「『西の伊勢参り、東の奥参り』と呼ばれるほど信仰のある出羽三山詣での登拝口として、大いに賑わった『歴史の里きよかわ』。幕末期には年間30,000人を超える参拝者が清川より三山詣へ向かったと言われています。今回は近世における清川関所の役割を出羽三山詣から紐解きます』
(案内チラシより)
◯会場:清川歴史公園 清川関所
◯スケジュール
受付/12:00-
昼食/12:00-12:50
開会/12:50-13:00 清川歴史公園管理運営委員会
展示品・企画部会長 廣田幸記氏
講座/13:00-14:00:飽海地域史研究会会長 小野寺雅昭氏
質疑応答/14:00-14:10
閉会/14:10 終了後、希望者による清川まち歩き
開会の前に、手打ちそばとそば善哉で腹拵え
思った以上に(失礼?)美味しい手打ち蕎麦でした。ヤマボウシも添えられており、お店の心遣いが嬉しい。満足。
小野寺雅昭氏 清河八郎研究会会長・飽海地域史研究会会長
小野寺先生の講演を聴くのは今日が初めてで、とても楽しみにしていた。
しかし、講演時間が1時間の持ち時間では、レジュメに沿って詳細な解説をするには無理があるように感じた。先生も判っているのか、マクラがとても長く、いつになったら本題に入るのか聴いてるほうが時間を気にしてしまった。
講演を拝聴し、今日の講義を復習し、もっと詳しく調べてみなきゃな……と、 興味を持ついいきっかけになった。
「清河八郎生家の跡」まち歩き
北楯大堰
「狩川城主北舘大学助利長の所領である地域は水はけが悪く、かんがいによる整備が急務であった。慶長17年(1612)立谷沢川の水を田川軍北辺の平野部に引く開削工事が行われ、米どころ庄内の礎を築いた。この堰は利長の名を取って北楯大堰と呼ばれる。平成30年(2018)には世界かんがい施設遺産に登録された。(HPより)」
北楯大堰に架かる御宮橋と御諸皇子神社仁王門
吽形の那羅延金剛(左)と阿形の密迹金剛(右)
立川町指定有形文化財
木造金剛力士立像 弍軀
所有者 山形県東田川郡立川町大字清川字花崎227
御諸皇子神社
指定年月日 昭和52年6月7日
金剛力士像は、通称仁王尊(仁王様)といい、仏法の守護神であるが、向かって右は阿形の密迹(みつしゃく)金剛力士、左は吽形の那羅延(ならえん)金剛で、神仏混合思想を背景に御諸皇子神社に納められた。そして、神仏分離の際に隣の歓喜寺に移され、昭和5年再び神社に戻されて、随神門に安置された。
胎内の記録によると、仏師は酒田中町伊藤権吉の作で、宝暦9年(1759)に計画し、同11年に完成している。
この金剛力士像は、作者並びに時代がはっきりしている点では、江戸時代仏像彫刻の尺度として、江戸中期の数少ない仏像のひとつであり、貴重な存在である。
寄木造 彩色 像高約380cm
平成13年8月
立川町教育委員会
(仁王門前看板より)
(仁王門前看板より)
郷社 御諸皇子神社(ごしょのおうじじんじゃ)本殿
「宮司の口伝によれば御諸皇子神社はもとは尼寺で、明治初期の神仏分離の際に神社となった。そのため、仁王門には木造の金剛力士像が安置されている。現在の社殿は1800年に再建されたが、『義経記』(ぎけいき)に「五所王子」(ごしょおうじ)とあり、創立自体は鎌倉時代以前とされている。義経や武蔵坊弁慶は平泉へと向かう際にこの神社に立ち寄り、一夜を明かしたとされている。御諸皇子神社の御祭神は御諸別命(みもろわけのみこと)で、良縁に恵まれるように祈り、髪の毛を社殿の格子に結んだことから、御諸皇子神社は近年縁結びの神社としても注目されている」
「まち歩き」では「戦争中に夫や父の無事を祈って女性が髪を切って奉納祈願した」とも話しておられた。
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