍一』賞というのを貰ったとき、作家の中上健次さんが私の耳元で

  『あたなは(小説を)書けますよ』・・・と言ってくれた時、私は彼が誰であるか知らなかったということもあったが

  内心『書けないから、写真をやってるんだよ!・・・』と言いたかった気持ちを抑えて『そうですか』と返事をかえした事を思い出す。

  しかし、実際に言いたかったことは、『文章で書けない世界(次元)を表現したいから写真をやっているんですよ』・・・と、

  自分の深奥にあるいまだ言語化できていない事柄を自分にも彼にも伝えたかったのではなかったかと・・・今では思うのだ。

 

  そうなのよ、写真は視覚芸術・・・というか、視覚芸術の中でも、1/100秒で撮れてしまうという意味もこめて、じつに『非言語』のところが

  最大の特徴であるわけで、それは小説とは異次元レベルにある写真、そこを深く追究することなしには、一撮も浮かばれない・・・ことに気が付いた。

  その意味で、写真は指導するといっても案外に指導することの難しい芸術であるとあらためて思う。

 

  高額なカメラで、とにかくシャッターを切りさえすれば、一応何かがそれなりに写っているわけで、写真を撮るのに特別技術がいるわけでもない …

  というところが、結局その写真家の内面というか、何を自分は求めているのか・・・というあたりに問題の焦点が当てられてゆくものであったのだ。

 

  だから、写真を撮るときは、全身全霊を込めた直感によるシャッター切り、『視覚された場面が愚脳に言語化される』以前、ほとんど剣道の打ち込む際の

  『気合』のようなもので、その意味でも写真は激しく『非言語』表現であった。

  しかし、この『己事究明』の門前まで来ていながら、『私の写真術』ではそれ以上前に進むことが出来なかった。

 

  今思うに、禅の旗印『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』・・・とある中、写真と共通するのは『不立文字・教外別伝』というか

  『教外別伝』は『仏教経典』を意味しているからそもそも別物として、案外『直指人心』というのが、写真を真剣に探究することで至ることのできる境地

  なのかとも思うが、やはり究極の処までゆくにはそれなりの『大疑』が自己の中になければならなかったのだと思う。

 

  禅修行がある程度深まったような気がした時でも、私は『直指人心』がよくわからずにいた。この4っの旗印の中でもこの『直指人心』だけは

  文言としてもなんだかよくわからない言葉であったのだ。

  写真活動を通して、無意識に『己事究明』としての『直指人心』を探求する旅にでた私は、知らぬ間に『禅』に出会っていた。

  そして、『直指人心』はじつに『非言語』界のことであった・・・。

 

              

                今日の午後、退院してくる相方・・・独り暮らしに慣れてくれば、嵐のような・・・。

  

 

  


   私にとって写真・・・とは?

2024年03月02日 | 必撮無眼流

  明日で相方が入院してから一週間。 

  鬼のいぬ間の洗濯・・・ではないが、断捨離としてテレビ一式(ビデオ、DVD機器)とスイスに来てから撮影したモノクロフイルム(300本分)と

  密着シートを思い切って処分した。その他にも地下の小さな物置にある写真作品群も処分するつもりが、きつい風邪にかかり中断したが近々実行するつもりだ。

 

  歳も歳だけに、(過去の)活動の制限は必須、それに地下の小さな物置が、使ってない写真作品やらで飽和状態・・・久しぶりに独身時代の気分に還り

  心機一転のつもりで写真類の処分、特にフイルムを捨てるというのは『過去の時間』を捨てるようで、ある種自分の生前葬をする気分・・・。

  (但し、すでに作品として出来上がっているモノのネガだけは選択して保存、デジタル化もしてある。)

 

  写真家としての過去の自分の生前葬をするにあたり、自分にとって写真とは、なんであったのかを・・・探究し、その結果をも共に埋葬しなければ

  本人も浮かばれないだろう・・・ということで考察することにした。

 

  21歳のとき、関西の芦屋駅前にあった小さな芸術学院、『芦屋芸術学院・写真科』に入学、わずか2年の期間であったが、

  私にとってある意味人生で最も充実した非常に濃い期間であった。

  『写真』のなんたるかもまったく知らない状態、ただ直感的に『これだ!』と、突入した世界・・・は、今思えば案外に『深淵』な世界であったのだ。

 

  コマーシャル写真の先生方は地元関西の三流カメラマンであったが、ただ『写真概論』を担当した今駒清則先生は入江泰吉の弟子であり

  同時に大阪芸術大学の先生で、週一回の彼の授業『作品評』・・・というのが私を成長させた授業であった。

  畳一畳の大きさの発泡スチロール板の上に自分の作品を並べ、先生そして同期の仲間十数人と一緒に観て、先生の評価をいただく・・・という時間であったが

  これに私は全力を注ぐことになった。つまり今駒先生に観てもらう為に、次の週までに作品を作り、展示する・・・という事が2年間続いた。

 

  写真作品は作るだけではなく、『評価』を受ける・・・という過程を経て初めて完了するというものであったが、この行為はある種『禅問答』の自分なりの『答』を

  老師ならぬ、今駒先生にぶつけていた・・・行為そのものであったと言える。

  その過程の中で、『私の写真』を良いにせよ悪いにせよ『評価』を下す者は、私によってその人の実力を『評価』される立場にある・・・ということにだんだん気が付き

  私は自分の作品が出来上がったとき、極力『自他不二』の視点で見詰め直し納得が行くものを『作品』として表示し、『文句を言わせないぞ!』という決意でのぞんだが

  作品を観ていただく時点では自己を『無』にして参考になる意見は大いに取り入れる心の柔軟さも忘れないように努めていたように思う。

  もちろんこの当時、『自他不二』とか『無』とかの佛語は知らなかったが、心持ちはそういったものであった。

  『写真』は『真実を写す』の略語だとすると、自己の内外の真実の重ね合わせを写す、予想以上に深〜い芸術とも言えそうだ。

 

              

  この写真は『デザイン』の授業での作品で、レタリングを駆使しての22歳の作品。

  気負った所が私らしいが、無意識ながら必死に『己事究明』の道を探っていたのだろう・・・

 


  還暦ギャラリー『森』〜混沌の街・ルッツエルン

2024年02月17日 | 必撮無眼流

  スイス国内でもカトリック教の州では先週から今週にかけて『カーニバル』が行われた。

 

  私が住んでいるヴォー州とか隣のジュネーブ州などは、16世紀宗教改革者カルバンによってプロテスタントの州となり、カーニバルという行事を行わない。

  スイスは言語(独・仏・伊・ロマンシュ)だけでなく、宗教的にもプロテスタント(23%)・カトリック(35%)と分断しているのだから、

  国の面積が九州ほどの小さい国とはいえ、地理的分断(アルプスやジュラ山脈)も加えると、国がまとまっているのが不思議なくらいバラバラの国といえる。

 

  そんな国とは知らずに来瑞(スイス)した当初(1991〜2002)、私はにわか観光ガイドとなって日本人観光客をスイス国内をガイドしたが・・・、

  今思うと生活の為とはいえ冷や汗もので、そのうちその『迷ガイド』ぶりを告白する日もそう遠くない予感がしている・・・。

 

  写真家の端くれとして、私もスイス国内のあちらこちらのカーニバルを撮影に行ったが、

  2017年12月にユネスコ世界無形文化遺産に認定された、有名なバーゼルのカーニバル以上に感動したのが、今日紹介するルッツエルンのカーニバルで

  2005年の白黒写真と、2008年のカラー写真の混成組写真で構成した。

  ルッツエルンという街はドイツ語圏で、首都のベルンとチューリッヒの間に位置する湖とカペル橋で有名な風光明媚な街である。

 

             

             (いくつもある)広場での一撮(ワンショット)・・・カオス(混沌)ぶりが象徴的な写真で私のお気に入り。

 

              

        ルッツエルンの旧市街の構造は、カーニバルという祭りに最適で、多様なステージを提供する好条件に恵まれている・・・ことを強く感じる。

        前方に様々な楽団が交代で演奏しているのは階段を利用したステージだ。

 

             

             有名なカペル橋を背景にポーズをとっている貴婦人は恐らく観光客・・・マスクを着けるだけで、カーニバルに溶け込んでしまう・・・。

 

    

          15世紀のシュプロイヤー橋(死の舞踏の絵が掛かっている)の番人のようにじっと座ってアピールするピエロ・ガール

 

                

                   簡単仮装でカーニバルを楽しむおっさん達にはビールは欠かせない!

 

                   

                   カーニバルで『子供』の存在はかなり重要だ!・・・混沌(カオス)を微妙に誘導しているのが彼等天使だからだ。

 

                  

                多分、「LGBT」セクシュアルマイノリティ(性的少数者)がヨーロッパで徐々に開放に向かった原点がもしかしたら

                 カーニバルの『混沌』の寛容さにあるのでは・・・と考えたりしたが、どうだろうか?

 

                

                 障害者たちも、『混沌』の中では主役級に重要な位置を占めている。

 

                

             映画、『ブレードランナー』や『スターウオーズ』の世界観があり、地元民は仮装衣装を一年を通して準備するそうだが・・・

              参加者は、思い思いの格好でぶらぶら歩き回り、不思議な時空を作り出している。

 

               

                  この女性は一切仮装をしていないのだが・・・日常と非日常の境目を溶かす微笑みを浮かべている・・・

 

                 

                仮装には『恐怖系』、『不思議系』、『セクシー系』『マッチョ系』・・・などいろいろあるが

                 『ユーモア系』はやっぱり人気がある。 ドイツ語圏の男性は『硬い』・・・という偏見を私は持っていたが

                 ルッツエルンのカーニバルを観ることで、それは払拭された。

 

                  

                    親子で思い思いの仮装で参加・・・それが、重要であることを教えられる。

 

                     

                年頃の若者達にとって、カーニバルはファッション追究の点からも大いに意義のある行事といえる。

 

                  

                   これを見た時、男の一物、女のオッパイ丸出しで度肝を抜かされたが、これぞ『ザ・オトナ』の仮装! アッパレ!!

 

                     

                 『明日にかける橋』という歌があるが、年に一度思いっきり羽目を外す大人たち・・・を観て育つ子供等

                  多様なモノに寛容性を育むこうしたカーニバルは、とても大切な気がして、カーニバルのないプロテスタントの街にも

                  他宗教の国にも広がって行ってほしいと思う。

 

  (そういえば、今日17、明日18日とローザンヌの大学(EPFL)でJapan Impact・・・という催し物があるが

    これがカーニバルのないローザンヌでのカーニバル代わり的 祭りになってきているような・・・)

 

                      

  

 

 

  


  還暦ギャラリー『森』〜 スイス祭り『ウルネッシュの祭り』

2024年01月13日 | 必撮無眼流

  スイスでは毎年、1月13日に行われる祭りがある。

  『シルヴェスター・クロイゼ』といってユリウス暦の大晦日がこの13日にあたり(シルヴェスター[大晦日]/クロイゼ[精霊])

  「美」「醜悪」「自然」の3種類のクロイゼと呼ばれる精霊が、それぞれ独特の衣装と仮面を身にまとい、鈴の音をならし、

  ヨーデルを歌いながら村を練り歩く・・・お祭りは、アッペンツェル州のウルネッシュ村が一番有名だ。

  私は3回ほど、写真を撮りにいったが、今回ブログで紹介するのは2009年1月13日に撮ったものである。

 

     

      『美』のクロイゼのグループは5〜7人一組になって村の一軒一軒を訪ね歩く・・・遠くの空には月が…

 

  アッペンツェル州は、フランス語圏から行くと遠く、電車を乗り継いで約4時間半かかる。

  祭りは、早朝暗いうちから始まるので、私が行く時には前泊することになる。

                                

                            村人は一年かけて衣装を工夫するが、ファッション的にとてもおしゃれな感じがする

                            このクロイゼ達は、カウベルを鳴らしながら歩くが片方の手はポケットに突っ込んでいるのがとてもナウい・・・

    

         このように、一軒一軒訪ね、到着すると家の前でヨーデルを歌い、古い年の悪霊を追い払い、新しい年の福を招き入れるクロイゼたち

              

  スイスといえば、『ヨーデル』が有名であるが、このように形で生活に密着している事をはじめて知った。

 

           

     家の主人がクロイゼをねぎらってストローで飲み物与えている図      年に一度こうして村人どうし新年を祝福する

 

                 

                 これは『自然』をテーマにしたクロイゼ、松をあしらった衣装にカウベルを付けると相当な重量になる…

 

           

      子供のクロイゼグループがあり、伝統を受け継ぐわけだが、動きがイキイキして活発なのが、本当に頼もしい

 

                

                こちらは『醜』のクロイゼ、中、高生ぐらいの年齢グループ

 

  この4人は、面を外して休憩中、働き盛りの男達

 

                  

               この青年は、村を巡り終わってお面を外したところだ。爽やかで満面の笑み

 

               

              彼等が背負っている立体模型のテーマは、釣りやハイキングなど日常的な風景が多いが、

              それこそが『平和だろ!』・・・と、言っているように観え、世界平和へのメッセージであり、祈りなのだろう。

              

 

                  

                      


  還暦ギャラリー『森』〜スイス闘牛(その1)

2023年12月13日 | 必撮無眼流

  スイスに来て、もうすぐ33年を迎える。

  うち前半11年を観光ガイド、後半15年を(海外向け)引越屋、そして来年2024年に定年退職して7年目を迎える勘定になる・・・。

  いずれの仕事も、イベント稼業のようなもの、お客様に対して非常に神経を使う稼業であって、一日一日が勝負みたいなところがあったので

  一心不乱で駆け抜けていたら『定年退職』・・・みたいな感じがする。

 

  それでも、仕事スケジュールが不安定な『観光ガイド』からサラリーマン『引越屋』への移行は、気持ち的、経済的に安定をもたらし、

  長年封印していた写真活動をボチボチ始めた頃、最初に取り掛かったテーマの一つが、今日紹介する『スイス闘牛』であった。

 

  スイスにこんなに長く居住しながら、ろくにフランス語も喋れなく、東洋だなんだと、結局日本のことばかり考えているような自分に呆れるのであるが

  それでもまぁ、今日のような写真活動を『還暦スキャン』してみれば、自分なりに『現地レポート』をちゃっかりしていたことを思うと

  それこそ今日このブログという『場』で、それを発表できる幸いを有難いことだとしきりに思う・・・。

         

  この写真は、2004年・Martigny(マルティーニ)という小さな町での『闘牛』風景・・・ローマ時代の円形劇場を利用した闘牛場が格好いい。

  ほぼ、20年前ということになるが、当時は『闘牛』もバレー州…、それも酪農関係者の間で楽しむ、地方色の強い行事であったのが

  十数年前よりテレビ中継が入るようになり、徐々にポピュラーになって全スイス的行事として受けとめられつつある。

 

        

                   

     

               

  私は、牛たちが闘っている場面も好きであるが、より面白いのがこれらの写真のように、控えている時の人々や牛の様子だと思う。

  日本にいた時も、宇和島の闘牛を取材したが、酪農家の人々の『闘牛』というイベントに対する思いは全く同じ様子なのが面白い。

  そして、同じスイス人でも山間部に牛とともに暮らす彼等のメンタリティと、

  ローザンヌやジュネーブの都市部に住む人々とのその違いは非常に大きい・・・と感じたものだ。

 

          

  スイスに初めて来た時、スイス人の友人が給料の男女比が大きいと嘆いていたが、たしかにスイスは極めてマッチョな国だ。

  スイスで『婦人参政権』が認められたのが、なんと1971年であった・・・というのが驚く。 州レベルでは1990年になってやっと認められた州(アッペンツェル)もある。

    

    この写真は2006年、同じくバレー州であるが州都、Sion(シオン)での闘牛風景。 

     白ワインを瓶ごと豪快に飲むオッサン・・・これがバレー州の男だ!!

 

  バレー州はゴツゴツした岩山ばかりの不毛な地であるような印象があるが、レマン湖に注ぐローヌ川沿い北の斜面は陽当りがよく

  ワインの為の葡萄畑が続き、スイス産として美味しいワインは、このバレー州で穫れる。

  

  

  


 還暦ギャラリー『森』〜 花『猫』風月

2023年09月27日 | 必撮無眼流

  花『猫』風月・・・というキーワードでこれまで何回かブログを書いた気がして検索してみると 2011年6月25日のブログ記事〜ボクは撮心家ー必撮無眼流

  こんな記事に行き当たり、『必撮無眼流』のカテゴリー誕生の経緯が書いてあった。自分でもすっかり忘れていたが、『撮道』とか『撮心家』など

  この当時から実に適当な『自分なり造語』をせっせと造っていたことが笑える。

 

  今日紹介したい写真は2006年に『デジタル写真』に移行した最初の結果報告のような作品『花"猫"風月』・・・と言える。

 

  今思うと何のことは無いようにみえるが、当時の写真家どもにとって、これはまさに『革命』的出来事であった。

  ことに、35歳頃から50歳ぐらいまで写真活動を中断していた私にとって、写真のデジタル化は、竜宮城から戻った"浦島太郎現象"を引き起こしていたのである。

  『デジタル化』は、=『Do it yourself』を意味したが、そのデジタルの波を利用して写真家・渡部さとるさんのブログ『写真生活』を教科書にして

  彼が悪戦苦闘しながら『銀塩写真』から『デジタル写真』へ移行した足跡に、私はスイスにいながら大いに学ぶことができた。

          

            2006年頃の私の写真デジタル化は ① 私に『色』に目覚めさせた事

           (肖像権の問題が起こり始めた頃で)  ② 人間以外のテーマ『花鳥風月』に開眼した事・・・があった。

 

          

           2006年に、キャノンの一眼デジカメを買って最初に撮った風景・・・私はこの『色の世界』にビックリしたのだ。

           そして、2011年にスマートフォンを買い、ツイッターを『俳句』で始めるという、私の『和風化』が始まった。

          

          デジタル・カメラは装置として複雑で画角もこれまでのより横長のような・・・と思考錯誤しているときに

          この猫に出会い、『嗚呼・・・!』と閃き、猫撮でデジカメに慣れる練習をしよう・・・これが動機であった。

          

          私は猫と相性が良いらしく、猫は私に様々な『猫態』をさらけ出してくれた。

          これは『胡蝶の夢』・・・というタイトルの写真で、知らずの内に『東洋思想』方面に向かう・・・

           

           猫は気の変わりやすい動物であるが、好奇心も旺盛のようで、窓辺にいた猫を撮っていると

           ここまで降りてきて『撮りなさい』・・・と言わんばかりにポーズしてくれた図

           

           2年間ぐらい一定期間『猫撮』に集中したが、中でも最もスイス的『猫風景』は田舎のシャレーという

           スイス伝統木造家屋にいる猫ちゃんを撮ったこの写真。

           

           真っ黒子猫が階段を降りてきて私に近づいてくる様・・・書道で一筆したような『活き猫』を掛け軸風に。

           

           ローザンヌ近辺を『猫取材』したが、当然ながら『レマン湖』をバックにした『湖猫』の立派なこと。

           

           これは私の中でも最も『美猫』写真・・・しかも『猫』の字を態している処が(自己)自慢の作品。

           

           何匹か『猫』を撮影して気付いたが、物凄く接近して撮っているのにカメラを完全に無視する能力・・・には

           恐れ入った、実に『千両役者』ともいえるカメラ視線を絶対に向けないテレビ・映画向き『猫態』

          

          このなんと可愛らしい・・・『猫態』は、一瞬の出来事であった。

           まさに『花”猫”風月』の詩的なことを猫は意識しているのだろうか・・・?

          

          『猫を求めて三千里』・・・ローザンヌ郊外、田舎丸出しの環境、豚と鶏と共に生活する猫環境は最高であろう。

          

          こうして、何匹の猫たちを追っかけたであろうか?

          それにしても、猫から学んだ事は少なくなかった。『天上天下唯"猫"独尊』の生き方には、人は誰もが憧れる・・・のだ。

 


  還暦ギャラリー『森』〜 宇和島の闘牛

2023年09月07日 | 必撮無眼流

  私は自分自身を『写真家です… 』と堂々と名のる時期を持つことなしに、写真家への野望がいつのまにか尻すぼみになってしまった男ですが、

  今日このギャラリーで展示する作品は、写真学校を卒業後、同校の写真科の助手として雇われの身となり、初めて経済的、時間的余裕ができた

  写真家を夢見る初心者として、誰に頼まれたわけではないテーマ『宇和島の闘牛』を勝手に撮ったものです。

 

   

  1976年(24歳)のとき ↑ 、私は宇和島へ行って闘牛を撮ることにしたが、その動機というのがちょっと恥ずかしいというか

  当時私はスティービーワンダーの曲が好きで入れ込んだ時期でしたが、彼は1950年、5月13日生まれの牡牛座、

  で私も1952年の5月12日生まれの『牡牛座』・・・とうのが『宇和島の闘牛』を撮りに行く事になったキッカケだったような・・・。

  

  神戸〜宇和島って近いと思っていたが、いま調べると案外遠い所であった。ユースホステルに一泊?であったろうか。

  1977年と、全2回宇和島へ取材に行ったことになるが、取材方法も知らず取りあえず宇和島で牛を世話をしている人から撮り始めた。

  

  そんな一人の大西さん(?)親しくなっていろいろ教えてもらうことができた。相撲のような番付表が闘牛にはあるのだ。

  

  闘牛場に次々と闘牛が集まってきた。

    

   この綱の立派な事!                          人間の地下足袋の足形と牛の足形が似ている・・・

    

   オッサンのがらがら声の場内アナウンスがワクワク感を高める     クールなお兄さん方も、どの闘牛に賭けるか物色中か?

  

  闘う牛一頭につき勢子(介助人)が一人付く、写真右のオッサンは牛のオーナーであろう。

    

   ビールを飲ませているのには驚いた・・・                 外では、どの闘牛が強いか・・・仲間と談義

 

  

  牛と牛の闘いは本能によるもので、スペインの『人間対牛』の闘牛のように残酷ではない。 

  負けを認めた牛は逃げ、勝った牛はそれを追わない・・。

  

  『闘牛』は人間と家畜の関係を超え、地域に根ざした活動として宇和島に定着している様子をみて

  社会について無知だった私も、写真が持つ特性(表現性、記録性)が他人との交流によってより深まる事を実感した。

  (この時の写真で一本のYoutube動画を創りました。興味のある方は御覧ください。 https://youtu.be/KNkx5tqKr-4 )

  いまから47年前の宇和島の闘牛・・・ということで、現在と比較して記録としても面白いものがあるかもしれない。

  

  


  還暦ギャラリー『森』〜 ルミちゃんの里

2023年08月22日 | 必撮無眼流

  今日紹介する写真は、我が郷里(北海道)北見での写真。

  1975年。今から48年前私は23歳、神戸の写真学校を卒業して一旦田舎へ帰ったものの、これといった仕事がなく

  バイトをすることになるが、ある日家族の知り合いの知り合いのツテで、農家の玉ねぎ収穫を4,5日泊まりで手伝うことになった。

 

  私自身は小さいとは言え北見の街中の出身であったので、郊外の農家の方の生活がどのようなものであるか全く知らず

  そういう意味では何もかも新鮮であり、撮人家としての興味もかなりあったと思う。

  当時どんな仕事をしたか全く憶えていないが、3,4歳の可愛いい女の子『ルミちゃん』を中心に玉ねぎ農家『荒川家』の様子を撮った記録

  が今日の写真である。

      

     私が子供の頃、一般的に自家用車を持っている人は少なく、自分の住んでいる地域以外はほとんど知らない世界であった・・・。

     広大な玉ねぎ畑、昔北見はハッカの生産で一時世界一位・・・であったそうだ。

            

        荒川家前の道をどこぞから帰ってきた、おじいさんはくわえタバコでにっこり笑っている図

 

       

             ルミちゃんのお母さんは稲刈りに勤しむ 

 

       

              ルミちゃんはおじいさんと昼寝

 

       

         こういったスタイルの蚊帳・・・を初めて観た。 

 

       

        ルミちゃんを撮った中で最高に可愛いシーン

 

      

          爺さんと息子。 猟銃?を手入れする図。

          仕事はすべて家族でやっているようで収穫期は大変。若旦那は私にここで働くことを提案してくれたが・・・。

 

      

       今思えば、よくぞお地蔵さんを撮っていたものよ。 『郷里』は『悟り』・・・とも知らずに。

       非常に良い『お地蔵さん』と出会っていた図。

 

  このあと私は結局、神戸に帰りゴルフキャディーなどのバイトを経て、卒業した専門学校へ助手として勤務することになった。

  

  北見、神戸、東京、北鎌倉居士林、そしてスイス(ローザンヌ)も・・・いずれも再度帰郷している事実を今回あらためて発見した。

 

       

 

 

  


  還暦ギャラリー『森』〜 青い風

2023年07月19日 | 必撮無眼流

  前回のギャラリーでは『神戸の婆様』らの写真を披露したが、今回は本邦初公開となる『神戸のピチピチギャル』等をお披露目しよう。

 

  『青い風』というちょっと鼻につくタイトルは、当時写真学校一年生時(21歳)に、若い女性写真を分類する際につけたタイトルであるが

  今見ると、私自身が初々しいくも青臭い若者であったことを証明するような作品群で、自分の人一倍人見知りする性格をカメラを盾にして隠し、

  立派な『撮人家』を目指す気持ちと同時に、異性に対する憧れの発露でもあった。

    

  この2枚の写真↑は、三ノ宮での神戸祭での写真で、道産子の私にとってまさに『洋風』を感じさせる若者の風貌やファッションは鮮烈なものであったろう。

  明るく開放的で素敵な祭『神戸祭』はその後、人身事故?などがあり中止になったのが残念であった。今は復活したのだろうか?

 

    

  彼女等はたぶん18歳ぐらいであろうか? 今は60代後半か。

   

 神戸といえば須磨海水浴場が素敵な場所であったなぁ・・・      こちらは日本海側、竹野海水浴場。我が芦屋芸術学院がオーガナイズしたサマーイベント

 

   

  こういった『和風』的な美に、少しずつ芽生えた時期かも・・・

 

   

  働いている女性の姿を撮れる『写真』というモノにあらためて魅力を感じ始めていた。(写真は下手であったが)

 

  ウエイターのバイトをしていた時に仲間のウエイトレスを撮ったもの。女の子たちと『世間話』できる貴重な場・・・という思い出。

 

 

  凧揚げしている女性?少女?・・・初めてナンパを試み相手にされなかったが、後に私の卒業展の写真作品『マリア像』を観て、私に電話してきた娘。

 

  写真をしていて良かったなぁ…とつくづく思うのは、ひとえに自己の『還暦スキャン』が瞬時に出来ることだろうか。

  今現在は、こんなに気軽に人のスナップ写真を撮れないだろう。そういった意味でも『良き時代』であった。モノクロ、銀塩写真\(^o^)/

  

 

  


  還暦ギャラリー『森』〜 六甲の婆様たち

2023年06月08日 | 必撮無眼流

  道産子の私は19才で、東京経由(京王プラザホテル就職…3ヶ月のみ)して、神戸は六甲道の牛乳屋さんに住み込みすることになった。

  今考えてもよくぞ、東京から誰一人知り合いもいない神戸まで移動したものだと思う。(一応、神戸外国語大学の夜間部を目指す目標はあったが)

  高校の3年間まったく勉強していなかった私は当然、受験に失敗し、かわりに芦屋にあった専門学校で写真を勉強することにしたのだ。

 水を得た魚・・・とは当時の私のことで、それこそ言葉や文化の違う関西での生活を、カメラ小僧としておおいに楽しむことになった。

 

  今日、展示する写真は牛乳配達する家々を毎月末に集金をするわけであるが、その際に撮影したものである。

 

   

   

   

  いまあらためて観ると、当時の婆様たちは皆、着物姿である!・・・当時私は21才ぐらいで、婆様たちは70代後半〜80代であろうか。

  とすれば、この写真を取ったのは1973年頃なので、第二次世界大戦の時は彼女達は40才代であったであろう。

  彼女たちの屈託のない『笑顔』というのは、戦後の平和を享受する1970年代当時の日本人の『顔』といえるのかもしれない。

  北海道の片田舎で父親もなく育った私は、自国日本の歴史も知らずに漫然とこれらの写真を撮っていたが、写真の腕前とは関係ない次元で

  そういったモノが写真には写し込まれていて、観る眼を持つ者はそういった歴史的背景をも読み取るであろう・・・。

  そういった意味では、いま注目されている『Chat GPT』などの利用も同じような条件を要すると思う。

  

  このお婆さんは、牛乳屋の女将さん。典型的な神戸六甲下町のおばさんで、人懐っこい関西弁で私の名前を呼ぶ声をいまでもよく覚えている。

  ここの牛乳屋さんは、彼女の娘婿さんの代と2世代同居のファミリー牛乳屋さんで双方の兄弟やら孫やらがいて賑やかなファミリーであった。

   

   

  爺様達もこんな感じ・・・といいながら、私も彼等の年齢に近づきつつあるわけであるが・・・。

  今の写真家たちはこういった肖像写真を自由に撮って発表することが許されていないであろう。 

  牛乳配達のあんちゃん+カメラ小僧という立場を利用して、こういった写真を撮ることができた良き時代を懐かしく思う。 


  還暦ギャラリー『森』 〜 密着焼きの中の孤高の"青春”

2023年04月07日 | 必撮無眼流

  私の写真家として五大作品・・・というのがもしあれば、まず第一に取り上げるのが、セルフポートレートの『貰った背広』という作品だ。

  写真学校の学生だった時期に、自分自身を撮る『自写像』を思いつき、日常の自分がどんな風に観えるか?という興味と、

  兎にも角にも、なんの遠慮もなくカメラを向ける事ができる唯一の被写体・・・という理由であったが、

  それは、自己観察の『観』が『自在(自分在り)』の確認欲求であって・・・後に『禅』へと向かう伏線であったのだろう。

 

  この自写像作品『貰った背広』で、写真雑誌『写楽』企画により先日話した『坂本龍一賞』を受賞した。

  またこの作品で新宿のオリンパスギャラリーで個展をした時に、アサヒカメラという雑誌に柳本尚規氏が批評を書いて下さったが

  それまでの私の写真活動の中で、彼の批評こそは私のかけがえのない『勲章』のようで、誇らしくまた嬉しかった。

 

  この批評文の後半に 『自分を理解できるのは自分だけだという、その光り輝く精神の時期、その真っ直ぐな気持ちをそのままフイルムに

  密着焼きしたような作品である』・・・と書いて頂いたが、それを読んだ時、私は初めて自分の作品を『あぁ、そうだったのか・・・』と納得したのを思い出す。

 

  昨日、ブログに『朝倉未来』氏の事を書いたので、彼の第一回目のYoutubeをあらためて観ると、『欲しいものはなんですか?』というファンの質問に対して

  彼の答えは『(自由に生きる為の)金が欲しい』・・・と言ったのが印象に残った。そして今、彼は若くして、その『金も地位』も手に入れたわけだ。

  それに対して、私が20種以上の職を転々としながら人生を歩んできたのは自己の『内なる自由』を絶対に誰にも邪魔させない・・・という自覚と、

  彼とは逆に、『金に煩わされない生き方』を幼い頃から標榜していた事を、この批評文は私に思い出させてくれた。

 


  還暦ギャラリー『森』 〜 Good−by New York 1986

2023年01月17日 | 必撮無眼流

  『Good-by New York 1986 』という私、一撮の作品は正式には未発表。

           

  1985年、86年と2回に渡り計 7ヶ月ほどニューヨークに滞在した時、スナップショットした作品であるが

  撮った写真は、2000年過ぎるまでネガのまま、まったく手を付けずにネガBoxに。

  このニューヨーク滞在は、私にとって実に人生の『ターニングポイント』と言えるものであったのだが、

  その事自体に私は気付かず、濃い霧の中を路頭に迷って自分が一体何をしているのか、何をしたいのかわからず

  精神的に案外苦しい時期であったようなのだ。

          

  私は子供の頃から、自分の思いを誰かに話すとか相談する・・・という習慣というか、発想すらなかったので

  ずーっと遠回りして、ようやっと今頃になって『嗚呼…そうだったのか〜』なんて納得したりしている。

  そういった点、相方のように定期的に『(心理)カウンセリング』を受けていれば、もっと早く色々な事に気付いたかもしれない。

  ヨーロッパでは『カウンセリング』を受けることは、今では一般的であるが、相方の両親の世代では日本人同様抵抗感があるようだ。

          

  1986年というのは私が鍼灸学校を卒業し、居士林での禅の修行にも一段落をつけ、長年の夢であった

  ニューヨークへ行き、写真活動を・・・と淡いアメリカンドリームを頭の隅に描いて渡米したのであるが・・・

  ニューヨークに着いたとたん、私は濃霧に襲われたように頭がボーツとした。(日本〜N.Y間のタイムラグのせいもあり)

          

  渡米するまでの3年間は鍼灸学校に通いながら、土日は円覚寺居士林で坐禅するという『東洋的雰囲気』に浸り

  卒業したらいよいよ海外…と思っていたのが、私の内面では案外に『道』にハマっていたのだと思う。

         

  憧れの地に来た時、私は『虚無』の真っ只中に『落っこち』て絶望していたのだと思う。

  この作品がある程度まとまった時に、無意識的に『Good-by New York 1986 』とタイトルを付けたが

  その後、ヨーロッパ経由で帰国し、円覚寺に直行、老師の弟子(居士として)となって参禅を始めた経緯を考えると

  『長年の夢』にGood-by し、『道』に真剣に向き合うことになったのだ。

                             

  帰国した時には『禅』のことと、生活を支える仕事のことで頭が一杯で、『写真は止めた』と思っていたし

  ニューヨークでの写真にはろくなモノが無いと信じ込んでいた。

  しかし、いま作品を見ると自分の写真作品の中でも一番いい作品かもしれない…と思っている。