Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

焼け跡闇市派

2024-04-30 06:00:00 | エッセイ

 

 

小学校入学時の担任は福島、結婚されて鈴木先生と言った。

何かスポーツをされていたのだろうか、色浅黒く、すらっと均整の取れた体つき。

そんなことをかすかに覚えている。

実は家から50㍍と離れていない近所の薬屋のお嬢さんだったのだ。

その福島先生は登校される際、必ず僕の家に寄ってくれ、

「た―坊(小さい頃そう呼ばれていた)、行くよ。用意できているね」

そう声を掛けてくれたのである。

何せ、先生が僕の手を引いて学校に行ってくれるのだ。

こんなこと、滅多にあるものではない。

素直に嬉しくて毎朝が待ち遠しかった。

 

作家の野坂昭如は、昭和14(1939)年から終戦の年の20(1945)年までに生まれた人を

「焼け跡闇市派」と言った。昭和17年生まれの僕は、そこに属することになる。

団塊の世代のやや先輩にあたり、昭和24、25年頃小学生になっている。

まさに戦後の混乱期の真っ只中にあった。

空襲などといった戦争の記憶はさしてないが、

食糧不足、経済的困窮の記憶ははっきりと残っている。

 

たとえば、米粒の入ったご飯をいただくことはまれで、

父の給料日翌日には、まだ小学生2、3年生だった僕が

ヤミ米一升を買いにやらされた。

その晩だけ、両親、兄、姉、それに祖母も含め9人の家族が、

お粥みたいな、それでも米粒の入ったご飯に群がったのだ。

 

    

 

また、銀行をリタイアした父は、町の小さな鉄工場の経理部長になっていた。

あいにく、朝鮮戦争後の大不況だった。

おそらく給料の遅配、欠配ということが起きていたのだろう。

夜になると、工員さんたちが家に押しかけ、叫び、怒鳴った。

僕は部屋の隅に隠れるようにして、ベソをかいた。

そんなこんなで、「ああ、貧乏は嫌だ」と思い続けながら大きくなったように思う。

 

確かに嫌な思いをすることもあったが、それでも福島先生のこととか、

足が速かった僕には運動会はまさに晴れ舞台であったとか、

小学生の時の楽しい思い出がたくさんある。

同窓会に出席する楽しみもある。

80歳過ぎの爺さん、婆さん10人ほどがワイワイガヤガヤとやっている。

そう言えば、先日書棚をゴソゴソやっていたら同窓会の時の写真が出てきた。

「焼け跡闇市派」の面々が、満面の笑顔だった。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする