すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

箱男と山口果林

2017年05月10日 | 書籍


箱男
The Box Man


箱男 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社


安部公房
発行日 1973年3月30日
新潮社



安部公房全集〈24〉1973.3‐1974.2
クリエーター情報なし
新潮社


これは箱男についての記録である。
ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。
頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。
つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。
箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ





安部公房 小説を生む発想 「箱男」について 1

安部公房 小説を生む発想 「箱男」について 2

安部公房 小説を生む発想 「箱男」について 3

安部公房 小説を生む発想 「箱男」について 4



箱男
都市には異端の臭いがたちこめている。人は自由な参加の機会を求め、永遠の不在証明を夢みるのだ。そこで、ダンボールの箱にもぐり込む者が現われたりする。かぶったとたんに、誰でもなくなってしまえるのだ。だが、誰でもないということは、同時に誰でもありうることだろう。不在証明は手に入れても、かわりに存在証明を手離してしまったことになるわけだ。匿名の夢である。そんな夢に、はたして人はどこまで耐えうるものだろうか。
— 安部公房「著者のことば」



オナニーに忙しい中学ー高校時代 
その合間にシュールリアリズムにドハマリ 安部公房にもドハマリ

「箱男」は最初 近所の永和図書館でなんべんもなんべんも借りた挙句 単行本を購入
なんべんも なんべんも読んでいたはずなのだが その内容はさっぱり覚えておらず
大人になって文庫本で買い直すも めんどーちくって 先が進まない小説

子供の頃の僕は多分 そーゆー現実からちょっとズレた考え方や表現の仕方がカッコエエと思っていたふしがあり 
勘違いなのかどーなのか未だに判別はできないが
当時はカッコエエと思っていたにちがいない
今は別にカッコエエとは思わないが 時々 触れてみたい 考え方や表現方法ではある
全集もトビトビに購入するも売却済み

BSでやっていた安部公房のインタビューを妻の人が一生懸命録画してくれたが
めんどーくさくって まだ視聴しておらず
とゆーか この安部公房とゆー人の喋るお話が 
小説とちがって全然オモンナイと思うのである 
安部公房劇団の芝居を見に行った時も 
安部さんの解説がオモンナイなーとびっくりした記憶がある 
それよりナマ山口果林が見れたことに感動してたん

山口果林という芸名は愛人の安部公房が考えた

「怖い人たちが来て、僕を禁治産者にする手続きをしようとしていたんだ」山口果林『安部公房とわたし』

やっぱし大人になってからは 山口果林と安部公房の不倫話のほーが
めっさ盛り上がってまいます
すんません

安部公房とわたし
クリエーター情報なし
講談社


「週に一、二回の逢瀬。急流に溺れそうな私を、しっかりと繋ぎとめてくれる安定感と信頼感を安部公房に感じていた。本体の自分自身を取り戻す、貴重な、かけがえのない時間だった。
 ただ当時、私はこの恋愛関係の持続には懐疑的だった。焼却始末してしまった日記にも書き記していた。安部公房も熱病のような状態は、何処かに落ち着き先を見つけて着地点に至るのでは、と考えていたのではなかっただろうか? 酔いが醒めた時の恐ろしさを夢に見ると言っていた。三年、長くて五年……。「安部公房スタジオ」として、一緒に芝居を作る場所が確保されれば、おのずと関係は変質していくのではないか。私はその間、できる限りのものを吸収する。別れの時期も克服して、女優と作家・演出家の立場での同志になれればと考えていたように思う。」

「ふたりで、チェス、オセロゲームに嵌る。ダーツやピストルのおもちゃも買わされた。「クイズ・ヒントでピント」の商品で、大理石のようなアラバスターのチェスセットを貰った。チェスに嵌った時期は手を覚えるのに随分勉強した。安部公房は強かった。自分が勝つと機嫌が良いのに、私が勝つと途端に不機嫌になり、二回戦には応じてくれない。子供みたいに負けず嫌いだった。
 私は仕事の待ち時間用に、小型のコンピューター・オセロを持っていた。我が家で、安部公房の訪問を待つ間にもよくやっていた。そんな私を安部公房は、しばらく馬鹿にしていたが、結局プレゼントさせられる羽目になった。仕事に疲れるとよく手にした。」

 「いつのことだったか、「次の世紀に生き残る作家は誰だと思う? 三人挙げてみて」と聞いたことがある。安部公房は少し考えて「宮沢賢治、太宰治……うーん」三人目の名前はなかった。自分だという思いがあったのだと思う。」
 
「安部公房の死の経緯がスポーツ新聞に掲載されたことで、「山本山」のコマーシャルから降板されられたのはショックだった。マネージャーは呼び出され謝罪したという。謝罪すべきことだったのだろうか。私の二十五年間は償うべき人生だったのだろうか。」


グラフNHK No 263 繭子ひとり 昭和46年4月1日発行


『安部公房とわたし』山口果林著 人生賭けた悲運の不倫劇

ついに書かれたか、という思いがある。還暦を過ぎたベテラン女優の山口果林さんがノーベル文学賞候補作家・安部公房との二十数年にわたる秘められた愛の日々を初めて告白したのが本書だからである。これで安部の死因が従来いわれてきた急性心不全ではなく前立腺がんだと分かる。

 私のドラマに出演してもらったのは昭和59年だったが、今回、その時には妻と別居した安部と半同棲(どうせい)の暮らしをして4年目であったことを知った。平成5年1月に安部は68歳で死去したが、病状が悪化し入院するまでは果林さんのマンションにいた。これは一部マスコミに報道されたが以後は遺族側への配慮から消えてしまった。その結果、愛人の果林さんは本人曰(いわ)く「透明人間」となってしまった。存在していなかったということだ。だから安部の妻も死去し没後20年の節目となった今年、名誉回復をはかるべく安部を深く愛し、愛された女はここにいる、といいたかったのだ。それでも筆致は冷静で、ありがちな思い入れたっぷりの情緒的なものではない。安部的だ。

1960年代後半、安部とは大学で23歳年上の演劇の師と教え子という関係からスタートした。親しくなると安部から「書くの辛(つら)い」と悩みを打ち明けられる。小説『砂の女』『他人の顔』と世界的な傑作を放った後、新たな方向を模索していた時期だった。安部は愛の対象として若く新鮮な果林さんを必要としただろうが、創作のための刺激的な存在としても必要としたのだと思う。“村社会”的な共同体を否定し、都市に生きる意味を探る前衛的な安部の世界は70年代になると当たり前のものになりつつあったからだ。時代が追いついてきたのだ。安部はさらに実験的な方に向かうことになる。その困難な戦いを癒やす相手を求めていたのだろう。面白い試みもしている。募集していたテレビのサスペンスドラマの脚本を共作したことだ。安部の病状が悪化してきた時、結婚の話が出るが死去とともに断念せざるを得なくなる。果林さんは人生を賭けて悲運の不倫劇を演じ切ったといえる。

(産経ニュース 2013.9.22)

安部公房伝
クリエーター情報なし
新潮社


安部公房評伝年譜
クリエーター情報なし
新泉社

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