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アウシュビッツの犬

2021年07月21日 | ヒトゴロシ
 
アウシュビッツで“死の天使”メンゲレに
「四足歩行の犬」にされたユダヤ人少年

アウシュビッツで人体実験を行う「死の天使」として恐れられたヨーゼフ・メンゲレ医師に、犬になることを強要された少年がいたという記録が残っている。四つん這いで走り、吠え、ユダヤ人を嚙みちぎるよう調教された少年の壮絶な人生を、本人の証言とともに振り返る。 

ヨーゼフ・メンゲレ(Josef Mengele, 1911年3月16日 - 1979年2月7日)
ドイツの医師、ナチス親衛隊 (SS) 将校。 親衛隊大尉。




「メンゲレの犬」──これはイスラエルにあるホロコーストとユダヤ人の抵抗の歴史博物館「ゲットー・ファイターズ・ハウス」のアーカイブで、17年前に発見された衝撃的な証言録のタイトルだ。

その15ページにわたるポーランド語の記録には、まるでハリウッド映画さながらのストーリーが綴られている。記録の主人公は、ユダヤ人少年のオットー。彼はアウシュビッツで攻撃犬として振る舞うことを強制され、最終的には、本物の犬ウィリーとの友情のおかげで命を救われたのだった。 

文化研究で修士号取得を目指すタミー・バー・ジョセフは、ホロコーストにおける犬の役割──犬はユダヤ人迫害のために利用されることもあれば、ユダヤ人の命を救うこともあった──を独自に研究するなかで、この証言録を偶然見つけた。

「長い間、この物語にどう接するべきかわかりませんでした。誇張された作り話で、現実離れしているように思えましたし、その一方で、現実に起きたおぞましいホロコーストのさなかであれば、いかにもありそうで妥当な物語にも思えたものですから」

それでも彼女は、最終的にはこの物語が真実であると判断した。決め手となったのは、この証言がアーカイブに収録されるきっかけとなった情報源だ。

証言は、レナ・キュヒラー・ジルバーマンから寄せられたものだった。ホロコースト生存者である彼女は終戦後、約100人ものユダヤ人孤児たちをポーランドで保護したのちにフランスへ渡り、1949年に彼らとともにフランスからイスラエルに移住した。

1987年に亡くなったキュヒラー・ジルバーマンは、『100人の我が子たち』(未邦訳)の著者として知られる。彼女がフランスで世話をしていた子供たちの一人こそ、オットーだったのだ(本名かどうかは定かではないが)。 

オットーの記録は次のように始まる。

「メンゲレ医師がアウシュビッツで囚人らを選別していくなかで、オットーの妹アルシアが母親から引き離された。アルシアは母親にしがみついて離れまいと抵抗したが、犬たちがアルシアに噛みつき……殺してしまった。犬たちは、今度は母親に襲いかかったが、うち一匹を母親が絞め殺した」

「オットーが一歩前に進み出る番が来ると、メンゲレ医師は、オットーを犬のように振る舞うよう調教しろと命じた。過酷な状況下で、オットーは四つん這いで走らされ、吠えさせられ、人々に襲いかかって噛みつくよう強制された」と記録は続く。

のちにオットーは、死んだ牧羊犬の代役として牧場に送られ、1944年11月に処刑場へ移送されるまで、本物の犬と一緒に過ごすことになる。 

一人称で語られるオットーの証言もまた、文書内に現れる。

「アウシュビッツは……死を待つ行列だった。その行列に、母と妹は飲み込まれてしまった。メンゲレが指を1本上げて合図した……妹は母の腕から引き離されそうになっていた。だが母は我が子を離そうとせず、アルシアも手足を母の体に絡ませて強くしがみついていた。そこで奴らは犬たちをけしかけ、母と妹を攻撃させた」 

この描写の後には、オットーの妹の死という残酷な結果が待ち受けている。

「その後、犬たちが母に襲いかかった。ところが力の強かった母は、一頭の犬に反撃した。母はその犬を膝で地面に押しつけ、両手を犬の喉にかけて絞め殺した」

しかし彼女もまた、娘と同じ最期をたどることとなった。

「犬たちは、母を八つ裂きにしてしまった」と、オットーは証言している。

オットーによれば、ヨーゼフ・メンゲレ医師は、このユダヤ人女性に攻撃犬を殺すほどの力があったことに驚き、こう言ったそうだ。 

「残念なことだ、勇敢な犬だったのに。彼は何千人ものユダヤ人を八つ裂きにしてきた。総統に命を捧げてきたのに、汚らわしいユダヤ女に殺されるなんて」

オットーはメンゲレの前に呼び出された。メンゲレは、隣に座っている将校にこう告げた。

「この少年を調教して犬にしよう。そのうちユダヤ人どもに噛みつくようになるはずだ」

オットーの証言によると、彼はこの瞬間から「犬になった」のだった。オットーいわく、「鞭(むち)を手にした奴らは僕を四つん這いで走らせたり、人々に襲いかかって噛みつかせたり、延々と吠えさせたりした」。

この境地にオットーを追い込むべく、「奴らは僕をひどく殴り……食事を与えず飢えさせた。その後で奴らは、僕をけしかけ人々に襲いかからせたのだ」



ナチスに「四足歩行の犬」にされた少年はその後、どんな運命をたどったのか 


アウシュビッツで「メンゲレの犬」になるよう調教されたオットーはその後、牧羊犬として飼育されていた本物の犬ウィリーと一緒に、牧場へ送られた。 ウィリーとの出会いは、一筋縄ではいかなかった。オットーは証言の中で、ドイツ人将校にけしかけられたウィリーに襲われた経緯を語っている。 「ウィリーは背後から襲いかかってきて、僕は肉をひとかけ食いちぎられた。でも僕は力が強かったから、ウィリーの頭を殴りつけた」 彼らは犬小屋の中でその夜を過ごした。「それから、僕たちは友達になった。ウィリーは僕を舐め、夜になると僕を暖めてくれた」と、オットーは付け加えている。 この衝撃的な記録は1944年11月、オットーが処刑場へと移送される時点で終わりを迎える。 「その時、僕を救ってくれたのがウィリーだった。彼は僕をあちこち探し、車両沿いに走りながら大声で吠えた。僕も激しく吠え返し、僕の声を聞きつけたウィリーは車両に飛び乗って、列車に詰め込まれた大勢の囚人の中から僕を引っ張りだしてくれたのだった」 その1ヵ月後、オットーは死の行進に無理やり参加させられたが、彼はこれも生き延びてみせた。オットーは次のように証言を締めくくっている。 「僕は救われた。あの犬のおかげで生き延びることができた。でもそれは重要なことじゃない。この世でただ一つ重要なのは、何よりも復讐だ。すべてのドイツ人たちに復讐してやることだ」 やがてオットーはフランスにあるキュヒラー・ジルバーマンの孤児院に安息を見出すこととなる。証言によれば、当時14歳のオットーは、ポーランド人の両親のもとに生まれ、ハンガリーのブダペスト出身だった。 体力も運動神経も兼ね備えていたが、体は猫背で前傾していた。四つん這いで歩かされていたため、歩き方は不自然で、幅広になった手のひらはマメだらけだった。犬のように飛び跳ねるオットーの背中には、子供たちが乗っていた。 記録によれば、オットーは孤児院の他の子供たちに襲いかかることもあったし、吠える、うなる、噛みつく、四つん這いで歩くなど、犬のような行動を続けていたという。 「ある日、彼は夜中に目を覚まし、吠え始めた。四つん這いで跳ね回り、眠っている子供たち一人一人に吠え立て、最後にはドアに爪を立てて引っかいていた」と記録されている。 「そして彼はベッドの下に這い戻り、まるで本物の犬のように両腕を前に投げ出し、頭を両腕の間において床に横たわっていた」

このオットーの物語を知った研究者バー・ジョセフは、イスラエルの作家ヨラム・カニュクの有名な小説『犬の息子アダム』(未邦訳)を思い出した。同書は1968年に出版された後、50ヵ国語以上に翻訳され、舞台にも映画にもなったベストセラーだ(映画の邦題は『囚われのサーカス』)。 小説とオットーの証言は驚くほど似ていた。『犬の息子アダム』の主人公はアダム・スタイン。強制収容所でナチス将校の「ペットの犬」として奉仕するよう強いられるユダヤ人エイターテイナーだ。 ホロコーストを生き延びた後、アダムはイスラエル南部の都市アラドで精神病院に入院し、そこで犬のように振る舞っていた「野生の少年」のリハビリを手伝うのである。 イギリスのオープン大学で修士号取得を目指すバー・ジョセフは、カニュクの小説についてこう指摘する論文を書いている。 「現実とフィクションの境界、そして人間と動物の境界が曖昧なうえ、それが現実離れした要素と相まっているせいで、ストーリーが飲み込みにくい。登場人物たちが正気と狂乱のはざまの緊迫した状況に置かれていることも、その理由の一つだ」 カニュクの小説の大半は寓話かつメタファーとして読まれていたものの、バー・ジョセフは、カニュクがオットーの証言を知っていて、そこから着想を得たのではないかと考えた。 そのように見ると、『犬の息子アダム』出版と同時期にキュヒラー・ジルバーマンが『100人の我が子たち』の続編を出版していることは特筆に値する。しかも、続編に収録されたある章のタイトルは、「メンゲレの犬」だった。さらにその内容は、ゲットー・ファイターズ・ハウスのアーカイブにある証言録と同じなのである。

カニュクの小説もオットーの証言も、強制収容所でナチス将校に「犬になれ」と強いられた人物の記録だ。どちらの主人公も、ナチスが飼育していた犬と友情を育んでいるし、吠えさせられ、犬と一緒にボウルから食事をするよう強いられていた。 どちらにおいても、ホロコーストでの人間と犬の関係は、虐待と恥辱である一方、生存と救いでもあった。 最後にもう一つ共通点がある。カニュクの小説もオットーの証言も戦後のリハビリ施設に言及しており、施設内ではホロコーストによるPTSDが原因で、人間が犬のように振る舞い続けているのである。 これと似た記述を、カニュクは『犬の息子アダム』より前に執筆し、未刊に終わった小説『石鹸』の中でも残している。カニュクの死後、2018年にようやく出版された『石鹸』では、ある若い女性が強制収容所で吠えさせられたり、ドイツ人将校たちのブーツを舐めさせられたりと、犬のような振る舞いを強いられていた体験を語っている。 「カニュクは間違いなくオットーの物語からインスピレーションを得ていたのだと思います。オットーの物語を誰かから聞いたか、もしくはレナ・キュヒラー・ジルバーマンの著書を読んだのでしょう」と、バー・ジョセフは語る。 「オットーの物語とカニュクの小説は、語りにおいても細かなディテールにおいても似通っています。この事実が、私の研究の論拠になっているのです」 それでも、オットーの身に起きたことを解明しようとする試みは、バー・ジョセフにとって困難な研究となった。キュヒラー・ジルバーマンとともにイスラエルに渡った孤児院の他の子供たちの人生がしっかりと記録されているのに対し、オットーはイスラエルに移住しなかったことが証言から明らかになっている。 オットーは「姿を消し、忘れ去られてしまった。彼の物語は調べられもせず、その運命は謎に包まれたままだ」と、バー・ジョセフは記している。 この謎を深めるかのように、オットーの本名はいまだ不明のままだ。というのも、キュヒラー・ジルバーマンはプライバシー保護のため、自ら救った子供たちのファーストネームを偽名にして出版したからである。 「100人の子供たちの物語はシオニズム運動と、イスラエル建国に貢献しました。多くの人々がイスラエル人としてのアイデンティティを確立する過程で、この子供たちの物語を支持したことは偶然ではありません」と、バー・ジョセフは指摘する。 とはいえ、「オットーがイスラエルに移住しなかったその瞬間から、誰ひとりとして彼の行方を気にかける人はいなくなったのです」。 メンゲレの犬にされたユダヤ人少年は、そうやって歴史から忘れ去られてしまった。


 
 
 
 
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