『人を殺したかしら?』
芥川龍之介
芥川は学生の頃、江戸時代のこんな怪談をノートに書き写している。
……北勇治という人が帰宅したところ、自分の居間の机に誰かが座っているのを見つけた。背中を向けているので顔は見えないが、髪型や服装が自分と瓜二つだ。 「自分の後ろ姿を見たことはないが、おそらくこれとそっくりなのだろうな」 そう思った勇治は、顔を見ようと足早に近寄る。すると男は振り向きもせず、障子の細い隙間から庭に抜け出てしまった。慌てて障子を開けてみたが、外には誰の姿もない。 家族にこの話をすると、母親は無言で眉をひそめた。勇治はまもなく病気になり、その年のうちに亡くなった。実は彼の祖父も父も、同じように自分の姿を見た直後に病死していたのである。母親はこの「影の病」を知りながら、ずっと秘密にしていたのだ……。
芥川自身は“もうひとりの自分”を目の当たりにした経験はない。
ただ、知り合いが彼によく似た人物を目撃したという話なら耳にしている。
その知人とは女優の山川浦路。アメリカ映画界で活躍した俳優・上山草人の妻で、芥川の記述では「K君の婦人」と紹介されている。
芥川は彼女から突然「先達はつい御挨拶もしませんで」と謝られ、困惑してしまった。帝国劇場の廊下ですれ違ったのだという浦路の説明に、なんら心当たりがなかったからだ。 それから十年経った、とある春の日。ぼんやりと死の不安に襲われた芥川は、鏡に映る自分を見つめるうち、突如このエピソードを思い出した。その一か月後に招かれた新潟の座談会でも同じ話を披露しているから、この時期の芥川には印象深い記憶だったのだろう。
そんなものは錯覚か人違いではないのかという同席者に対し、彼はこう反論した。 「そういってしまえば一番解決がつきやすいですがね。なかなかそう言い切れないことがあるのです」 それは思わぬ予言だったのかもしれない。
同じ頃、芥川は『人を殺したかしら?』という短編を書いていた。
主人公の画家が女性ヌードモデルを雇うが、そのモデルを絞め殺す夢を見たことを境に、彼女は行方をくらましてしまう……
というだけの非常に短い話である。これは殺人の告白なのか、物語全体が夢なのか、はたまたドッペルゲンガーの存在を暗示しているのか。語り口そのものが不安定に揺らぐ、どこか危うい小説だ。
ただし、この作品は発表されなかった。
昭和二年七月二十四日、芥川が服毒自殺したためだ。
死の一週間前、芥川はなぜか『人を殺したかしら?』の原稿を新聞記者の前で破り捨てている。
ただ不思議なことに死亡当日の朝、廊下には「破棄」の但し書きとともに同作の原稿束が置かれていた。
その文末に記された脱稿日、昭和二年五月二十六日も謎である。
新潟に滞在中の芥川が東京の自宅に戻ってくるより前の日付だったからだ。
芥川は二十代半ばから「二つの手紙」(一九一七)、「影」(一九二〇)といったドッペルゲンガー怪談の小説を発表していく。
いずれも自分と妻のニセモノ(?)が出現する話で、もうひとりの妻に不倫の疑惑がかけられる点でも共通している。
もっとも実際には芥川自身のほうが、秀しげ子・片山広子という二人の女性と不倫の泥沼に陥り、長年にわたって精神を病んでいくことになるのだが……。
「二つの手紙」は、ドッペルゲンガーを妄想として笑い飛ばすような面も窺える小説だ。
しかし三年後の「影」ではそうした客観的視点が薄まり、ギリギリの緊張感、暗い暴力性に拍車がかかっていく。これには不倫相手の秀しげ子と出会った直後だったという状況も、理由の一つに挙げられるだろう。
また時系列的に見れば、「影」の執筆時期は確実に、 山川浦路による芥川のドッペルゲンガー目撃事件の後となる(※「二つの手紙」はこの事件後か微妙な時期)。
たった一件の目撃情報が芥川の精神を追い詰めたとは考えにくいが、少なくとも心のしこりにはなっていただろう。
遺作のひとつ「人を殺したかしら?」は、芥川全集収録の「夢」増補改訂作として一九六八年『芥川龍之介未定稿集』にて初発表された。
編者の葛巻義敏はこれを「芥川最後の原稿」と主張。その理由は、先述の怪談パートで紹介した不自然な状況による。
(1) 芥川が死の一週間前、原稿を東京日日新聞の記者の前で破り捨てたこと。
(2) しかし死亡当日の朝、廊下に同作の原稿束が置かれていたこと。
(3) 文末の脱稿日付(二・五・二六)=昭和二年五月二十六日は芥川が新潟にいた日付なのであり得ない。
つまりもっと遅い日付で再執筆したのだから、芥川最後の原稿なのだという。 その主張の是非はともかく、芥川の死体すぐ近くの廊下に「人を殺したかしら?」の原稿束が置かれていたという情景は、想像するだけで悪寒が走る。ドッペルゲンガー妄想とリンクするような内容も含め、実に不穏な小説作品ではないか。
吉田 悠軌(怪談、オカルト研究家)
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