ある家には、夫婦二人暮らしだけど歩み続ける家族風景があって、そこには子供が小さい頃にもらった算盤や習字の賞状が、当の本人たちは家を出てしまったのに、今もこの空間の中で誇らしげに掲げてある。
「そんな大したことない賞状だけど」と笑う夫婦は、いつでも外せたはずの賞状を、やはり誇らしげに見上げ、過去と現在の子供たちの姿を思い重ね、時の経過を実感すると共に、今、夫婦がおかれた事情を同じ時の流れの中で確認していく。
その家には、独立した子供たちが紡いだ新たな家族の歩みが持ち込まれ、例えば孫を含む子供たち家族の写真がカレンダーに製本され、月日をめくると共に、壁を彩る家族たちの風景が夫婦を見つめてくれるから、二人はこうして見ず知らずの私に自分たち家族のことを語ってくれている。
たとえ一人暮らしでも、夫婦、親子二人暮らしでも、三世代同居家族でも、そこに家族の片鱗は垣間見え、それを私たちは飾られた写真や賞状、背比べの傷やテーマパークのキーホルダー、間口の大きな仏壇や欄間の埃、手作りのぬいぐるみや読みかけの文庫本、チェーンの外れた通学自転車や庭先の南天などから匂いを感じ、家族の語る物語と共に理解の器に落としていく。
あまり語らない、語りたくない、という家族のナラティブもまた、家族の匂いなんだろうか。
2021.2.12 ジェノグラムから考える事例検討会に思う