73歳だった。
その早い葬儀の日の夜、僕は1人、7、8席ほどが並ぶ
小さなスタンドバーであがた森魚の『赤色エレジー』を歌った。
地方の新聞社に在職した14年間、
その大半を直属の上司として若き日を導いてくれた恩人に対する、
子供じみてはいても、僕なりの心を込めた追悼であった。
順調に歩んでいた入社5年目のあたり、突然のポスト替えだった。
途端におかしくなった。
新たなポストが性分に合わなかったとでも言うか、
仕事にまったく気が乗らなくなったのである。
挙句、ミスを連発、後に聞かされたことだが懲戒解雇寸前までいった。
そんな時、この人は照れを隠すかのように僕から視線をそらし、
ボソボソとこう言ったのだ。
「一つのことをやれる奴は、何でも出来るものだ。
前のポストであれだけ頑張れたではないか。自信を持って前に進め」
ペラペラと言葉を並べた説教じみたやり方ではない。
言葉自体も人の心を動かすには平凡に過ぎる。
なのに、この人が持つ佇まいが、
言葉に乗り移ったかのように僕の背中を強烈に殴打したのである。
本人歌唱です
昭和4年生まれ。少年飛行兵を志し訓練に励んでいる最中に終戦を迎えた。
生まれたそんな世相がそうさせるのか、
それとも持って生まれたものなのか。あるいは相まったものなのか。
どちらにせよ、昭和初期のどこかもの悲しく、憂いを身にまとい、
口数は少なくとも、そのずしっとした佇まいそのものに
何かを語らせるかのような人だった。
言われたように、苦しいながらも前へ前へと進むうちに
自信を取り戻すことが出来たのである。
それが81歳になった今、大過なく暮らせている僕を作ったのではないか。
そう言えば大げさと思えても、
この一事が今日の礎になったのは間違いないことだと思う。
救われたから言うのではないが、
そんな彼をますます尊敬し、単純に好きになっていった。
たまたま2人とも早帰りだったある日、部屋を出たところで一緒になった。
「どうだ」と一言。「はい」とためらうことはなかった。黙って後に続いた。
彼は酒豪の類、対する僕は下戸に等しかった。
それなのに、しばしば「どうだ」と声をかけてくれるのである。
何軒か回り、最後に落ち着いたのが、
客は僕ら2人だけの件のスタンドバーだった。
格別の話をするでもなく、淡々と時を過ごした。いつものことだった。
思い出したように、カウンターに100円玉を置き
「おい あの歌を歌ってくれ」と言った。
流れてきたのが『赤色エレジー』である。
僕はあわててマイクを取り、歌詞ブックを見ることなく歌った。
間中、グラスをじっと見つめ続ける、
その人の体をどこか物憂げなメロディー、歌詞が包み込む。
そして歌が終われば、手酌でぐいっ。その夜もそうであった。
2023年11月29日に掲載したものの再掲です